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新書「死別の悲しみに向き合う…グリーフケアとは何か」 偶然見つけて図書館でゲット、読みながら残った30数本の付箋をたどるとーやっぱりあった「お元気そうで何よりです」でぞっとする、そりゃそうだ…。

新書「死別の悲しみに向き合う…グリーフケアとは何か」
坂口幸弘著を読了
偶然見つけて図書館でゲット、読みながら残った30数本の付箋をたどるとーやっぱりあった「お元気そうで何よりです」でぞっとする、そりゃそうだ…。

夕方手にとってから二時間はかかってはいない。夕食前にほぼ読了、即残りを読む。
とことん理解しているはずの事柄の再確認的読書だから超速読なのは当然だ。
あっという間に付箋だらけ。全部とは言わないけれど、皆さまとのつなぎ目になりそうな、そんな箇所から幾つか、相当数、引用と私なりの解釈というか理解を開示しようかと思う。

「はじめに」より。
「多くの人は、死別という体験に関してほとんどなにも知らないままに、みずからの身をもって大切な人との死別を経験することになる。あたかも泳ぎかたを知らず、救命具もない状態で、悲しみのウミに放りこまれたようなものである。それでなんとか自力で岸までたどり着ける人は多いが、果たして広く深い悲しみの波間で、もがき苦しみ、助けの手を必要とする人もいるだろう。」
これはなかなか良いたとえとして出しているな、と思う。そうそう、誰も知らないんだよ。早い話が、こんなに大事なことを学校でも、会社でも、地域でも、隣近所でもないふりしているのが日本という社会というか世間様。みんながみんな、海でもがいていたり溺れそうになっているとしても、その様子を見せなければ見ないでいい。見えても隠していたほうが良いと勝手に判断して見なかったことにする。という訳で、
「その体験とどのように向き合っていけばよいのか。どうすればその人の力になれるか」を概説したのが、この講談社新書の内容ってところ。著者は若干40歳の大学のセンセー。凝縮してまとっているから、確認的読書てしてはありがたかった。研究者として謙虚な姿勢を保っているのも好感度はあり。ただし、むろん私の未来の著書のほうが書きこんであるという事実も確認済み。

とはいえ、今日知った新種の表現もあり。
「矢先症候群」。身につまされるよなあ。
私の母は、クリーニング店をやめて間もなく、これから老後という矢先に癌で余命数カ月の宣告。その倍は生きてくれたけれど。もっとずばり悲しいのは、のえのこと。のえは、自閉症と診断された矢先だった。私と二人三脚で歩く歩ける、という矢先だった。

2章の「悲しみの諸相」の最初の小見出しには「遺族だけが死別を経験するわけではない」とある。あったりまえだろう。だからSotto虹をやってるんじゃないか。ふたつ目の小見出しは「公認されない悲嘆」。
はい、まさに私たちの課題です。「表立って悲嘆をあらわすことや、支援を求めることが社会的に容認されていない人びとにスポットライトを当て、全米なんとか協会のなんとかさんが「公認されない悲嘆」と名付けたそうな。
名付けたからどうなんだーって言いたいけれど、そういうものがあるってことだけは判るわけだよね。

「その一例が、いわゆる遺族ではない、恋人や友人、同性愛のパートナー、以前の配偶者や恋人、病院や介護施設の同室者などであり、遺族と同等、もしくはそれ以上に強い悲嘆を経験する可能性があるにかかわらず……」と続いていきます。
そのあとには、JR福知山線脱線事故で婚約者を亡くした女性が1年半後に自殺した例を述べています。
もう少し頁をめくると、配偶者の死別体験と自殺との関係も指摘されていて、中年以降の男性と女性では、配偶者を亡くした人の自殺率が男性で2、8倍、女性では1、9倍と高いことが明記されている。
グリーフケアが広がりつつあることも記されているものの、自死遺族については数行のみ。「自殺対策基本法」に「我が国の自殺対策の大きな課題の一つ」と位置付けられているそうな。

前から、どこから派生した言葉が知りたかった「複雑性悲嘆」についても了解。
これはそもそも悲嘆そのものがどれほどつらく凄まじいものであろうと病気ではない、というところから来ており、しかし病的とも言える段階のものを「病的悲嘆」としていたのが、やや侮蔑的ということになり「複雑性悲嘆」となったとのこと。
基本にあるのは故人の死を信じられないという思い。故人を忘れたくないからしがみつくというのが遺族の態度であるとされる、というのに、なるほどと納得。
PTSD症状の特徴である恐怖刺激の回避が「複雑性悲嘆」では顕著ではない、うんぬんかんぬん。なるほどなるほど。
するとだ。私はやはり紛れもなくPTSDであると言えそうだ。
番組以来の忌避感、沈黙の壁、無理解な言動…それらへの「恐怖刺激の回避」衝動は今も私確かにつきまとっているものなあ。つまりだ。娘を亡くした喪失感よりも、その二次被害によるPTSDが常態化している、という証文みたいな文面さ。

さてはて、その甚大なる二次被害に入りましょうか。
「思いやりの言葉」がほぼ遺族には、
なんの慰めにもなっていない事実が挙げられている。
「大往生でしたね」「がんばってね」「あなたがしっかりしないとだめ」
「元気?」「落ち着いた?」「気持ちの整理つきましたか?」
わざわざ説明するのもばかばかしいけれど、ええっ、これって慰めにならない訳って、読者は思っちゃうんでしょうか。
つまり、誰が言っているか、誰がなんのために言っているかがここでは問題なのです。
「大往生」であったかどうか決めるのは遺族だろうし、
遺族を前にしてなンとなく使っている言葉は、いったい誰のための言葉なのかを、あらためて考える必要ありますよね。個人的な興味による問いかけ、その場しのぎの表面的な励ましが、届かないのは当たり前です。
ただし、どんなに場違いだったり、不器用でも、届くものは届くんですよー。
そこに血が通っていればってことです。表情や態度もそこにはある訳ですからー。

さて、二つの名文は飛ばしましす。もったいないし、講談社から怒られない程度にしたいし。つまり、この一つは私が引用したいかもってほどの言葉でもあります。内諸―。

おっ、出てきたな。「レジリエンス」という概念。
弾力とか反発力という物理学用語が転じて、心理学用語になった「回復力」「復元力」。
そして、それとセットで「希望」、はい希望です。
で、希望を呼び寄せるユーモアの介在も語られる。
ははーん、「のえルーム」ではそれなり笑ってましたよね。
のえがいかに食いしん坊だけは周知の事実だったし、他にもアイツーってのはありだった。

それから付箋のついているのは、苦しんでいる人のそばにいる「いる」だけの大切さ。どんなに自分の無力さを思い知らされようと、そばに居続けることこそがケアだというたてかた。気の利いた言葉を無理に絞り出す必要がないときだってあるんだよなー。

また、飛ばします。これは本に生かすぞ。引用しようっと。ああ、もったいない。

遺族の体験を詮索するな。これは基本中の基本。ましてや自死だったらなおさらのこと。いったいこれを何回これまでにやられたかなあ。大学のセンセーすら無自覚なんだもんな。

「誰かが電話をかけてきてくれて、「どう?」って聞いてほしかった。」
私もおおいにそう。まだ間もない頃、のえの幼い頃を知る友人はそういうところがあったけれど、彼女とはそもそも途絶していた理由があったから、一時期を自覚的に担ってくれたあとは、そっと退いたような感じ。そうして、今こんなふうに訊いてくれるのは、ああ、まさにだよー、息子のカラだけだよな。前には娘のサナエもそういう姿勢はあったけど。でも、一人でもそういう家族がいるって大事だ。むろん、英子とはいつも分かち合っている。時にどうにもならないこともあるけどね。お互いに「どう?」って言いあえる家族のつながりって大事、大事だよなあ。
ただ、断言できる。友達には一人もいない。こちらが声をかけたら言ってくれる人は何人かはいる。だけど、自らそう言ってくる人は一人もいない。それは断言できる。つまり、私たちには一人も支援者も友人いない。少なくとも喪失体験にかかわってくるという点で。

第三者が故人の思い出を語ってくれる重要さ、それに亡くなったと聞いてきちんとお悔やみの姿勢を見せる重要さ、全くみんな気づいていないよね。ほーんの一部の「痛み」にきわめて敏感な人のみ実行してくれたことは数少ないけれどあるなー。
のえが音楽好きだって知っている小中学時代の同級生の存在を知ったときの、すうっと胸を撫でおろすように気持ちが引いていくその感覚、その穏やかさ、誰もに知ってほしいと私は思う。故人が社会とともにあった、という確認は、他者、第三者ととにあったということでもあるのだ。

はい、ありました。親しい人との死別は自殺の危険予測因子のひとつだと。
特に、子どもとの死別や自殺による死別の場合…とある。
ほめてほしいよ、恵子さん、よく生きて来たよ、よく生きた来たーって。
誰も褒めてくれなくとモ、自分で褒める。新しい勲章を出します。

死別体験者をサポートする側になる場合のストレスの度合い。
これはなぜか、私はいたって大丈夫なのです。正直に素直に、まっすぐに、くねくねしていたって、ちゃんとに自分の苦悩を出してくる人たちとは大丈夫、まったく大丈夫なのです。
それより…ね。
それより、この土地でも、あのマイノリティでも、
偽善がまかりとおっていること、
嘘がまかりとおっていること、
喪失の喪失とも言える状況が包囲して、
私たちをサポートする人なんて現れっこないこと、
それこそが課題なのですぞ。
はい、それに疲れたからずっと休息していました。
人間をしばらくやめていました。すうすう眠ってばかりいました。

この筆者は、「立ち直る」って言葉を講演で使って、
聴衆の夫を亡くして数年という女性に怒られています。
私も思いますよね。「立ち直るなんてことはない」と。
この著者の言う「回復」はまだしも「適応」も違うと思う。
この論考と思索においては、私が先を歩いていると思います。
本のほうにしたためましたので期待していてくださいまし。

若林一美さんの一節よりまたも引用。あら、まだ知らないかもね。
「悲しみそのものは、その人の心のもちようによって変化するものであるが、現代の社会では、その傷口は癒されるよりむしろ、深く広くえぐられていくことが多い」。
はい、まさにそのとおり。

結び。
「悲しみにくれる人を孤立させないことが重要であり、彼らを取り巻く人びとや社会において、悲嘆に対する正しい理解と共感が望まれる。」
あったりまえだー。なんで、こんなことまだ誰もほとんど知らないんだよ~。
私は五年もかけてこのことに向き合っているっていうのにさー。

あれ、「お元気そうで何よりです」忘れました。どこいったかな。
これを言われるのがいかに残酷で、いやなことか、お墨付きを得た感じなんですが、付箋をめくっても引用したい箇所が見つかりません。
読みだしてすぐ見つけて、私の二回の体験の違和感がここで折り紙つきー、になったんですが。ということでこれは次回にお預け。

この文面は、推敲も加筆もしないつもりです。
あるグリーフケアについて概説した新書の、私なりの備忘録として、ここにアップすることをご了承願いたいと思います。

2016年1月28日 恵子
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