≪緊急提言≫アウティングで追い詰められた一ツ橋大学の自死を巡って痛切に思うこと……カミングアウトは、性的少数者のみならず、全ての少数者弱者にもかかわるもの
≪緊急提言≫アウティングで追い詰められた一ツ橋大学の自死を巡って痛切に思うこと
……カミングアウトは、性的少数者のみならず、全ての少数者弱者にもかかわるもの
最初に、オリバー・サックスの自伝より、彼がオックスフォード大学時代にゲイとして愛の告白をした相手が、丁重に「君の思いには応えられないけれど、お互いの友情は何一つ変わらない」という意志を貫き通した例から入ろうと思う。オリバーはあの映画『レナードの朝』で、今は亡きロビン・ウィリアムズが演じた医師その人である。ドクターで偉業もなし、また物も書くという人。彼が初恋で告白した相手は、遠い大陸から来ていたアメリカ人の青年で、才能に溢れた天才的な学生だったと書かれている。
しかしながら、彼はやがて難病になり帰国。オリバーは数年後、片思いながらも初恋の相手が死去したことを知らされる。そして、その時の痛ましい思いを記している。
この自伝は長編で、大学時代の最初のほうと、『レナードの朝』に関わる章立てだけを読んで図書館に返した。オリバーの初恋をこんなふうにしみじみと知ったことが切なかった。
こんなふうに成りたたない愛を、丁寧にデリカシーに満ちた対応で応じられない旨、応えた例は巷に溢れているはずだ。相手が性的少数者である場合はもちろん、在日であったり、障害者であったり…。むろん、異性愛者でも成り立たぬ恋であったり、などなど…。
あるいは、家族に自殺の例があって、足踏みされたり…結局ふりきられたりなど。(これについては、ある分かち合いで深刻な例が打ち明けられていた…。)
むろん、ニュースにもほぼ忘れられた感のある相模原の殺傷事件の際の、被害者の名前が公表されないというのも、クローズにせざるをえない背景があるゆえというのは承知している。その上で、個々の名前があってこその追悼ではないか、とあえて投稿もした。
発達障害や精神障害の場合、就労支援の現場で、ハンディをクローズにするかオープンにするか、といった選択もあり、そういう表現もされる。どちらを選んでもストレスなりプレッシャーはある。しかし、オープンにするという時には、よほど周囲の理解がなければ障害名だけが一人歩きして曲解を招いたりなど、困難な例も多々あることだろう。
さて、一ツ橋大学でのアウティングの経緯などは、シェアした記事から読んでいただきたい。これはきわめて深刻な例だ。自殺に至った男性の側のカミングアウトが、いかに命がけの行為だったか、相手が一切想像力を働かせていない点が恐ろしい。しかも、恋愛対象となった相手に、そのことをもって告白しなければならない、という事が、どれほどのプレッシャーとストレスを伴うか、そしていかにデリケートにして個人的な事柄かが、全くと言っていいほど伝わっていない。
それまではきわめて親しかった関係のなか、最初は「受けられないけれど友情は変わらない」と言っておきつつ、告白された側が徐々に、そして急速に、どんな感情に耐えられなくなったのか明らかにされなければ、このような事件はなくならないような気がする。
そこにあるのは、明らかにホモフォビア…性的少数者を訳もなく忌み嫌う感情…としか思えない。当初はそれまでの友情の蓄積ゆえに持ちこたえていたものが、告白されてしまったという衝撃に耐ええず、アウティングという加害行為とも言えるアクションへと移っていった辺りが厳しく検証されなければならないところだろうが、このような行為はきわめて無意識にして悪意に満ちいてるので、なかなか認識されないところだろうし、認識されたとしても、すでに相手が亡くなっているなか、口が裂けても語らない、という方向づけが「身を守り、事態から目を背ける」多くの日本人の身の処し方である以上、当たり前になされるのだと思う。
今までに一体何回、カミングアウトとアウティングの違いについて、口を酸っぱくするほどに繰り返し話し書いてきたことだろうか。
これがなかなか判らないのである。
この二つの対象的とも言える違いを見事クリアーできる日本人は、ごくわずかだというのが、繰り返し伝えてきた結果、私がかみしめている実感である。日本人の多くには、この違いは、きわめてレベルの高い社会性が問われているのである。
それは、日本という国が異質なものやら、あらゆる違いやらを受け入れがたい、という点に象徴される現象だ。つまり、どんな人であれ、その人がその人自身であることを疎外し許さない「二次障害を生みだす社会」が放置されているからである。
もう何度したか判らない説明を、今日も繰り返す。
カミングアウトとは、自己の尊厳と誇りをもって、社会的にいまだ認知されにくい、あるいは全くされていないアイデンティティやマイノリティ性を、自ら明らかにする行為をさす。自ら…という点をけっして忘れてはならないし、尊厳と誇りが、きわめて繊細で、時に危うくもある思いとともにあるということも忘れてはいけないと思う。
つまり、命がけの行為なのである。
かたやアウティング。こちらは、善意悪意を問わず、当人に断りなく、他者にそういった、社会的に認知されていないアイデンティティを漏らしてしまう行為をさす。善意悪意を問わず、ということを忘れないでほしい。善意をもって知らせたつもりが、広がるうちにすさまじい悪意に行きあたる例だっていくらもある。
一ツ橋大学の案件を見ると、そもそも打ち明けられた側がいつしか、その事実に耐えられなくなったとしか思えない。耐えられなくなった時、それではどういうふうにそんな自分に向き合うかが、今や日本人の誰もが問われているようにも思える。
しかも、彼らは法律家となるべく道を歩んでいる学生たちである。そこはきわめて厳しい人権意識をもって自身を問わずにはすまないはずのところだったと明瞭に思う。
あるいは、もはや他者に言わずにはすまないところまで、何らかのもやもや感、差別観やら嫌悪感に基づき追い詰められたとしても、第三者機関とも言うべき然るべき相談機関があるべきではないのか。むろん、相談する相手は、性的少数者の実情に明るい人間であるべきだし、真摯に告白した側の必死であったろう姿勢を、むやみと傷つけない対応がどうなされるべきか、そして、告白された側にやむなくあったろう「やりきれない思い」がいかなる変化をへて、まともな思いとなりうるか、共に悩める相手でなければならないだろう。むろん、守秘義務は徹底されなければならない。
痛ましい限りなのは、自死に至るまでのゲイの彼の心身の変化である。これについては私も身に覚えがあり、容易に想像できるところである。ただし、私の場合は性的少数者であることをもってなされた言動を背景にしている訳ではない。それだけは明らかにしたい。
ともあれ、これはイジメ自殺と全く同じ構造をもってしまっている。アウティングは精神的暴力、ハラスメント、アイデンティティクライシスを招く行為と言っていい。
私は義務教育のなされている校内で起きたイジメ自殺で、提訴した両親が嗚咽しながら、「私たちばかりが丸裸で、周囲は鉛のように押し黙って何一つ言わず語らず、学校もどんな説明もなく…」と語るのを目の当たりにしたことがある。
さて、私たち二人の現実に戻ろう。
私たちは、5年前、性的少数者として公共放送のドキュメントをもって、カミングアウトをしたと言える。
だが、どんな時も、どんな人にも、そのことが周知されていてほしいなどとは、露ほども思わない。そんなふうに人権意識が確立した日本社会ではないことは、都会であろうと地方であろうと、何も変わらないことを熟知しているからである。
そうして、明らかであること明らかにすること、と、曖昧のままであること曖昧のままでいいこと、と、伏せていること伏せていいこと、とを往復しながら生きていると言える。
そして、多くの場合は、レズビアンという表現も、…ましてや、レズビアンマザーとして、子どもと共に破天荒に生き抜いたおもみなど、性的少数者にはむしろ、とても理解されないことをも知りぬいている。
それよりも、「英子ちゃんと恵子ちゃんはどんな関係よりも、大切にしあっているし、この上なく信頼しあっているよね」と言われることに甘んじているというより、そういう表現のほうが信じられると確信している。
性的少数者の課題には、最近はほとんど近づきたくない思いがつよい。これほどまでに、人を押しのけ、上にのし上がることのみに邁進している少数派のアクティピストたちを垣間見るのは、私には心身の毒となることのほうが多い。彼らの多くは、LGBTという記号と、6色の虹の旗をのみ、正義の御旗として大切に思っているように映るのである。
人間にはやむにやまれぬ様々な生活や、人生の切迫した要請がある。処さなければならない理不尽な出来事も多々ある。それらを切り捨て、ステレオタイプに物事をあてはめることに私は耐ええない。けっして耐えたくはない。
私のもっぱらの望みは、世界中からレズビアンマザーで、「かくれ発達障害」の子どもを自死で亡くした人を探しだして、その人と思う存分語り合うことである。
私自身の痛み、喜び、嬉しさ、悲しみ、それらはすべては私自身のものでしかない。
しかしながら、「うたうたい のえ」の生き切った、唄いきった人生のすべてへの頷きとともに、断腸の思いで娘の自死の事実をも差し出した番組で受けた、性的少数者からのバッシング、沈黙、忌避、いやがらせ、誤解曲解の類いは、今だに左の脇腹の痛みをぶりかえし、フラシュバックで眠れない夜をも呼びさます。
かなり免疫ができてきたとはいえ、やはりそれらの無神経な対応にはいまだに慣れないし、慣れなくていいと思っている。
それは彼らが、私たちのドキュメント番組に、レズビアンとしてのカミングアウトしか見なかったからである。自死でノコサレタ家族としてのカミングアウトの、繊細にして限りない意志と悼みをこめた思いを、けっしてくみ取らなかったからである。
が、なかにはそのことに慎重に言及した年長のレズビアンマザーの女性…などなどがいることはつけ加えておく。
あの番組に二つの稀有なカミングアウトが含まれていると自ら気づいて、直接私に語ったのは、ある自死遺族の分かち合いの会の二次会でご一緒した、ある年配の女性だけだった。
彼女は言ったものだった。
「よくぞ、ふたつものことを外に出されて…。本当に誰もできないことです…」。
閑話休題。
一ツ橋大学での家族の側の提訴に戻る。
被害をこうむった側がすでに亡きあと、大切な事実を語れる口を持たない中での提訴の、いかに困難なことかを、私は察するばかりである。
瑣末なことに映るかもしれないが、提訴した額が、アウティングした学生の側に百万円、大学側に二百万円というのも、けっして損害賠償が目的ではなく、いかに真実が明らかにされることだけを望んでいるか、という現れと思えてならないのだ。
いつでもどこでも、いかに真実が明らかにされないか、というのが日本社会である。
そして、ますますそういう社会になってきてもいる。
2016年8月6日 ヒロシマの日の夕刻に記す Sotto虹主宰・米谷恵子
……カミングアウトは、性的少数者のみならず、全ての少数者弱者にもかかわるもの
最初に、オリバー・サックスの自伝より、彼がオックスフォード大学時代にゲイとして愛の告白をした相手が、丁重に「君の思いには応えられないけれど、お互いの友情は何一つ変わらない」という意志を貫き通した例から入ろうと思う。オリバーはあの映画『レナードの朝』で、今は亡きロビン・ウィリアムズが演じた医師その人である。ドクターで偉業もなし、また物も書くという人。彼が初恋で告白した相手は、遠い大陸から来ていたアメリカ人の青年で、才能に溢れた天才的な学生だったと書かれている。
しかしながら、彼はやがて難病になり帰国。オリバーは数年後、片思いながらも初恋の相手が死去したことを知らされる。そして、その時の痛ましい思いを記している。
この自伝は長編で、大学時代の最初のほうと、『レナードの朝』に関わる章立てだけを読んで図書館に返した。オリバーの初恋をこんなふうにしみじみと知ったことが切なかった。
こんなふうに成りたたない愛を、丁寧にデリカシーに満ちた対応で応じられない旨、応えた例は巷に溢れているはずだ。相手が性的少数者である場合はもちろん、在日であったり、障害者であったり…。むろん、異性愛者でも成り立たぬ恋であったり、などなど…。
あるいは、家族に自殺の例があって、足踏みされたり…結局ふりきられたりなど。(これについては、ある分かち合いで深刻な例が打ち明けられていた…。)
むろん、ニュースにもほぼ忘れられた感のある相模原の殺傷事件の際の、被害者の名前が公表されないというのも、クローズにせざるをえない背景があるゆえというのは承知している。その上で、個々の名前があってこその追悼ではないか、とあえて投稿もした。
発達障害や精神障害の場合、就労支援の現場で、ハンディをクローズにするかオープンにするか、といった選択もあり、そういう表現もされる。どちらを選んでもストレスなりプレッシャーはある。しかし、オープンにするという時には、よほど周囲の理解がなければ障害名だけが一人歩きして曲解を招いたりなど、困難な例も多々あることだろう。
さて、一ツ橋大学でのアウティングの経緯などは、シェアした記事から読んでいただきたい。これはきわめて深刻な例だ。自殺に至った男性の側のカミングアウトが、いかに命がけの行為だったか、相手が一切想像力を働かせていない点が恐ろしい。しかも、恋愛対象となった相手に、そのことをもって告白しなければならない、という事が、どれほどのプレッシャーとストレスを伴うか、そしていかにデリケートにして個人的な事柄かが、全くと言っていいほど伝わっていない。
それまではきわめて親しかった関係のなか、最初は「受けられないけれど友情は変わらない」と言っておきつつ、告白された側が徐々に、そして急速に、どんな感情に耐えられなくなったのか明らかにされなければ、このような事件はなくならないような気がする。
そこにあるのは、明らかにホモフォビア…性的少数者を訳もなく忌み嫌う感情…としか思えない。当初はそれまでの友情の蓄積ゆえに持ちこたえていたものが、告白されてしまったという衝撃に耐ええず、アウティングという加害行為とも言えるアクションへと移っていった辺りが厳しく検証されなければならないところだろうが、このような行為はきわめて無意識にして悪意に満ちいてるので、なかなか認識されないところだろうし、認識されたとしても、すでに相手が亡くなっているなか、口が裂けても語らない、という方向づけが「身を守り、事態から目を背ける」多くの日本人の身の処し方である以上、当たり前になされるのだと思う。
今までに一体何回、カミングアウトとアウティングの違いについて、口を酸っぱくするほどに繰り返し話し書いてきたことだろうか。
これがなかなか判らないのである。
この二つの対象的とも言える違いを見事クリアーできる日本人は、ごくわずかだというのが、繰り返し伝えてきた結果、私がかみしめている実感である。日本人の多くには、この違いは、きわめてレベルの高い社会性が問われているのである。
それは、日本という国が異質なものやら、あらゆる違いやらを受け入れがたい、という点に象徴される現象だ。つまり、どんな人であれ、その人がその人自身であることを疎外し許さない「二次障害を生みだす社会」が放置されているからである。
もう何度したか判らない説明を、今日も繰り返す。
カミングアウトとは、自己の尊厳と誇りをもって、社会的にいまだ認知されにくい、あるいは全くされていないアイデンティティやマイノリティ性を、自ら明らかにする行為をさす。自ら…という点をけっして忘れてはならないし、尊厳と誇りが、きわめて繊細で、時に危うくもある思いとともにあるということも忘れてはいけないと思う。
つまり、命がけの行為なのである。
かたやアウティング。こちらは、善意悪意を問わず、当人に断りなく、他者にそういった、社会的に認知されていないアイデンティティを漏らしてしまう行為をさす。善意悪意を問わず、ということを忘れないでほしい。善意をもって知らせたつもりが、広がるうちにすさまじい悪意に行きあたる例だっていくらもある。
一ツ橋大学の案件を見ると、そもそも打ち明けられた側がいつしか、その事実に耐えられなくなったとしか思えない。耐えられなくなった時、それではどういうふうにそんな自分に向き合うかが、今や日本人の誰もが問われているようにも思える。
しかも、彼らは法律家となるべく道を歩んでいる学生たちである。そこはきわめて厳しい人権意識をもって自身を問わずにはすまないはずのところだったと明瞭に思う。
あるいは、もはや他者に言わずにはすまないところまで、何らかのもやもや感、差別観やら嫌悪感に基づき追い詰められたとしても、第三者機関とも言うべき然るべき相談機関があるべきではないのか。むろん、相談する相手は、性的少数者の実情に明るい人間であるべきだし、真摯に告白した側の必死であったろう姿勢を、むやみと傷つけない対応がどうなされるべきか、そして、告白された側にやむなくあったろう「やりきれない思い」がいかなる変化をへて、まともな思いとなりうるか、共に悩める相手でなければならないだろう。むろん、守秘義務は徹底されなければならない。
痛ましい限りなのは、自死に至るまでのゲイの彼の心身の変化である。これについては私も身に覚えがあり、容易に想像できるところである。ただし、私の場合は性的少数者であることをもってなされた言動を背景にしている訳ではない。それだけは明らかにしたい。
ともあれ、これはイジメ自殺と全く同じ構造をもってしまっている。アウティングは精神的暴力、ハラスメント、アイデンティティクライシスを招く行為と言っていい。
私は義務教育のなされている校内で起きたイジメ自殺で、提訴した両親が嗚咽しながら、「私たちばかりが丸裸で、周囲は鉛のように押し黙って何一つ言わず語らず、学校もどんな説明もなく…」と語るのを目の当たりにしたことがある。
さて、私たち二人の現実に戻ろう。
私たちは、5年前、性的少数者として公共放送のドキュメントをもって、カミングアウトをしたと言える。
だが、どんな時も、どんな人にも、そのことが周知されていてほしいなどとは、露ほども思わない。そんなふうに人権意識が確立した日本社会ではないことは、都会であろうと地方であろうと、何も変わらないことを熟知しているからである。
そうして、明らかであること明らかにすること、と、曖昧のままであること曖昧のままでいいこと、と、伏せていること伏せていいこと、とを往復しながら生きていると言える。
そして、多くの場合は、レズビアンという表現も、…ましてや、レズビアンマザーとして、子どもと共に破天荒に生き抜いたおもみなど、性的少数者にはむしろ、とても理解されないことをも知りぬいている。
それよりも、「英子ちゃんと恵子ちゃんはどんな関係よりも、大切にしあっているし、この上なく信頼しあっているよね」と言われることに甘んじているというより、そういう表現のほうが信じられると確信している。
性的少数者の課題には、最近はほとんど近づきたくない思いがつよい。これほどまでに、人を押しのけ、上にのし上がることのみに邁進している少数派のアクティピストたちを垣間見るのは、私には心身の毒となることのほうが多い。彼らの多くは、LGBTという記号と、6色の虹の旗をのみ、正義の御旗として大切に思っているように映るのである。
人間にはやむにやまれぬ様々な生活や、人生の切迫した要請がある。処さなければならない理不尽な出来事も多々ある。それらを切り捨て、ステレオタイプに物事をあてはめることに私は耐ええない。けっして耐えたくはない。
私のもっぱらの望みは、世界中からレズビアンマザーで、「かくれ発達障害」の子どもを自死で亡くした人を探しだして、その人と思う存分語り合うことである。
私自身の痛み、喜び、嬉しさ、悲しみ、それらはすべては私自身のものでしかない。
しかしながら、「うたうたい のえ」の生き切った、唄いきった人生のすべてへの頷きとともに、断腸の思いで娘の自死の事実をも差し出した番組で受けた、性的少数者からのバッシング、沈黙、忌避、いやがらせ、誤解曲解の類いは、今だに左の脇腹の痛みをぶりかえし、フラシュバックで眠れない夜をも呼びさます。
かなり免疫ができてきたとはいえ、やはりそれらの無神経な対応にはいまだに慣れないし、慣れなくていいと思っている。
それは彼らが、私たちのドキュメント番組に、レズビアンとしてのカミングアウトしか見なかったからである。自死でノコサレタ家族としてのカミングアウトの、繊細にして限りない意志と悼みをこめた思いを、けっしてくみ取らなかったからである。
が、なかにはそのことに慎重に言及した年長のレズビアンマザーの女性…などなどがいることはつけ加えておく。
あの番組に二つの稀有なカミングアウトが含まれていると自ら気づいて、直接私に語ったのは、ある自死遺族の分かち合いの会の二次会でご一緒した、ある年配の女性だけだった。
彼女は言ったものだった。
「よくぞ、ふたつものことを外に出されて…。本当に誰もできないことです…」。
閑話休題。
一ツ橋大学での家族の側の提訴に戻る。
被害をこうむった側がすでに亡きあと、大切な事実を語れる口を持たない中での提訴の、いかに困難なことかを、私は察するばかりである。
瑣末なことに映るかもしれないが、提訴した額が、アウティングした学生の側に百万円、大学側に二百万円というのも、けっして損害賠償が目的ではなく、いかに真実が明らかにされることだけを望んでいるか、という現れと思えてならないのだ。
いつでもどこでも、いかに真実が明らかにされないか、というのが日本社会である。
そして、ますますそういう社会になってきてもいる。
2016年8月6日 ヒロシマの日の夕刻に記す Sotto虹主宰・米谷恵子
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