雨の庭、ひとりの一日、落ち着くね

あれこれ手を入れて、ますます充実したベロ亭の庭、ジキタリスの背の高い咲き始めた花の向こうには、アーチの上に一番花を咲かせたクレマチス。70ほどのふくらんだ蕾の最初の開花です。
シリーズ花、にしちゃいました。最近、別のところをかなり使ってきたから、実は、そのかたわらで手抜きもしないで、着々と春の花の手入れを私一人で、昨日辺りは、テーブルの移動もあって、植木鉢をいくつも動かしたら、木の腐食とかが判明して、ヒデコが一刻をあらそう忙しさなのにペンキをぬったりで、いよいよ庭はひとつの大きなまとまりを持ちつつあります。
まとまりったって、私流のまとまりなので、どこ流なんてありません。ケイコ流に、時にヒデコ流が加わります。
変わったことは、アーチが二つになったこと。
それから、前にボビンケースの大きいのを、電機関係の電線をまく工場に行って手に入れたのを、3段積み重ねて、見事に!アレンジしましたよ。そこは真夏、必要な日射しが不足気味なので、背を高くして面白くしてみたのです。今日の写真には入らなかった左端になるんですが…。
今日見てもらいたいのは、右端と左端の両アーチ。右端のてっぺんにかすかに紫に見えるのがクレマチスの一番花。見えるかなあ。ジキタリスは、湿度に弱いので玄関の軒下なので、右に一メートルくらいに育って咲いている白が綺麗でしょ。
ジキタリス、時期足りす、と出るんです。そんなことないのにね。この変換、あまのじゃくだな。
実は、ジキタリスも、デルフィニュームも、ターシャ・デューダーの庭にあった、とりわけ印象的な花でした。
前にもあったのかもしれませんが、最近この辺りの園芸コーナーでも苗が売っていて、デルフィニュームにいたっては、小さな小さな百円で二個買えるくらいの苗を大きく育てているところです。
去年からはルピナスも手がけています。去年は大きく育ったのをあまりに個性的で美しくって、購入しましたが、今年からはデリフィニュームと同じように、小さな苗から四つ育てています。
これも、どうもあんまり雨ってだめですね。
ここ数年で、なにが日射しにつよく、なにが雨に打たれてもびくともせず、なにが軒下の日射しだけのところがよいか、なにか西日に弱いか、水切れしやすいのは、根腐れしやすいのは、どこにでも生えて庭を占領しそうなのは…なんてことが、もう仲良くするほどに、その植物植物の性質がわかるようになりました。
雑草といまや、並んで生えているのもあちこちに…。最近はさすがに雑草もすごいから。
その合間から、せりやふきも収穫しています。
ところで、この辺では最近はもう、タケノコはないというから驚きです。
もはや、しょっちゅう、運転していると遭遇するイノシシ君の食べ物にすべてなってしまっているといいます。
ここのところ、いただいたタケノコでタケノコご飯も食べています。
隣村なんてタケノコが売りの村だったんだけれど、どうしているのかな。
さて、今日からヒデコは敦賀で陶芸教室です。今日は2時からお試しコースで、夜は6時45分から。
昨日から、クラスをやるのに、あれこれあれこれ細かい準備をしていました。
私もできることはしましたよ。クラスをやるということの大変さは、日本語授業で経験済みですから、やはり受講生の一人一人からどう創造性をそこそこ引き出せるかに、賭ける彼女は、やっぱり「教える」というより、「伝える」にもかなりな才があると思います。
私がしたのは、透明なつやのや色のついた瓶のシールはがし。水につけてふやかしてから洗います。それから、園芸に使うつもりのプラのお皿をちょいと貸し出し。それから。それから、お弁当をつくりました。
私が日本語教室を汗だくでしている2008年夏頃、彼女のお弁当にどれだけ助けられたかわかりません。
出前できる近くの食堂のメニューも貼っておいたけれど、一度も使いませんでした。教えるのって、ものすごくエネルギーを使うので、ふっとした休憩時間って、できるだけ余計なことはしたくないものです。
彼女の今日の休憩は長いけどね。4時半頃から6時半ころまで…。
ハイエースのうしろの座席で寝られればって、小さめの毛布と小さめのクッションも出際に渡しました。
私は、日本語クラスの時には、隣の小さなスペースにベッドを置いて、時に仮眠を取りました。
だって、朝9時からの人のためにめちゃ早起きしたり、深夜11時からの人のために、体力をつながなければならなかったりしましたから…。あれもこれも、日系ブラジル人の労働条件の悪さをこっちがかぶった結果でしたが…。
あの教室も大家さんの都合もあり、たたんでからそろそろ1年…。
預けっぱなしの荷物のことも、そろそろ考えないといけませんね。忘れていたいくらいだけれど。
でも、私は日本語を教えるのは、ものすごく精神衛生にいいんですよね。
街中なら、車の往復にさして時間が取られずに、クラスができるのになあ。
せめて個人レッスンくらいしたいところだけれど…。
外は雨。実は私の書斎からは、庭はひとつも見えません。庭は南側。
私の左側にある出窓
…これも10年くらい前に知人の大工の心得のある人に、壁をぶちぬいて作ってもらった…は北側。
ものすごく広い、一枚の田んぼがここからは見渡せます。
雨と風に、田植えしたての水面がなぜられるようにしわだつように、波打っていく。
その間に雨の点々がちりばめられる。
この季節はひととき、湖面が隣り合わせになったような風景です。
あっという間に、稲が生いしげっていくのですけれど。
『ロスト・シティ・レディオ』、少しずつ読んでいます。
1頁読むごとに、リアルな描写とたくまず豊かな表現力にうなります。
リアルなのは、単にリアルということではなく、そこに脈々とある熱気、乾き、絶望、渇望のようなものがひたひたと押し寄せるように入ってくるからです。
それでも、人は生きている…。そういう作者の声があるような気がするからです。
へルター・ミューラーは、もっとてごわい。記憶するしかなかった断片を、
もう一度、モザイクのようにつないで、フリーダ・カーロのようにも、グリム童話のようにも組み立てる。
読む側もエネルギーと集中力が必要です。
のえの音源を起こしたのは、4回目の『かえりみち』ですが、
昨夜、1回目から3回目をもう一度聞き直しました。
長居公園の行政代執行…強制退去…の直前、
その少し後、もう少し後、そして4回目は三ヶ月近くあとのものです。
『大切なご近所さん」だった長居公園の野宿者のテント村が奪われる、
という体験に、のえがどう向き合ったのかが痛々しいほどの表白とともに、
語られ、唄われています。
このCDを持っている人は、のえ亡き後も何度も聞いたか、
聞けなくなったか、その時期にもよるでしょうが…。
のえは「すみっこで歌いつづける」決心をも語っています。
自分がどれほど日陰の存在かを身に染みていたように思います。
いろいろな意味で、様々な入り口出口からも見たり触れたりしつつ。
どんなにこの世に折り合いがつかない人間かにも、
いやおうなく向き合っていたのが伝わってきます。
すごい覚悟で…。
今日は庭は雨。
雨の春の一日。ひとりの一日。
少しだけ、ペンキ塗り立てで置けなかった植木鉢を新しく、
配置を考えて並べてみたり、植え付けたりしたあとに、写真を一枚ぱちり。
クレマチスは50はついているな、と思っていましたが、
おととい本気で!で数えたら、70のツボミでした。
よく育ったなあ。下を花壇にしたのも大きいんだなあ。
EM堆肥も入れているしな。
ヒデコはたった今、お試しコースのクラス中。
うまくやるでしょう。ただ、初めての受講生、初めての場所、
…先日下見こそしたけれど…、
単に仕事としてだけではなく、
彼女らしさがちゃんとに発揮できるような、
そんな道作りを紛れもなくしているとは思うけれど、
伝える相手に小出しにしつつも、そういう方向性が花開くといいなあ。
私は私で、最近、一度に沢山のことができなくなった、
執筆作業にぼちぼち向かいます。
外は雨。ひとりの一日。
良い感じだ。
ケイコ
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