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2016.02.28 Sun
私はコミュニケーションギャップを埋めるためだけに死んでしまうかもしれない。
私はこれがいったいどういうことか伝えて伝えて、伝わらないうちに死んでしまうかもしれない。
私は同じことを話しつづけているうちに、その相手相手によって変わる色合いとニュアンスを発見もしながら、擦り切れたテープのように巻き戻しもできないまま、切れてしまうかもしれない。
私は雪が降っているのに、雪も知らず、胸の痛みと放心と、淡々と働きつづけるいつも、ともにいる人とともに、凍てついて死んでしまうもしれない。
こんなにも、どこをどうつかんだら、どうそっといつくしんだら、どんなこともやわらぐか知っていながら、それを生かせなかったら、
その豊かさゆえに死んでしまうかもしれない。
死んでしまうかもしれない。
無知と無自覚と無理解と無関心と無意識と無気力に囲まれて、
無、無、無、無、と言うこともなく、
無をつかんで死んでしまうかもしれない。
娘「うたうたい のえ」の
最期の数時間の齟齬を7年後に知った日に、
人生の課題を手放せない未明。
2016年2月28日 恵子
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| 境い目が持つ落とし穴
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2014.05.12 Mon
はい、まあ新しいカテゴリーを作りました。
「境い目が持つ落とし穴」。
ちょいとこむずかしく、落とし穴を意味する漢語をあてたりもありだけれど、
私がありがたいことに、その難しい漢字熟語を思い出せない。
類語辞典を引いて判ったぞ。
「陥せい」、カンセイ、
ウ冠に、八書いて、井戸の井、書くんだけどな。
このブログの辞書には入っていない。これ以上選べない。
このブログが悪いのか、私が悪いのか、決められない。
さかいめ、というのは、
国と国の境界であったり、
少数派と多数派の見えない壁であったり、
診断名でくくられる枠組みだったり、
民族と民族が入り乱れているなかでの、自分の血の中の境界だったり、
先住の人々と、あとから入ってきた人々との見えざる境界だったり、
いろいろとある訳ですよね。
そんなにあるのーって、驚いている人は、
よほど、自らの均質性を疑うべきです。
いや、疑う力がないから、疑えないでしょうけれど。
ここ一ヶ月、ある在日の「知識人」の書物を次々と読んでいます。
かなりな読み込みかた。
実は、自分の課題としてどうしても避けられないし、避けたくない。
昨日、その著者を「批判」すると称した、
その著者の名前まで冠したタイトルの本のレビューを見て、
既視感こそあったけれど、やっぱりねえ、
っておどろきました。
自虐史観とか、被害者意識とかの発想のでどころが、
まざまざと見える、そんなこの「在日」の知識人への、
「批難」がつづきました。
その批難の書を書いているのがまた、「在日」なんです。
だから、興味深いと言えば興味深いけれど、
鳥肌ものと言えば鳥肌もの…。
ニッポンの今の舵取りにやんわり、がっつり、
じわじわまあまあ、迎合というかそれでいいじゃないか、
というか、ああ、これ書くだけで少しこわいのですが、
そんな「在日」の存在を知ったことはそれなりすごいことでした。
帰化をある意味「奨励」してもいる。
強制連行を全面否定はさすがにしていないけれど、
それは一部の人たちで自分たちは自ら日本に来たじゃないか、
とも言っている。
ぞおっとした。
きっとそうである事実もあるでしょう。
でも、日本の植民地支配下であることは忘れてはならないことです。
こわい。
私がこの一ヶ月読み込んできた彼の著作からは、
けっして過大な「被害者意識」を感じたことはありませんでした。
いや、「被害者意識」はまずない筆致であることだけは言える。
「被害者性」をあるがままに、
一世たちへの祈りのような思いをこめて書いてはいる。
そんなの当たり前だ。
この彼の「被害者意識」を悲劇の主人公ぶっているとか、
あれこれ書いているのは醜悪だった。
書いている人こそ、「被害者意識」のかたまりかも。
かなり注意深いレビュアーもいるけれどね、やはり…。
その中で、私の読み込んできた在日の彼が、
朝までテレビなんかで、冷静で穏やかな相好をくずして、
「日章旗はナチスドイツのハーゲンクロイツと同じでしょう」
とかなり??声をあげた瞬間も書かれていたのは、
私にはとてつもなく参考になって悪いことではなかった。
ただ、レビューで批難の書に加担している人は、
あげあしとりのつもりだとは判るけれど…。
そうですよ。
従軍慰安婦だったおばあさんが、
証言に日本に来るために、JALに搭乗しただけで、
日の丸とツルのマークに吐き気をもようした、体調を崩した、
そういう歴史は一人一人の生身に刻まれているんですよ。
ドイツとフランスは現在、同じ歴史教科書を使っているんです。
そこまでの葛藤から和解への道筋はすごいものだったに違いない。
そのうえで、「歴史を共有」しているんです。
ふっと、眠りながら…深夜に睡眠中にものすごく頭が良くなります…
徐々に思索が深まっていくのが判りました。
私はこの地元の東西の壁へと、
私たちの歴史、誇り高い私たちの歴史を語りました。
しかしながら、その誇り高さが伝わらない、
そんな周囲の最弱点から語らざるをえませんでした。
私たちへの迫害と言ったって、今だってこうやって生きていけるけれど、
それでも十二分に孤立の道を生きてきて、
いまだに虚像しか…たとえ良い虚像におきかえられたとしても…
ありえない私たちの立脚点をきちんと語った夜の四時間でした。
いやいや、四時間のミーティングのうちの二時間にも満たないけれど。
それをそこに参加していた、自分の立ち位置など考えたこともない、
そこそこ意識的ではあるけれど、
社会性という点では皆無の40歳の女性が、
ある人にそのミーティングで私が私たちがなにを語ったかを伝えようとして、
「おつらい思いをされてきたことを話されました」
と伝えていたと聞いて、今もその意味を課題にしています。
いえいえ、今もその無意味性を課題にしています。
被害と加害のどこにも自分は位置しないという、
のんきでなにも見ず、なにも聞かず、なにも考えない、
そういう日本社会を能弁に見えるものにした、
そんな私自身の、そのミーティングの参加者の一人である女性への、
たゆまぬ語りかけは、彼女自身から、
「あんなふうに語って良かったのかしら」という範囲に限った、
気づきをもたらしはしました。
それでも、それは一瞬のもので、
おそらくそうたやすくは、彼女の人生観に反映してはいかないことでしょう。
敷居を高くしたり、
欄外においやってりしている一人であることを棚にあげて、
のうのうと生きている、そんな悪意なき無関心に満ちた人々のなかでは、
彼女は相当良心的なほうだとは思います。
でも、多くの事柄から逃げてきた。
それは彼女が傷ついているからです。
傷ついている自分を、対象化し意識化できないからです。
そして、同じように傷ついている人たちとつながる、
そういうすべなどほぼ思おうともしないからです。
「帰化」という言葉から、
想起する「在日」の知人たちの顔がありました。
まず、
朝鮮語というべきか、韓国語というべきか、
とにかく彼のアイデンティティを明らかにカミングアウトする、
ハングルの名前を名乗って、押捺拒否もたたかった知人。
カミングアウトすることなく、
日本名で通している、かなり親しいある表現者。
この人は、私たち二人のパートナーシップに気づきません。
ゲイの人が眼前にいて、カミングアウトしていてもその意味に気づきません。
まったく気づきません。
ところが、ある表現にこめられた「本質」にはがっちり気づきます。
ゆるがぬ「本質」だけはあるのだと、
ゆるがぬ軸だけはあるのだと感じます。
もう昔のことですが、
あるお寺のキャラバン先で、
帰化したことをある種、負い目に思っている人にも会いました。
彼はひらきなおってはいなかったけれど、
あれからこれだけ時間がたって、
今はどういう位置で、どういう葛藤や、
どういうひらきなおりで生きていらっしゃるかは判りません。
同時に、私たちの全国放送を使ったカミングアウトも思います。
私のこのブログを通した日夜、たゆまぬ表白をも思います。
そのなかには、昨夜みたいに次々と世間的には伏せるだろうことを、
次々とカミングアウトする私の言葉の方向性もあります。
それでも、なにもかも語れる訳ではない。
それでも、なにもかも手放したいとは思わない。
そこで本質的な表現が生まれるのです。
ヘルタ・ミュラー届きました。
『澱み』、ななめに少し読みました。
やはり「言えない」ことによって持たざるをえない、
そんな本質的、根源的表現が、逆に光る要素になる、
そんな言葉も目に入ってきました。
予想通り。
自閉症もスペクトラム。
変化の範囲。
だけど診断するときは、「○○障害」と枠をくくります。
この枠に入れば「障害ね」って。
トランスジェンダー、ないしはトランスセクシュアルもそうです。
これは、自分自身が男か女かあいまいなら、
あるいは、与えられた性への違和感で満ちているなら、
あいまいなままでいいじゃないか、
あるがままに越境すればいいじゃないか、というのが基本。
誰にでもそういう側面はあります。
ところが「性同一性障害」とくくらなければ、
法律的な恩恵…つまり結婚ができる、ただし子どもがいなければ。…
などを受けられないとなると、
これは実は大変な社会的な影響を与えるものとなる。
いいんです。
芯から、性同一性障害とみずから選んでいくことそのもの。
そのものは、誰にも立ち入れない、
その人そのものの尊厳…。
だけど、「法律婚」ができるゆえに、
「性同一性障害」に傾く人たちがどうも多くはないか…。
それが私とヒデコ共通の危惧です。
テレビでは泣きながら、「手術を決心した」、
そんな性の移行を語る人もいると聞きます。
泣いていても、涙のおもみ意味、
はかりしれないとは思います。
でも、これで「結婚できる」は危うい。悲しい。
障害だから、結婚を認めるという日本の法制度も、
そこから固めていけばいい面と、
固められたところを過大視する面がある。
そして、それゆえに、
自分の固有性に、
徹底的に向き合うことをある程度スルーしてしまうとしたら、
それはそれで残酷すぎる選択ではないのか。
ある県の統計では、
突出してこの「性同一性障害」の人たちの手術数が多いと聞きます。
どうして…。
そこは結婚王国です。
まぎれもなく結婚王国です。
結婚絶対王国です。
そんな-。
そんなふうに「帰化」したら違うんじゃないか。
ものすごくデリケートなことだから、
こうやって書くのもつらい。
同性愛者が可視化されず、むげにされ、
踏みにじられ、異性愛者に「おんなじよー」と言われ、
どんな法的な保障もないなかで、
法に拠ってたちたい人がいるのはやむないかもしれない。
でも、そのために「やむなく」、
決断することの大きさをやはり思います。
そして、そのせいで、
私たちカップルもそういう組み合わせと勘違いされることに、
多大な途惑いを覚えます。
時に、きちんとした教育のなさに憤ります。
「落とし穴」に落ちないで、
自分の立ち位置を見失わないで、
生きていくのは、本当に困難な日本社会です。
ハッタツ障害はもちろん、
トーシツもある種、スペクトラムがある。
それに、
私は「生と死のスペクトラム」もあるなあ、と最近明確に思います。
自分が死なないと想っている人たちが多い。
あるいは、生があいまいだから死へところりと移行してしまう人も多い。
上が、生と死スペクトラムではホワイト、
下が、グレーゾーンからブラック。
といっても、
私は自在にグレイになったりブラックになったり、
ホワイトになったり…。
まあ、なかなかホワイトにはならない、
というよりも、
生のなかに死が当たり前に息づいていると判ると、
意外と人生めちゃ楽ちんでまぶしいほどで、
これって白い光だらけの美しい世界なんですよ。
生と死スペクトラムは、
人類だれも避けられない、ほんとにほんとの深遠なるスぺトラムかもね。
ええ、自分だけは死なないと想いたい人たちの、
死への忌避感、ものすごいものですよね。
ええ、自分だけはまっとうと思い込んでいる人たちの、
精神のふりはばへの恐怖って、ものすごいものですよね。
ええ、自分が百パーセント、
血も涙も、肉も骨も、
日本人だと思い込んでいる人たちの、
自らの胃の中の蛙肯定、
ものすごいひらきなおりですよね。
さかいめを丁寧に見つめてみようじゃないですか。
さかいめには、豊穣な、とてつもない宝物がいっぱい。
どうして、それでも「妄想」にしがみつくのかしら。
まっ、どの切り口でも、
一筋縄ではいかない、
そんな歴史的家族的地域的個人的背景がありますものね。
そして、どんなふうに、こちらと向こうのあいだで一人一人が装おおうとも、
それはひとりひとりの、
極限の、究極の選択の課題でもあること。
その尊厳を誰も侵せないこと。
このブログが、
誰か個人を誹謗中傷する目的ではさらさらないこと。
ここにあらためて書いておきます。
ケイコ
| 境い目が持つ落とし穴
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