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雨の庭、ひとりの一日、落ち着くね




あれこれ手を入れて、ますます充実したベロ亭の庭、ジキタリスの背の高い咲き始めた花の向こうには、アーチの上に一番花を咲かせたクレマチス。70ほどのふくらんだ蕾の最初の開花です。

シリーズ花、にしちゃいました。最近、別のところをかなり使ってきたから、実は、そのかたわらで手抜きもしないで、着々と春の花の手入れを私一人で、昨日辺りは、テーブルの移動もあって、植木鉢をいくつも動かしたら、木の腐食とかが判明して、ヒデコが一刻をあらそう忙しさなのにペンキをぬったりで、いよいよ庭はひとつの大きなまとまりを持ちつつあります。
まとまりったって、私流のまとまりなので、どこ流なんてありません。ケイコ流に、時にヒデコ流が加わります。

変わったことは、アーチが二つになったこと。
それから、前にボビンケースの大きいのを、電機関係の電線をまく工場に行って手に入れたのを、3段積み重ねて、見事に!アレンジしましたよ。そこは真夏、必要な日射しが不足気味なので、背を高くして面白くしてみたのです。今日の写真には入らなかった左端になるんですが…。

今日見てもらいたいのは、右端と左端の両アーチ。右端のてっぺんにかすかに紫に見えるのがクレマチスの一番花。見えるかなあ。ジキタリスは、湿度に弱いので玄関の軒下なので、右に一メートルくらいに育って咲いている白が綺麗でしょ。

ジキタリス、時期足りす、と出るんです。そんなことないのにね。この変換、あまのじゃくだな。

実は、ジキタリスも、デルフィニュームも、ターシャ・デューダーの庭にあった、とりわけ印象的な花でした。
前にもあったのかもしれませんが、最近この辺りの園芸コーナーでも苗が売っていて、デルフィニュームにいたっては、小さな小さな百円で二個買えるくらいの苗を大きく育てているところです。
去年からはルピナスも手がけています。去年は大きく育ったのをあまりに個性的で美しくって、購入しましたが、今年からはデリフィニュームと同じように、小さな苗から四つ育てています。
これも、どうもあんまり雨ってだめですね。

ここ数年で、なにが日射しにつよく、なにが雨に打たれてもびくともせず、なにが軒下の日射しだけのところがよいか、なにか西日に弱いか、水切れしやすいのは、根腐れしやすいのは、どこにでも生えて庭を占領しそうなのは…なんてことが、もう仲良くするほどに、その植物植物の性質がわかるようになりました。

雑草といまや、並んで生えているのもあちこちに…。最近はさすがに雑草もすごいから。
その合間から、せりやふきも収穫しています。

ところで、この辺では最近はもう、タケノコはないというから驚きです。
もはや、しょっちゅう、運転していると遭遇するイノシシ君の食べ物にすべてなってしまっているといいます。
ここのところ、いただいたタケノコでタケノコご飯も食べています。
隣村なんてタケノコが売りの村だったんだけれど、どうしているのかな。

さて、今日からヒデコは敦賀で陶芸教室です。今日は2時からお試しコースで、夜は6時45分から。
昨日から、クラスをやるのに、あれこれあれこれ細かい準備をしていました。
私もできることはしましたよ。クラスをやるということの大変さは、日本語授業で経験済みですから、やはり受講生の一人一人からどう創造性をそこそこ引き出せるかに、賭ける彼女は、やっぱり「教える」というより、「伝える」にもかなりな才があると思います。

私がしたのは、透明なつやのや色のついた瓶のシールはがし。水につけてふやかしてから洗います。それから、園芸に使うつもりのプラのお皿をちょいと貸し出し。それから。それから、お弁当をつくりました。

私が日本語教室を汗だくでしている2008年夏頃、彼女のお弁当にどれだけ助けられたかわかりません。
出前できる近くの食堂のメニューも貼っておいたけれど、一度も使いませんでした。教えるのって、ものすごくエネルギーを使うので、ふっとした休憩時間って、できるだけ余計なことはしたくないものです。
彼女の今日の休憩は長いけどね。4時半頃から6時半ころまで…。

ハイエースのうしろの座席で寝られればって、小さめの毛布と小さめのクッションも出際に渡しました。
私は、日本語クラスの時には、隣の小さなスペースにベッドを置いて、時に仮眠を取りました。
だって、朝9時からの人のためにめちゃ早起きしたり、深夜11時からの人のために、体力をつながなければならなかったりしましたから…。あれもこれも、日系ブラジル人の労働条件の悪さをこっちがかぶった結果でしたが…。

あの教室も大家さんの都合もあり、たたんでからそろそろ1年…。
預けっぱなしの荷物のことも、そろそろ考えないといけませんね。忘れていたいくらいだけれど。
でも、私は日本語を教えるのは、ものすごく精神衛生にいいんですよね。
街中なら、車の往復にさして時間が取られずに、クラスができるのになあ。
せめて個人レッスンくらいしたいところだけれど…。

外は雨。実は私の書斎からは、庭はひとつも見えません。庭は南側。
私の左側にある出窓
…これも10年くらい前に知人の大工の心得のある人に、壁をぶちぬいて作ってもらった…は北側。
ものすごく広い、一枚の田んぼがここからは見渡せます。

雨と風に、田植えしたての水面がなぜられるようにしわだつように、波打っていく。
その間に雨の点々がちりばめられる。
この季節はひととき、湖面が隣り合わせになったような風景です。
あっという間に、稲が生いしげっていくのですけれど。

『ロスト・シティ・レディオ』、少しずつ読んでいます。
1頁読むごとに、リアルな描写とたくまず豊かな表現力にうなります。
リアルなのは、単にリアルということではなく、そこに脈々とある熱気、乾き、絶望、渇望のようなものがひたひたと押し寄せるように入ってくるからです。

それでも、人は生きている…。そういう作者の声があるような気がするからです。

へルター・ミューラーは、もっとてごわい。記憶するしかなかった断片を、
もう一度、モザイクのようにつないで、フリーダ・カーロのようにも、グリム童話のようにも組み立てる。
読む側もエネルギーと集中力が必要です。

のえの音源を起こしたのは、4回目の『かえりみち』ですが、
昨夜、1回目から3回目をもう一度聞き直しました。
長居公園の行政代執行…強制退去…の直前、
その少し後、もう少し後、そして4回目は三ヶ月近くあとのものです。

『大切なご近所さん」だった長居公園の野宿者のテント村が奪われる、
という体験に、のえがどう向き合ったのかが痛々しいほどの表白とともに、
語られ、唄われています。
このCDを持っている人は、のえ亡き後も何度も聞いたか、
聞けなくなったか、その時期にもよるでしょうが…。

のえは「すみっこで歌いつづける」決心をも語っています。
自分がどれほど日陰の存在かを身に染みていたように思います。
いろいろな意味で、様々な入り口出口からも見たり触れたりしつつ。

どんなにこの世に折り合いがつかない人間かにも、
いやおうなく向き合っていたのが伝わってきます。
すごい覚悟で…。

今日は庭は雨。
雨の春の一日。ひとりの一日。

少しだけ、ペンキ塗り立てで置けなかった植木鉢を新しく、
配置を考えて並べてみたり、植え付けたりしたあとに、写真を一枚ぱちり。

クレマチスは50はついているな、と思っていましたが、
おととい本気で!で数えたら、70のツボミでした。
よく育ったなあ。下を花壇にしたのも大きいんだなあ。
EM堆肥も入れているしな。

ヒデコはたった今、お試しコースのクラス中。
うまくやるでしょう。ただ、初めての受講生、初めての場所、
…先日下見こそしたけれど…、
単に仕事としてだけではなく、
彼女らしさがちゃんとに発揮できるような、
そんな道作りを紛れもなくしているとは思うけれど、
伝える相手に小出しにしつつも、そういう方向性が花開くといいなあ。

私は私で、最近、一度に沢山のことができなくなった、
執筆作業にぼちぼち向かいます。

外は雨。ひとりの一日。
良い感じだ。

ケイコ
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| シリーズ花 | 13:56 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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ピエール・ド・ロンサール、なんちゃって

帰ってきて、検索してみたら、なんなんだー、
十六世紀のフランスの宮廷詩人の名前ではないかー。

今日は、毎月お決まりの28日の特売デー。
行きつけの園芸店に行きました。
もう、車で到着寸前まで、二人はまた一発触発。

ぱっと切り上げて、私は車を降りる。
ヒデコは別の用事、
実はあるちょいと大切なおっちょこちょいの後始末。

不機嫌の延長で、花選びにしばらく集中できない。
おなかむずむず、胸がおもたーい、しんどー。

少しずつ、花を選びながら、別のお客さんと例によって話す。

そう、一つ35円のなんだっけ、アリッサムの赤めのと、
ダークベルグデージーをふたつとよっつ選ぶとき。
「これ、冬も持ちますよね」と女の人が店員さんに訊いている。
私も仲間入り。
「アリッサムは持つときと持たないときとあるけど、
こっちの黄色いのは消えちゃいますよね。」
そうそうって店員さんとほぼ同時に説明…。
いい感じ。

そんなにあれこれ購入する必要はなかったんだな。
もう庭はかなり花でいっぱいだから、一点突破方式。

いくつか、ぴんときた花やら、つよさをしっているのやら選ぶ。

そうそう、ひとつ10円の白いビオラも三つ。
なんか、安いのってエライって意識してしまうの、
安いのって恋してしまうの。


さて、今日の目的のバラの花を見る。
つるばらがどれかよくは判らないので、
結局顔見知りの店員さんに訊く。

つるばらはもうあまりなくて、ちょうどいいのがない。
一種類だけあるのは、よりによってピンク、ピンクなのだ。

彼女は言う。
「ピエール・ド・ロンサールがいいんですよ。
そう、アーチになら、花がたっぷりしたカップ状になるので、
下に自然と垂れ下がるんです。だから、それがあるといいんだけど…。」
「いいこと、教えてくださいました。メモしときますね。」

新しくなった鞄からいつも持っている付箋に書き込む。
…この鞄は、2週間前に突然ぶっこわれてその場で買った、
もう使い尽くしていたからファスナーあっという間に壊れた…

ピエール・ド・ロンサール。
「なんか、これフランス名ですよね。」
顔見知りの店員さん、中年の物知り顔の良い感じで頷いたような。



ヒデコ、間もなく合流。おっちょこちょいの解決つかず。
逆に、もしかしてそんなに重大なおっちょこちょいではないと判明。
たぶん、そういうことだろうな。

金曜に行けなかったクリニックに行く。
なんか受付の人、センセーと私の関係でも知っているのかしら、って対応。
いや、何も知らないかもしれないけれど、なんか丁寧でいい感じ。
これからも、受付どまりだといいけれど、そうもいかんでしょうね。


処方箋もって目の前の薬局へ。
あれっ、ヒデコは車にいないのって戻るとトイレから出てくる。
「ねえねえ、こんなのあるよ」って薬を朝昼晩寝る前と、
一週間入れられるつりさげられる袋みたいなのを見つけた私は、
ものすごい発見みたいに伝える。
「いいやん、いいやん、こういうのほしかったの。
買ってよ。」
「えっ、私が買うの。まあいいや、買ってやろう。
ひとつ百円だから、二袋そう、二袋ね。
2週間ごとくらいにしないと意味ないしなあ。」

良いものゲットしたね。ヒデコ、大事なお薬のんだかのんでないか忘れるしね。


それから、いつも行く、ベロ亭に近いホームセンターは急きょやめて、
クリニックから近い大きなホームセンターに行くことにする。

車を降りる。
見える、見える。
目的の花壇つくりの煉瓦とか…。

それからそれから、用事が片付いてから、そうだっ。
思い出した。
つるばら、蔓バラ…。

ちょいと見る。
「ほら、ほら、ここにはこんなにいろいろあるねー」

びっちりバラバラバラが並んでいる。
ぱっと目に留まるものあり。

「あったー、ピエール・ド・ロンサールじゃないの。」

素手でひっつかもうとして、薔薇さまは私の手をひっかく。
こういうのはけっして痛くないの、私。
棘がささっているって、ヒデコに言われてから気づくくらい。
人の口から出る棘のほうが痛いの、私。
おっ、棘を抜いたら血が出てる。
おりゃ、名前と説明書いた札に血が付いた。

知ーらない。


なんだかんだ並べて、他のバラも店員さんにとってもらったり、

札の色と、咲いている花と色が違うのに文句つけたり、
…これは我々の間違いではなく出荷元の間違いだなどと言ってた、
そんなこと聞かなくていいの。札、かえなよ。
というより、ほかのも花の色のまちがいないの、咲いていないやつの…

カートについている軍手に気づいてして、自分で、もっと取り出したり、
そのうち、薔薇に詳しい、いかにもーって中年の女の店員さんが、
薔薇初心者の私の求めに応じて、薔薇の講釈が始まる。
こういうの聞きたかったんだ。
あれこれあれこれ訊く。裏技まで聞いちゃった。

それにしても、園芸店の詳しいタイプって似てるよね。
これはこの県タイプの園芸タイプかー。
ものすごく詳しい。詳しければ詳しいほど無表情。
あれこれあれこれ、
のめりこむのを食いとどめるように教えてくれる。

     表情が自然な人って、
     意外と広く浅くものを知ってるんだよね。
     

やはり、初心者だし、丈夫だし、育てやすいし、
最初に「運命の」血まで流す!出会いをした、
ピエール・ド・ロンサールに決める。
決めるまでに一時間、ヒデコは食糧の買い出しやらにも出向く。

ピンクのバラはいやだったんだけど、
ヒデコはバラは赤でしょう、と言っていたし、
私は、「白バラ」の、あのナチスドイツに反逆した若者二人にちなんで、
白バラにもしたくて並べたりもしていたんだけど、
…いずれにしても私は花はいちばん白が好きなのです…
ピエール君が、ピンクと白で、
白が時間とともにうすみどりになるとも聞いて、
納得、納得。


私が小学校時代を過ごした京成バラ園製のなんか、
安易に選んだらだめなんだわ。
なんかすごい漢字の和名なんかついてるしね。
ものすごーくマニアックなんだから。

ああ、京成バラ園ってねえ、谷津遊園にあったんだ。
くらくら、子供時代が甦るではないか。

二週間ほど前にアーチを見に行った、
別のホームセンターで、
京成バラ園の土、って袋が重ねてあっておったまげた。
あそこは、薔薇の本家本元ー?!

人生をかったるそうにはかなんでいる姉さんと、
なんの屈託もない無邪気な私がバラ園でつったっている写真。
父さんが撮ったの、何年か前に見たけどね、
あそこには、菊人形というのもあって、
京成谷津遊園はミニディズニーランドであり、
白雪姫のお城なぞがあったりして、
だから、私はこの市内の菊人形も、
東京ディズニーランドも行く必要がないというか、
あきちまったんだな、子どものころに行き過ぎて…。

父さんは、薔薇つくりに土日ごとに精出していた頃もあった。
せっせー、せっせー。
やはり、園芸好きは父さんも姉さんもなのかなー。
姉さんは忙しすぎてやめたけどねー。
父さんは庭のない都内に越してからはやめたけどねー。

いつも、谷津遊園にはただのチケットでなぜか通っていた。
京成電鉄とつるんでいたのかしら。
うちの家族って。
千葉の、わたしも、のえも入る気ない霊園も京成だよねー。
いや、あれは市のかな。
違う、住んでいた家が「京成住宅」だったんだ。
去年の秋にその場所まで思いたって50年ぶりに行って、
近所の「よろずやさん」が教えてくれた。
…本当に「よろずや」って看板だったんだよ…
あそこは京成住宅だったのだ。
あの下総平野ののっばらに、
突如、昭和三十年に建った二十五軒は、
そう、京成住宅だったんだ。


かくして。

かくして、ピエール・ド・ロンサールなんて、
薔薇ブランド製品がうちのものとなりましたとさー。


安いです。

30㎝ほどの小さな接ぎ木苗だし、
…接ぎ木部を土で埋めたらだめってアドバイス、
詳しいマニアックな店員さん…

薔薇にしては1,000円ぽっち。
それでも大決心。
バラが別の次元にまで園芸ってものを深めるって、
そんなことくらいは知っていましたから…。


いやあ、買っちゃった。
どうしよう。

なんて、言いつつ、
帰り道は、ピエール・ド・ロンサールの「ド」はねえ、
なんて偉そうに話す。
スペイン語は結婚している相手の姓だけどさあ、
この「ド」はねえ、
シモーヌ・ド・ボーボワールの「ド」。
伯爵だか貴族だか、そういうのにもったいぶってつけるんだよ。
だから、ボーボワールはシモーヌ・ヴェイユに、
あれだけ劣等感を持っていた、とかなんとかかんとか…。



ボーボワールはあの「第二の性」の、サルトルのパートナーよ。
  二人のシモーヌは、同時代を生きた天才。
  ボーボさんは、地道に著作で自分の人生に向き合い続けた。
  ヴェイユさんは、あの時代の飢餓に魂をかけて、
  ほとんど何も口に入れないような食生活の中で、
  独特の思想を形成した。「重力と恩寵」とか…。
  今は、シモーヌ・ヴェイユはいかにも発達系の、
  異様な正義感を発露し続けていたんだってわかるけどね。
  こうした行動力がボーボさんを刺激し、自分にはできないと思わせたんだ。
  これは、仏文専攻していた姉さんから聞いていたことに、
  私の今の解釈を加えた。
  もう、うるさいほど聞かされていた。あーだこーだって。
  で、私はずうっと、ヴェイユさんに惹かれていた。なるほどね。


フランス話題が行き過ぎた。
さて、ピエール・ド・ロンサールに戻る。


帰ったら検索開始、
研鑽けんさん。
あとは内緒。




うーむ、咲かすぞー。
ウェディングドレスか、
ウェディングケーキのように、
プライベート・コミュニティガーデン・こうのとり、にね。

そう、新しく購入した格安アーチを豪華に豪華にいたしますからね。
でっかいけれど、ぐらぐらするのは安いせいかな。


いやいや、豪華なのはきらい。
ただ、ただ、自然と咲かすのみ。


ベルサイユの薔薇を、
いやはや、トーマの心臓だい。
…萩尾もとですよ。…






花咲かばあさんするんだもん。
花咲かばあさん上級コースするんだもん。


立ち直ったか、不機嫌ばあさん。


ケイコ


追記  そろそろ緊急声明を発表しようかと思案中。
    単なる不機嫌である訳なしい、
    いや、日本人の不機嫌はどなたも解剖する必要はありだろうけど。

| シリーズ花 | 23:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ケイコのパーソナルガーデン こと始め




あんまり春めいてきたので、思わず動き出していました。

ヒデコ特性キッド?の風除室もどきのガラス戸の中の、パンジーやら、
金魚草やら、デージーやら、
あんまり春めいたので、昨日の搬入の勢いつづきか、
それに、ヒデコが今日は外でご飯食べられるくらいだねって言ったからか、
ともあれ、ごそごそと重い植木鉢もいくつか、
工夫して力をあまり使わないような感じで、それでもやっぱり、
よっこらしょって運んで、
この辺で、やめておかないと腰と腕に来るぞ―って、
警告が出る前にはやめたけれど、
うむ、これで外でお客様とも話せるぞ―ってところまで、
きれいにしました。

落ち葉など下のほうの掃除は、明日ヒデコがやるって、
たしかさっき言ってたよなー。

私のガーデニングは、めちゃくちゃ経済的なんですよ。
ここまで花が沢山だと勘違いされるけれど、
これらのパンジーはみな、雪をかぶって一つ30円で売っていたときのを、
すでにかなり大きくしてしまったのがほとんど…。

ふふ、窓際にまだあるゼラニウムなんか、
一鉢150円のをその二十倍くらいの大きさに育ててるしー。

外は、私が水やりしたり、並べ方をあれこれ思案したり、
えっちらおっちらやってるときは、けっこうパーソナルガーデンなんですよ。

心にいつもはしまってある、
花を生けておきたい気持ちを花を植えることに変えている…、
そんなところもあるんだなー、ってのは去年ふと気づきました。

この作業が入ってくると、少し元気になってくる。
やにわに元気になったりもする。

このパーソナルなものをこめたガーデンを、
もう一人の住人はコミュニティガーデンとか言っちゃってるのも、
また面白い現象ですよね。

さあさあ、パーソナルなコミュニティを求める人が、
ぽつりぽつりとでもいらっしゃるといいのかなー。

ふふふ。
プライベートコミュニティガーデン、ケイコ&こうのとり、
ぼちぼち、春がき始めています。
ともかく、季節の春は…。

ケイコ 

| シリーズ花 | 01:57 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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園芸もウォーキングも再開、春はまだ



上の写真は風除室内のゼラニウムと金魚草とロベリア。
パンジーの苗も見えています。
暖かくなると水やりも日常的になるなあ。
外に植えたパンジーやデージーも雪におおわれたあとに、また復活して、咲いています。
雪国はなかなか大変。あとはパソコンからまた。

携帯でアップして、3時間半後です。
一仕事してから、このブログにかきたし。

ゼラニウムは、もともと南米の花ではないかな。
雪や霜にあてなければ、
冬中咲いているえらい花です。

前はどことなくとっつきにくい感じがしていたけれど、
ペルーのクスコですっかり好きになったのです。
そして、冬場につよいから私は信頼したのです。

キンギョソウは、
12月21日の花。
これは今、私が執筆中の人の誕生日です。
これもまた、微妙な形の花なのに、
なかなかたくましく、寒さにつよい。

ロベリアがもう何年も同じ株がもっているのは、
ある程度の大きさに育っていることも大きいのでしょう。

外で冬越し大丈夫のお墨付きで冬越しした、
いくつかの花木、草花…おおい生きているかい?って、
今日、声かけしましたけれど、
こればかりは、五月くらいまで待たないと判らないのです。


大阪であれ東京であれ、
ランタナの大きく育った低木が、
道端や踏切の近くにあるのには、いつも、
楽してんなあって、思います。

そもそも、ここは太陽光発電もあやうい日照時間のところです。

植物の条件はおのずと違います。


ランタナ。
それを言うなら、やはりクスコの近郊のユカイ村の、
プラザ…広場の周囲を囲んで、
生い茂っている低木の囲いを思い出します。
あれを思い出すと、冬になると、もう大きくならないんだよね、
それにやっぱり枯れるんだよねって、
ここで育てているランタナ君に声かける時の、
ここでの寒さや日照時間について切なく少し思います。

リマでは、
ブーゲンビリアは四季を問わず咲き続けました。
あの大きな木の葉の先が花みたいに色が変わる…。

台所の窓際で、なんとかいのちをつないでいる、
ハイビスカスは、ペルーでは見なかったなあ。

やっぱ、どんなにここで室内で守ろうと、
風除室で雪をよけようと、
冬をこせない奴は冬をこせないんだなあ。

台所の床の上のブーゲンビリアは、もう枯れ木。



人の環境や背景もこんなものなのかもしれないですね。


いつも、春を迎える前に、
冬越しできた花と、
冬越しできなかった花とを見つめながら、
思う思いの質も、なんだか深く深くなっていくみたいです。

でもね。
冬を越してこそ、大きく育つパンジーやビオラ。
要するにスミレたちもいるんです。

この地のお米もそうでしょう。
この地の大根もそうでしょう。

あのうまみ、あの辛み、あの甘み、
どれも、冬の寒さを通りこして、深まっていくのです。


まあ、日本のどこでも夏越しできない植物については、
あんまり思わないでいるかもしれません。

パンジーもデージーも、
幾つもの春の花が、
思いのほか、夏の暑さにはかなわない…。


こちらのほうがもしかしたら、
温暖化問題を考えたら、もっと大変になる花とかあるかも…。



でも、冬は雪国ではやっぱりひとつの大きな節目です。

そして、人の人生の冬もまた、
ひとつの大きな節目です。


何度来ても冬は冬。


何度来ても夏は夏。


春ばかりつづいても、何も考えられなくなっちゃうかもね。
雪を知らなかったら、
私は季節のおもみを、もっともっと知らなかったことでしょう。


ケイコ

| シリーズ花 | 17:07 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ターシャにならって、ありったけ盛った花は尽きないグリーフワークだなあ



今日は花瓶でなく、古越前の壺に、庭の嵐があけた後の花たちを、ありったけ投げ入れてみた。思い思いの向きに伸びているから、投げ入れも工夫がいる。

後方にあるのは、仔猫5匹と親?猫2匹とが、前向いて、おのおのらしい表情たっぷりの、お気に入りのカレンダーの絵。
うむ、かつてのベロ亭ファミリーに見えるんだよね。

あとは、例によってパソコンを立ち上げてから書きますね。もう一度見てね。

ケイコ


すでに半時間後に、パソコンに向っています。
なんだかポカンとしています。
こういう時間って必要なんですね。
で、庭の花をもいで!!投げ入れたりにほっと一息。

昨晩、精神も神経も、心も魂も、
ちょいと、極限的な疲弊まで行きましたね。

なんということなく、仕事もし、資料も読み、
最近よくかかってくる息子の電話も取り、
なのに、突然それは起りました。
昨日は余り寝ていなかったかも…。

それに、トーキョー行きが決って、
モッキンバード風に言うなら、
私は「自由休憩」状態という、
大波に揺れる小舟がなんとしても、
うまく船こぐんだよってな感じの、
キンチョー状態に突入していたのだけは確かです。

ゲーゲー、突然吐きました。
ごめんなさい。読者の皆さま。
でもこれが私の現実。
パニックも起こさないし、
あんまり、最近は英子ともぶつからない。
まだ、そんなふうになって短いとはいえ。

それで、自分の心とからだを信じていたら、
からだの方からNO! と来ましたね。

英子がある若者に会うのと、
さっきミケランジェロ展に行くのについていこうかと思ったけど、
一人会いたい方の都合が合わず、やめにしました。

で、花なんか投げ入れて遊んでいた。

…ご自分をいたわるのをためらいますな…

この言葉の奥行きとか、私にとっての意味を考えています。
あるいは、あのタイミングで言われた時に持つ、
どうにもならない抵抗感のようなものについて…も。

そう、いたわらなきゃだめなんだってのは、
よくよく知っています。
だから、この執筆もここまでかかってもいます。

それでも、いたわらせてくれない現実にも向き合う。

ああ、やっぱりブログ書いていたら、
『自由休憩』状態に胃の辺りがなってきたあ。


今、私はある大変困難な章の仕上げをしています。


この章については、ほぼ誰とも共有できないような、
そんな体験と痛苦とを通過しています。
昨日も、原稿を書いているとフラッシュバックに陥るほど。
そうだ、書いていて、いきなり気分悪くなったんだ。

この章は、のえの人生とはとりあえず別物なのに、
それをふりかえり、それを人々に公開? したことのおもみって、
誰も、誰ひとりとして、
共感も共有も、なかなかできないと言うより、
まず、そんなこと望めないことなのかな、って思います。
これって、それを選択した私たちの側の気持ちのことですよ。


そして、それはまさにあの番組の描かれかたのことなんですが…。


それでも、あのシーンに励まされた。
自分の大切な人とのことに向き合う勇気をもらった。
そう私に直接言った人は何人もいるんですよね。

その事、大切。
それから、今も、
あんなに、穏やかに深い事柄をいきなり話せる場、
日本中さがしても今もどこにもないはず…。


そう言われたのもお宝。「のえルーム」のことです。



私のガーデニングはややアディクションめいてもいるけれど、
でも、これで誰にも迷惑かけていないし、
むしろ、私以外にもほっとしている人がいるし、
昨日なんかは、この前の段階の、ヒデコの花瓶に乱ざししたのが、
ヒデコのフェイスブックにアップされて、
「いいね」が乱発されていたみたいです。

田舎の素朴な人から、
新宿二丁目のレディドラッグクィーンまで。
40人くらい??


そうそう、今日のこの写真の花は20種類くらい。
花の名前言うのは疲れるからやめます。
昨日は12種だったんだけど-。

下の写真は、一輪のルドベキアをたした状態。
一輪が加わるだけでこんなに違う。

そういう花も、
そういう人も、
そういうワンフレーズも、
あるんですよね。



はてさて、原稿の続きはできるだろうけれど、
トーキョーに無事行かれるように、
平静で穏やかな心を回復しなくちゃなあ。
今日は取り戻しているけれど、
何に取り組んでも、そうでなくっちゃなあ。


それから、
私のいない間の花の水やりも、
あの方たちに頼まにゃなあ。

ありゃ、
やはり、
少し胃がおもい。



さっき、
五木寛之がまとめた、
「わが心のスペイン」をひっぱりだして、
読んでいた。
これってスペイン戦争のことをまとめた本だったんだ。

へえっ、へぇっ、てな感じ。
『蝶の舌』とか、
『ペーバーバード』がまざまざと甦ります。
この二本、借りられるから見られる人見てねー。
ものすごく良い映画だよん。



最近、自分の書庫が、まるで図書館のように甦っています。
すごい蔵書!!?

その中に、
そう偶然だかなんだか撮りだした一冊に、
今の私の心境にびたりの長編詩があって一気読み。

ここに全部書き写したいほど。

それは、スペイン戦争が終わってから、
失ったものの全てをみつめなおすような詩。
どこにも拠ってたたないような、
意思のありかだけが確かな、
そして言葉のリズムも向うところも、
余りに自然に入ってくる詩。

だけど、多くの人には判らんのかも。


こういう詩が入ってくる今の私って、
どこにいるのかな。

スペイン戦争はスペインのものだけではなく、
世界を語る時には、何もかも抜きにできない、
そんなものとして語られている一冊。

筑豊も、朝鮮半島も全てつながっているという…。


きっと、
私は今、
日本の『内線』を凝視しているから、
すいすいと読み取れるのかもしれません。
ぐいぐいと入るのかもしれません。


こわいな。
どっちを向いてもこわいな。

どんなマイノリティも。
どんなファミリーも。

マイガーデンを離れて、
トーキョー行くの、いやだよん。


年甲斐もなく「自家中毒」の夜が明けた。
どうしようもないなあ。

ったくー。


ケイコ

| シリーズ花 | 16:40 | comments:5 | trackbacks:0 | TOP↑

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