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≪緊急提言≫アウティングで追い詰められた一ツ橋大学の自死を巡って痛切に思うこと……カミングアウトは、性的少数者のみならず、全ての少数者弱者にもかかわるもの

≪緊急提言≫アウティングで追い詰められた一ツ橋大学の自死を巡って痛切に思うこと
……カミングアウトは、性的少数者のみならず、全ての少数者弱者にもかかわるもの

最初に、オリバー・サックスの自伝より、彼がオックスフォード大学時代にゲイとして愛の告白をした相手が、丁重に「君の思いには応えられないけれど、お互いの友情は何一つ変わらない」という意志を貫き通した例から入ろうと思う。オリバーはあの映画『レナードの朝』で、今は亡きロビン・ウィリアムズが演じた医師その人である。ドクターで偉業もなし、また物も書くという人。彼が初恋で告白した相手は、遠い大陸から来ていたアメリカ人の青年で、才能に溢れた天才的な学生だったと書かれている。
しかしながら、彼はやがて難病になり帰国。オリバーは数年後、片思いながらも初恋の相手が死去したことを知らされる。そして、その時の痛ましい思いを記している。
この自伝は長編で、大学時代の最初のほうと、『レナードの朝』に関わる章立てだけを読んで図書館に返した。オリバーの初恋をこんなふうにしみじみと知ったことが切なかった。
こんなふうに成りたたない愛を、丁寧にデリカシーに満ちた対応で応じられない旨、応えた例は巷に溢れているはずだ。相手が性的少数者である場合はもちろん、在日であったり、障害者であったり…。むろん、異性愛者でも成り立たぬ恋であったり、などなど…。
あるいは、家族に自殺の例があって、足踏みされたり…結局ふりきられたりなど。(これについては、ある分かち合いで深刻な例が打ち明けられていた…。)

むろん、ニュースにもほぼ忘れられた感のある相模原の殺傷事件の際の、被害者の名前が公表されないというのも、クローズにせざるをえない背景があるゆえというのは承知している。その上で、個々の名前があってこその追悼ではないか、とあえて投稿もした。
発達障害や精神障害の場合、就労支援の現場で、ハンディをクローズにするかオープンにするか、といった選択もあり、そういう表現もされる。どちらを選んでもストレスなりプレッシャーはある。しかし、オープンにするという時には、よほど周囲の理解がなければ障害名だけが一人歩きして曲解を招いたりなど、困難な例も多々あることだろう。

さて、一ツ橋大学でのアウティングの経緯などは、シェアした記事から読んでいただきたい。これはきわめて深刻な例だ。自殺に至った男性の側のカミングアウトが、いかに命がけの行為だったか、相手が一切想像力を働かせていない点が恐ろしい。しかも、恋愛対象となった相手に、そのことをもって告白しなければならない、という事が、どれほどのプレッシャーとストレスを伴うか、そしていかにデリケートにして個人的な事柄かが、全くと言っていいほど伝わっていない。
それまではきわめて親しかった関係のなか、最初は「受けられないけれど友情は変わらない」と言っておきつつ、告白された側が徐々に、そして急速に、どんな感情に耐えられなくなったのか明らかにされなければ、このような事件はなくならないような気がする。

そこにあるのは、明らかにホモフォビア…性的少数者を訳もなく忌み嫌う感情…としか思えない。当初はそれまでの友情の蓄積ゆえに持ちこたえていたものが、告白されてしまったという衝撃に耐ええず、アウティングという加害行為とも言えるアクションへと移っていった辺りが厳しく検証されなければならないところだろうが、このような行為はきわめて無意識にして悪意に満ちいてるので、なかなか認識されないところだろうし、認識されたとしても、すでに相手が亡くなっているなか、口が裂けても語らない、という方向づけが「身を守り、事態から目を背ける」多くの日本人の身の処し方である以上、当たり前になされるのだと思う。

今までに一体何回、カミングアウトとアウティングの違いについて、口を酸っぱくするほどに繰り返し話し書いてきたことだろうか。
これがなかなか判らないのである。
この二つの対象的とも言える違いを見事クリアーできる日本人は、ごくわずかだというのが、繰り返し伝えてきた結果、私がかみしめている実感である。日本人の多くには、この違いは、きわめてレベルの高い社会性が問われているのである。
それは、日本という国が異質なものやら、あらゆる違いやらを受け入れがたい、という点に象徴される現象だ。つまり、どんな人であれ、その人がその人自身であることを疎外し許さない「二次障害を生みだす社会」が放置されているからである。

もう何度したか判らない説明を、今日も繰り返す。
カミングアウトとは、自己の尊厳と誇りをもって、社会的にいまだ認知されにくい、あるいは全くされていないアイデンティティやマイノリティ性を、自ら明らかにする行為をさす。自ら…という点をけっして忘れてはならないし、尊厳と誇りが、きわめて繊細で、時に危うくもある思いとともにあるということも忘れてはいけないと思う。
つまり、命がけの行為なのである。
かたやアウティング。こちらは、善意悪意を問わず、当人に断りなく、他者にそういった、社会的に認知されていないアイデンティティを漏らしてしまう行為をさす。善意悪意を問わず、ということを忘れないでほしい。善意をもって知らせたつもりが、広がるうちにすさまじい悪意に行きあたる例だっていくらもある。

一ツ橋大学の案件を見ると、そもそも打ち明けられた側がいつしか、その事実に耐えられなくなったとしか思えない。耐えられなくなった時、それではどういうふうにそんな自分に向き合うかが、今や日本人の誰もが問われているようにも思える。
しかも、彼らは法律家となるべく道を歩んでいる学生たちである。そこはきわめて厳しい人権意識をもって自身を問わずにはすまないはずのところだったと明瞭に思う。
あるいは、もはや他者に言わずにはすまないところまで、何らかのもやもや感、差別観やら嫌悪感に基づき追い詰められたとしても、第三者機関とも言うべき然るべき相談機関があるべきではないのか。むろん、相談する相手は、性的少数者の実情に明るい人間であるべきだし、真摯に告白した側の必死であったろう姿勢を、むやみと傷つけない対応がどうなされるべきか、そして、告白された側にやむなくあったろう「やりきれない思い」がいかなる変化をへて、まともな思いとなりうるか、共に悩める相手でなければならないだろう。むろん、守秘義務は徹底されなければならない。

痛ましい限りなのは、自死に至るまでのゲイの彼の心身の変化である。これについては私も身に覚えがあり、容易に想像できるところである。ただし、私の場合は性的少数者であることをもってなされた言動を背景にしている訳ではない。それだけは明らかにしたい。

ともあれ、これはイジメ自殺と全く同じ構造をもってしまっている。アウティングは精神的暴力、ハラスメント、アイデンティティクライシスを招く行為と言っていい。
私は義務教育のなされている校内で起きたイジメ自殺で、提訴した両親が嗚咽しながら、「私たちばかりが丸裸で、周囲は鉛のように押し黙って何一つ言わず語らず、学校もどんな説明もなく…」と語るのを目の当たりにしたことがある。


さて、私たち二人の現実に戻ろう。
私たちは、5年前、性的少数者として公共放送のドキュメントをもって、カミングアウトをしたと言える。
だが、どんな時も、どんな人にも、そのことが周知されていてほしいなどとは、露ほども思わない。そんなふうに人権意識が確立した日本社会ではないことは、都会であろうと地方であろうと、何も変わらないことを熟知しているからである。
そうして、明らかであること明らかにすること、と、曖昧のままであること曖昧のままでいいこと、と、伏せていること伏せていいこと、とを往復しながら生きていると言える。
そして、多くの場合は、レズビアンという表現も、…ましてや、レズビアンマザーとして、子どもと共に破天荒に生き抜いたおもみなど、性的少数者にはむしろ、とても理解されないことをも知りぬいている。
それよりも、「英子ちゃんと恵子ちゃんはどんな関係よりも、大切にしあっているし、この上なく信頼しあっているよね」と言われることに甘んじているというより、そういう表現のほうが信じられると確信している。

性的少数者の課題には、最近はほとんど近づきたくない思いがつよい。これほどまでに、人を押しのけ、上にのし上がることのみに邁進している少数派のアクティピストたちを垣間見るのは、私には心身の毒となることのほうが多い。彼らの多くは、LGBTという記号と、6色の虹の旗をのみ、正義の御旗として大切に思っているように映るのである。
人間にはやむにやまれぬ様々な生活や、人生の切迫した要請がある。処さなければならない理不尽な出来事も多々ある。それらを切り捨て、ステレオタイプに物事をあてはめることに私は耐ええない。けっして耐えたくはない。

私のもっぱらの望みは、世界中からレズビアンマザーで、「かくれ発達障害」の子どもを自死で亡くした人を探しだして、その人と思う存分語り合うことである。
私自身の痛み、喜び、嬉しさ、悲しみ、それらはすべては私自身のものでしかない。

しかしながら、「うたうたい のえ」の生き切った、唄いきった人生のすべてへの頷きとともに、断腸の思いで娘の自死の事実をも差し出した番組で受けた、性的少数者からのバッシング、沈黙、忌避、いやがらせ、誤解曲解の類いは、今だに左の脇腹の痛みをぶりかえし、フラシュバックで眠れない夜をも呼びさます。
かなり免疫ができてきたとはいえ、やはりそれらの無神経な対応にはいまだに慣れないし、慣れなくていいと思っている。

それは彼らが、私たちのドキュメント番組に、レズビアンとしてのカミングアウトしか見なかったからである。自死でノコサレタ家族としてのカミングアウトの、繊細にして限りない意志と悼みをこめた思いを、けっしてくみ取らなかったからである。

が、なかにはそのことに慎重に言及した年長のレズビアンマザーの女性…などなどがいることはつけ加えておく。

あの番組に二つの稀有なカミングアウトが含まれていると自ら気づいて、直接私に語ったのは、ある自死遺族の分かち合いの会の二次会でご一緒した、ある年配の女性だけだった。
彼女は言ったものだった。
「よくぞ、ふたつものことを外に出されて…。本当に誰もできないことです…」。


閑話休題。

一ツ橋大学での家族の側の提訴に戻る。
被害をこうむった側がすでに亡きあと、大切な事実を語れる口を持たない中での提訴の、いかに困難なことかを、私は察するばかりである。
瑣末なことに映るかもしれないが、提訴した額が、アウティングした学生の側に百万円、大学側に二百万円というのも、けっして損害賠償が目的ではなく、いかに真実が明らかにされることだけを望んでいるか、という現れと思えてならないのだ。
いつでもどこでも、いかに真実が明らかにされないか、というのが日本社会である。
そして、ますますそういう社会になってきてもいる。

2016年8月6日  ヒロシマの日の夕刻に記す   Sotto虹主宰・米谷恵子
           
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| 悲しみにSOTTO虹 | 22:41 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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[告知] 丹南FМ夢レディオに、今日5月9日午後1時15分から恵子も出演。【Sotto虹の時間】では原点に立ち返り 、喪失体験の奥行、喜怒哀楽の温度差のリアリティなど  のえの音楽コレクションとともに話せれば。後半の1時50分頃。

[告知] 丹南FМ夢レディオに、今日5月9日午後1時15分から恵子も英子とともに出演。【Sotto虹の時間】では原点に立ち返り これまでを含めて、喪失体験の奥行、人生の喜怒哀楽の温度差のリアリティなど のえの音楽コレクションとともに、、しみじみ話せれば。恵子の出番は後半の1時50分頃の予定。再放送は、6日後の日曜15日の午後2時半からで、日曜日の恵子の出番は午後3時10分頃。

【Sotto虹の時間】とかさねて【リメンバーのえコーナー】として、原点に立ち返って、のえの路上の音楽仲間…のちにメジャーデビュー…の一曲とそのエピソード、ジャンルにこだわらず世界中の周縁の音楽表現に多大な関心を寄せた、「うたうたい のえ」が、一方で生涯、敬意を持ち続けたニーナ・シモンの一曲、そして、最後には私の気が変わらなければ! のえの一曲も、と思っています。おそらく24歳、95年の音源より。

路上で世界と向き合い、懸命に巷を行き交う人々と音楽とともに対話し、みずからの世界を広げた「うたうたい のえ」。
しかしながら、そんな彼女に、どこにも「究極の居場所」がなかった日本という社会。


その事実とかさなるように、どんな人々も、悲しみと怒りに向き合う土壌がないこと、身を引き裂くような悲嘆…グリーフにゆっくり静かに、時には大胆に向き合う機会も空間も人間関係もほぼありえない、そんな辺りを1年と数カ月のSotto虹の歩みとともに語ります。

音楽が計10分程なので、私の語りはわずか30分ほど。それでも全国のSotto虹の読者に、私の肉声でこの営みの今という節目に、大切な思いを、かいつまんででも凝縮して心静かに、熱く伝えてみるいいチャンスかもしれない、とそろそろと準備中。

二人で前半と後半に半々に語るというのも、面白いかもしれません。ぜひ、月曜の午後は無理でも、日曜の午後にもチャンスはあります。お忘れなく。

なお、前半の英子は、陶芸家岩国英子主宰の【凸凹陶芸教室】のモノ作りを伝える、英子ならではの妙、他ではありえない面白みなどお伝えするようです。こちらもお楽しみに。そして、音楽はキューバのオマール・ボルトゥウンドのあの唄声です。

79.1MHlz .USTREAM(tannanfm)でも聞けます。
http://www.ustream.tv/channel/tannanfm

| 悲しみにSOTTO虹 | 01:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『誰が駒鳥殺したの変奏曲・2016年3月アレンジSotto虹』 暴力から保護を求めたこどもの心は無窮の空に消えたのか。わたしが、あなたが殺されるまて。

『誰が駒鳥殺したの変奏曲・2016年3月アレンジSotto虹』
暴力から保護を求めたこどもの心は無窮の空に消えたのか。
消えたらもうないのか。わたしが、あなたが殺されるまて。
否、殺されても?ひとつ前の投稿コメント欄有効リサイクル。

コメント欄のYouTubeは、正統派の「マザーグース」英語版。絵も古い伝統的なタッチで面白いなあ。でも、長田弘の作品は全く違うものですよー。それは忘れないでね。原点はアクは強いが慈愛あり。長田弘は徹底解釈創作した。投稿の3月20日

丸一日と2時間経過。えっ、なんの反応もないってどういうこと。この詩の面白さ、不気味さが伝わらないわけー。うっそー。それほど、皆さん、感受性も知性も人間性も衰退しちゃってるのー。いやー、驚いた。やはり、このSotto虹なぞ続ける意味ないですよね。主筆の心痛など関わりない読者諸氏。さようなら、そろそろ。3月21日

削除したいなってこの期に及んでよく思うんですが、ブログなんかと違って、非表示にするとどこに行ったか判らなくなるので、そのままに最近はします。アップした意味なんてない、と噛み締めるのは、昨日の投稿の背景にあるこころの激痛なぞ、見世物、野次馬でしかいないんだなって。激痛の荒療治の面白い詩を、共に味わうような本物の「大人」は読者にいないのだとかみしめるからです。日本語教育というか、言葉を活かして使う教育というか、習慣や心意気、気概なんて「ないものはない」つまり、「殺されるときにも判らない」ことなんですかね。はははは、笑えます。なんという体たらく。なんというコミュニティページ。大サービスと大使命感、そろそろ捨てなければ、自分がもったいない。3月21日

英子が横でいわく。これは日記のページではありません、と書いたほうがいいんじゃないのお。いやいや知っていますよね。自分だけのために書くなら、こんなところに書きゃしないなんてことぐらい。えっ、知らないの、そうかそうか。日記って高校の時から書いてないのよ。想定外かな。3月21日

この沈黙は、「ぼくじゃない殺したやつだ鳥たち交響曲と」いったところでしょ。演奏しているのすら隠して、どんな声も出さず、どんな音も出さぬ。隣の部屋の住人に殺されそうな人たちばかりかしらん。徹底していておもろいわ。
原典は「かわいそうな こまどりのため なりわたるかねを きいたとき そらのことりは  いちわのこらず ためいきついて すすりないた」なんですがね。3月21日

ムチのきわみ諸氏。いや間違えた無知のきわみ様様。ユーモアも解さない、それとも春のお彼岸に私たちには無縁の宴の席で、祝杯でもあげているんですかね。駒鳥が何事もなく死んでくれたことを祝って。3月21日

そうそう、朝日の日曜版の書評に出ていた「沈黙の町で」奥山英朗著買わなきゃね。むろん、どんなご本かご存知よねえ。だんまりの方々こそ。ははーんだ。3月21日

模範回答集。
「いやあ、ここのところの恵子さんの投稿の締めくくりみたいな、ちょっと怖いけど、なかなか面白い詩ですよね。マザーグースが慈愛のほうで、長田弘がマザーグース風なんて、ねじれていてみものですよねえ。」
「恵子さん、昨日の激痛って、この一ヶ月あまりの無給無休の高尚なる営みのはてに来たんでしょうねえ。
私も知らない、ごく最近のことも、あの「人とつながるための手が」など拝読すると、まだまだいろいろ続いているんだとお察ししますし、まあ、娘ののえさんを亡くして、そうでなくとも悲しい想いを秘めたかたに、何もわかっちゃいない馬鹿どもが、次々と痛めつけるような出来事をもたらすと、こういう荒療治って恵子さんらしいわねえと思っていいのか、どうか悩むところですが、ご本人が療治しているっていうからそれでいいのよね。」
「ありふれた殺し、ありふれた裁き、ありふれた日々からお応えするしかないわたくしといたしましては、殺されるまで、待つことにすればいいですよね。それでいいんですよね。」3月21日

KAGEさん                       
長田弘さんの解題はいつ書かれたものなのでしょうか。

あまりに今日的でーそれはつまりあまりに人間的人類史的に古くて新しく、すごい詩です。

この内容に重なる詩を自死した親友が綴っています。実は今日手書き原稿から文字起こししていました。シンクロニシティです。
英語のほうも視聴しました。紹介ありがとう。

人はこのなまなましい現実を直視できないのですね。だから沖縄で平和に安心して暮らすことが脅かされつづけても自分たちのこととは思わない人が大半だし、基地も安保も必要だとすんなり思ってしまうような選挙民が多いのでしょう。
怖ろしい。3月22日昼前

実は、手元に「長田弘全詩集」みすず書房刊があります。6000円の大枚が出せなくて、図書館で借りています。誰かプレゼントしてーって思う全詩集。ついでながらルネ・シャールの全詩集も5000円ほどで買えない。飲み食いに、そのくらいの金、平気で使っているだけの奴らには、こういう詩のエッセンス、宝物は伝わりっこない。2冊とも、わたしの命をつなぐために手元に置きたい大切な詩集。
上記の詩は「詩集・言葉殺人事件」1977年刊行晶文社です。
3月22日夜

一晩、寝て思うに、現実の自殺の報道には怒れても…とは言っても、自分のこどもの学校で起きたら別かと!!…このての詩には、人のこころの深層を探るような、言霊がある。それをできるものなら忌避したい、避けたい、話題にしたくない、触れたくない、「いいね」なんてありえへんってな深層心理が作動するのでしょう。実に1年と3ヶ月、よくぞ「自分を裸」にして、ここまでこのコミュニティページをしてきたと、自らねぎらう以外にありません。昨日ここに手伝いに来ていた若者も、「わかるようでわからない」とこの詩篇について言いました。文化的文学的表現的コミュニケーション的鍛錬もまた、おろそかにおろそかにおろそかに、見過ごされていきつづけているのです。まあ、意味が判らなければ、反応ではないのは当たり前だとしても。3月22日

要するに、すべては言語相対化力のような力の衰退かと思われます。マザーグースも実は、慈愛を装った弔いの伝承だとしたら、長田弘さんは、それを剥き出しにした、それだけのことかもしれません。ただ、民俗学的世界には、装いであれ慈愛はあった。この平安時代以来というお墨付きの集落に住んでいると、むきだしになってはいけない類いのことを覆い隠していた伝承の世界との切れない世界的普遍性にも到達するかのようです。3月22日

そして、それは「自殺を隠蔽する」そんな伝承であったかもしれないし、他殺か自殺か事故死かも判らない死を、まあまあまあと皆で弔う世界であったかもしれません。

なんということ。今晩のニュースでは、児相に保護を求めた中学生の自殺報道。
雀は母親? 梟は義理の父? 児相は雲雀に紅雀?
そして、ミソサザイは記者、トンビはマスメディア。

殺したものは誰もいないから、堂々とインタビュー。
ものすごく他人事ぽくて、自分の子どもが亡くなったことを語る言葉とは思えません。
義理父いわく。
「判ってくれる人は判ってくれるでしょうから…」。

えっ、なにを判ってくれることをあなたは期待しているの。
遠くで聞こえる…。
…誰も殺していません。
 なんといっても自分から死んだんですから。…
空耳かしらん。

ああ、なんという現実。
それでも私もカラスです。
どう転んでも一緒に変奏曲を奏でている…。

暴力からの保護を求めたこどもの気持ちは空に消えたの。
消えたらもうなにもないの?
わたしが、あなたが殺されるまて。否、殺されても。
あなたの、わたしのこどもが自殺するまで??????????  

3月22日のニュースを見て

| 悲しみにSOTTO虹 | 13:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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私たちはなんとか持ちこたえている 祈りの極限で、するべきことを切り替える

ある「LGBTの福祉医療」を考える団体に、
要らないとしか思えない冷酷な扱いを受けました。
それがどれほどのことかは、
数回前の投稿にさかのぼって、おしはかってください。
そして、この「自死に向き合う」、
積極的に少数派を、
性的マイノリティを、発達障害の人を、
精神疾患当事者も、外国籍住民も。
私恵子が、どれもきちんと向き合ってきた、
そんなマイノリティ性でもあり挙げていますが、
しかしながら、今回の性的少数派の福祉医療分野での
拒否的な取り扱いのみならず、
すでに三回目のそんな排除、忌避に遭遇してきて、
かなりな疲弊と、
まさにPTSDと言える二次的心的外傷を負ってきました。


そしたら、二つもの私にとって大切なマイノリティ性をもった、
自死を知ることとなった。
外国籍住民とは深い関わりのある、
そんな日本語教師として…。
ペルーで活動した蓄積のあとにも。

そして…。ああ…。どうして、どうしてなのか。
いや、どうしてもこうしてもないんだ。
人は人は、こうやって追い詰められるときは追い詰められるんだ。
不意に、あるいは、少しずつじわじわと…。
私たちはなんとか持ちこたえている。
何人もの次世代に遠く囲まれながら、
近く遠く垣間見、見られながら。
フォローし、力仕事を手伝ってもらったりもしながらも。
人生のことを語り合ったりもしながらね。

ニーバーの祈り、そんなもの要らないよ。
祈りの極限で、私たちは動き出す。
あるいは、するべきことを切り替える。
それだけだ。

恵子 2016年2月24日午前3時

| 悲しみにSOTTO虹 | 23:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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生きていくために、みずからの尊厳を守るために…!! 私は次世代への「責任」は放棄した 私は次世代への「責任」は放棄した 私たちを踏みにじり、疎外し、追いやり、いないことにする、そんな人たちを抱きしめる、それはやめないとしても……


生きていくために、みずからの尊厳を守るために…!!
私は次世代への「責任」は放棄した
…ある友人の書き込みに応えて
私たちを踏みにじり、疎外し、追いやり、いないことにする、
そんな人たちを抱きしめる、それはやめないとしても……


今日は「二人でぼけないカップルウォーキング」を早足で再開。数秒の動画を見て、
「お姉様たち、お兄様たちが2人で年を重ねる姿に夢と希望と萌えを感じる今日この頃。大変な日常とは存じますが英子さん恵子さんや私たち50代が幸せであることが後輩たちへの責任であるとすら思います」
というメッセージが書かれました。以下、それに応えた文面を多少加筆訂正したものです。


「お兄様たちって年を経たゲイのカップルのことなんでしょうね。
英子ちゃんから声で聞いていた文面より、眼で読むとMさんが含ませた意味合いを思わない訳にはいかない気持ちが募ります。
きっと50代であることをかみしめているのかもしれませんね。
ただ、60代だからって差をつけようって訳では、みずからは全くないけれど、エイジズム…年齢差別、つまり認知症予備軍に入る年齢かな…の対象になるのは、やはり還暦を過ぎてからかと思います。
Mさんに「夢と希望と萌え」を感じてもらえるならもらえるで喜ぶところでしょうね。それに「大変な日常とは存じますが」と添えているんですものね。

でも、私たちは北陸の辺境で、地元のマイノリティの仲間からもへだてられ、都会のそういう人々からも度外視され無視され、それのみならず、実際に会ったことすらない人たちに遠ざけられるという不当な目にも遭い続けています。
娘を自死で亡くした人は、「誠に狭いマイノリティ義侠心」とでもいうものには、絶対おさまりがつかないのだと思います。
二人で楽しくしているときは、これが一瞬の幸せというものかもしれないとは思います。ただ、非情なる社会的文化的孤絶感のもとの二人です。
Mさんも沢山の大切なかたを亡くされているのは承知しています。しかしながら、あなたのように言ってくれるかたになら、少なからず使命感は失いませんが、私たちをノケモノにし、忌避感で、沈黙の勘違いの壁で固めている人たちには、なんの責任も感じません。
感じないというより、感じる必要がないと、生き方を修正せざるをえませんでした。

あるレズビアンの女性が「自死遺族とはつきあいにくいから、近づかないように」と私たちのことを広めていると知ったときにはすぐメールしたものです。
「それはマイノリティがつきあいにくい」と言っているのと同じではないか、と。
自分たちの生きづらさを、人をより追い詰める「噂や偏見」にすりかえる人たちの愚かさにこんなにも触れていたら、私はこれ以上生きてはいかれません。

だからSotto虹の営みを覚悟のもとでしているのです。

まあ人間誰しも、マジョリティであれマイノリティであれ、愚かで美しいものかもしれませんが、やはり見過ごせないことは見過ごせないのです。
私は「自責の念」を疑う、おそらく稀有なノコサレシ者の一人かと思います。
そういう点でも、自死遺族である私たちへの「後輩たちへの責任ですらある」という言い方には、どうしても素直には頷けない気持ちになります。ご理解いただけますか。

妥当な…過不足ない、敬意とねぎらいを持たれてこそ、初めて世代をこえて、互いに生まれでる責任や使命感をこそ、私は優先して持ちたいと思います。
自分をゴミ箱に捨てるような真似は、できないし、させられるのもまっぴら。
一方で、私たちの人生をスルーしただけの「あこがれ」も、「うらやましい」も要らぬ称賛、というべきか、ともかく別の宝塚のきらきらスターにでも、あててほしい謂いです。

性的少数者の現実は、自民党の草案、民社党の草案と、あたかも権利を守る素振りで取り沙汰されている今こそ、けっして権力に吸収されて骨抜きにされないよう、虎視眈眈と見張らなければならないほどの、予断を許さない実情です。
きらきら系どころか、「名誉マイノリティ」になりたい上昇志向の塊の、商業主義と一体化したマイノリティがこれまで日本の歴史上にはたして存在したでしょうか。

ともあれ、私たちは雪でも降らない限り、早足で歩いて、息をはあはあさせて、頭の血流をよくすることに励むとします。
つまりそれは、私たちの人生を語り継ぐ深遠なる意欲を維持するためのウォーキングであるのですから。それは、まさに私たちの尊厳を守るための一歩一歩。
伝わるものはいずれ伝わる、倒れる人はいずれ倒れる。

「和解」の道をこそ探したいという、あくことない願いに変わりはありませんが、私たちは私たちの歩みを踏みしめる以外にありません。
貴重な書き込みについ、ながくなりました。
ひとときでも、思ってくださったことに敬意と感謝をこめて。
  
2016年2月7日  西原由記子さんの2年目のご命日に 
米谷恵子            

追伸 
西原さんは、日本の「いのちの電話」の創始者です。現在の「いのちの電話」は質も方法も変貌してしまいましたが。私は2年と4か月前に彼女に、おそらく日本中の誰もできない
「究極の傾聴」をしていただいています。いずれ、西原さんとのこと、このページでも書いてみたいと思っています。

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