ニキリンコさんの『スルーしない脳…ジヘイは情報の便秘です』は読破不能
ニキリンコさんの文章は、
ホームページ『アスベルガーの館』内の、
『自閉連邦共和国付属図書館』だったかな、
そこにオリジナルで書いた文章はかなりまとまってすっきりしているけれど、
たいがいは、私はまいってしまいます。
のえの生前に、のえが先に買い、
二人で読み合わせた『自閉っこ、こういうふうにできています』も、
そのどぎつさに気持ち悪くなってやめたくなりましたが、
急ぐ課題でもあり、やはり一日で読みました。
そして、のえとの最初の課題図書になり、
最後の課題図書になりました。
タイトルにした『スルーしない脳』も私は読み切れませんでした。
彼女が、売れっ子になって出せば売れるだろうと思った、
出版社の戦略だったかと思われます。
読む必要を途中からは感じなくなりました。
『モッキンバード』という十代のアスベルガー症候群の女の子の、
お兄ちゃんの死に向き合うにいたれるようになるまでの児童文学の翻訳は、
ニキリンコさんは翻訳向けなのかもという達人ぶりを見せてくれます。
特性がとことん判っている人ならではの、
意訳と直訳とがものすごくうまくかみあっています。
この本は、のえの去年の命日の、
できればキョウダイたちの課題というか宿題図書になればいいかな、
と思いましたが、それを察したのはサナエとハナだけでした。
ヒデコも判っていたけれど、忙しくてその日までには読み切れませんでした。
タンポちゃんは、あとから一気に読破しました。
カラいわく。
「判ったよ。ハッタツ障害ってワガママで困った変わった人たちなんでしょう」。
「あんたの精神疾患のことをそう言われたらどう思うの。
…だいいち、ヒデコちゃんがハッタツ系をそう称したら、
ヒデコちゃんってひどいねえって言ったんじゃなかったの…」
こんな会話も早い段階でありました。
ヤエは、私の草稿の一字も読んではいませんが、
…自分にかかわりのあるところのみちゃっかり確認のみ…
あの命日の前の晩のひらきなおりと覚悟のありようはすごかったものです。
「サナエなんかさあ、ベロ亭のお嬢だったやんか。」とヤエ。
「ヤエって、ただの主婦かと思ったら、いつの間にそんな奴になってた訳」とサナエ。
「ところでさあ、本って最後まで読むとなんか判るわけー」
と、とうとうヤエ。
のえの命日は10月5日です。
私が全員に本を進呈したのは8月のうちです。
実は、あの千葉大学の自閉症スペクトラム度テストによると、
ヒデコ、ハナ、ヤエ、サナエはホワイトゾーンとなります。
私とのえは…生前に駆け込みセーフでやりました…、
ブラックにほぼ近い閾値は立派にこえた特性の持ち主。
カラだけが、グレイゾーンの本当は両方が判るくらいの点数。
でも、十代の時と今とでは違うかもしれない。
これはこれで理由あり。
ともかく、こんなの目安だから、あんまり指標にしてはいけないのだけれど、
50の設問のひとつひとつの意味合い、その奥行きが私は全部判るので、
これはこれで、あながち、あなどれない数字が出てくると判るし、
人を見ると、どのくらいの人かなあとついつい思うし、
それがだいたいぴったり当たるのが、
のえが遺してくれた遺産でもあります。
いや、のえを含めた、ホワイトゾーンの家族との壮絶な日々が、
教えてくれた、すさまじいバックボーンを持つ、鋭どすぎるほどの勘です。
二人で口もきけなくなって、…私が利けないだけなんですが…
ブログを書き合っているように映るかもしれませんが、
これはこれで良い段階に達したと思っています。
私は長いあいだ書けずにいた事柄が山のようにあります。
現実をなんということなく、いや、すさまじい努力をして切り拓いていく、
そういうタイプの人間と組んで、私も間違いなく鍛えられたこともあるし、
それでも、やっぱり、どうしてもタイミングが合わないなあと思って、
どうにもこうにもやりきれなくなることもまだまだあります。
いやいや、
私は私で、これはこれで、すさまじい努力をして、
「定型」の人と時には変わらないほどの実績を上げても来たんですよ。
そのいい証拠が、キャラバンの全国六百カ所の歴史です。
でも、やりすぎた。
やりすぎたら、シャットダウンするしかないんです。
2005年の北海道キャラバンは調子もわるかったし、
ナビゲーターを放棄しました。24年目にしてはじめて。
そしたら、道に一時間迷いました。
迷えばいいやって思いました。
搬入に遅れても、なんとも思いませんでした。
思うのをやめたのです。
いつもいつも8人分をなけなしの材料から工夫を凝らし、
豊かに量的にも十分に作らなければならなかつた料理。
まあ、子育て時代の私の拠って立つ基盤みたいな仕事。
これも、やりすぎた。
やはり、2000年代に入ってから、やめました。
もとこどもたちが大勢来て、誰一人として、
私が一人でする料理を手伝わなかったあの日から、
あのお正月だったかな…。
料理の献立と材料の表を皆にはいって渡して、
私は自分の部屋に退散しました。
皆のトランプの手が止まって一時間って状態だったようです。
動きつづける人とのタイミングは難しいです。
動くなら動くで、ずいぶんと前に確認行為には及んでくれているようですが、
それも聞こえていないこともあります。
急によくのみこめないうちに動作、作業に突入していくので、
とてもついていけないことも多いです。
いや、とてもついていけないことがほとんどでした。
きっと、定型の伴侶は、動作と作業のぶっつづけの便秘というより、
流れっぱなしなのかなあ。動きっぱなし。
アドレナリンとかなんだっけ不足すると「うつ」になる物質とか、
きっとどんなに体力に限界が来ても、
よほど精神的なダメージがない限りは出続ける脳なんだと思います。
むしろ、伴侶の脳は、腸や胃。かなり敏感で繊細です。
いつも苦しんでいるとも言えるな。
昔、本当に大昔、
フクイに来たばかりの頃、
ある界隈で知りあった人に、伴侶は、
「よくケイコちゃんと暮らしていられるねえ」と言われたと聞きます。
それを聞いてから、それを言った人の価値が私のなかで下落しました。
どうにもならないことです。
私が生きている、暮らしている価値がない、と判断した人ですから。
今から、「自閉症スペクトラムVS定型」というカテゴリーを始めます。
定型というのは、自閉症スペクトラム度が低い低い人たちのことで、
これはこれでマイノリティです。
グレーゾーンの人とブラックの人と合わせると6割か7割にはなると思いますから、
このホワイトの定型発達の人たちは、
それはそれは希少種なのです。
人と人がつきあうということに苦を感じない。
いや、感じているのだと思います。
なぜなら、それなりに人と人はどんなひとでも違いますから。
でも、それはそれでしっかりと割り切って、
やんわり、広く、時にはそれなりの深さでも関わったりもします。
引きこもりの人たち、不登校の人たちの大半以上は、
自閉症スペクトラム度の高い人たちだと思います。
まあ、これは自然な流れ。
定型の人たちは、外側に向かってぐれたりするかもね。
ハッタツ障害の人たちには、三つ組みの障害がある、
というふうに言われています。
コミュニケーション、
社会性、
こだわり…想像力と置き換えることも…。
だけど、これは定型を基準にした三つ組みで、
私から見たら、
定型の人たちが陥っている三つ組みの障害ってあると思います。
いや、三つ組みとは言い切れない、さまざまな課題とも言えること。
課題を課題と感じないですむほどの、
スムーズに映る人と人とのあいだでのありかたゆえの…。
でもね。
かくいう私は、最近自閉の人たちも大嫌いになってしまった。
あまりにも無自覚に傷つけてくるから。
自覚的な人ですらそうだから。
それに、今のところ、お金に困ったことなんてない人たちとの出逢いが、
圧倒的に多いから…。
のえのことをね。
野性的って言ったら、「野性的…」って絶句したアスペさんがいました。
自閉症の人は、野性的なんです。
放っておいたら、それはそれは野性的な天性を持っているんです。
だけど、シリコンバレー症候群じゃあないけれど、
コンピューターや計算や、数学や物理や理屈にはまっている人も多いからね。
ところで、
あなたは、次の二つのうちのどちらがスキでしょうか。
映画館に行くのと、
博物館に行くのと…。
これは博物館に行くほうが自閉度が高いってことなんです。
要するに人と人の物語よりも物が持つ意味なんていうのが、
自閉の人たちには肌に合う。
だけど、これは私の場合は違います。
映画館のほうがスキ。
のえもそうだった。
ただ、やたら映画を観られる脳では最近ない。
うるさいのはいや。必要ない映画なんか時間の無駄。
伴侶は、博物館や美術館がお好きでしょう。
映画も私から見方を伝えられてずいぶん大丈夫になったけれど、
そして、むしろ一度判ったら尋常ではないほど、
幅広く、深く、大きく判る人だけれど、
どちらかと言えば、本性は博物館スキのタイプだと思います。
それから、集中力。
これはこだわりのひとつです。
ものつくりに向かうときの集中力。
これはある種、自閉の集中ともいえる。
だから、ホワイトでもいろいろまだらにその要素はある。
本でも、ノンフィクションのほうが安定して判る時期がありました。
でも、十代後半からフィクションもノンフィクションも境目がないことが多い。
ノンフィクションやドキュメントが物事のわかりやすさから、
自閉向け。
フィクションにつきものの「想像力」が働かない場合もある。
ただね。
のえもフィクションも大丈夫でしたよ。
それでも、のえの本のコレクションはややフィクションは私よりも少ない。
ミュージシャンの自伝や評伝、偏屈なアーティストのエッセイとか…。
ふふふ。
定型の人たちをこきおろす気はないんですよ。
ただ、ホワイトの人たちは、やばいなあ、障害の域だなあ、
そう思うことがこの頃多いのも事実です。
そういう意味では、すべてがスペクトラム。
スペクトラムって変化する範囲という程度の英語です。
そうそう、最近のテレビニュースでこのスペクトラムという概念が、
なんか秘密保護法の適用だか、憲法の解釈だかで語られていて、
おっ、こんなところにこのスペクトラム概念を持ってくるとは…、
と思ったものです。ずるい。
そもそも境目のない遠近両用レンズと一緒。
私は最近度が合わないから高かったけれど、あまり使わない。
夜の運転のときくらいしか…。
虹もスペクトラム。
虹の色を六色と決めたのはどこのどいつなんだ。
いや七色だって違うんだよ。無限…。
色の可能性のすべてかな。
ハッタツVS定型
なんて言っても、このスペクトラム感覚は大事にしたい。
それを基本に書いていきます。
こきおろすこともあるかもね。
なんで、あんなに雑談で用が足りるわけなのー。
雑談ってなんか意味アルノー。
って堂々とこれからは言います。
いやいや、もういっぱい言って来たけどさー。
かつてのベロ亭ファミリーをこれでひもといたら、
大変なことになってしまいます。
ヤエは、のえの5年目の命日の折、
皆より一日早く帰るので私が駅まで送っていったとき、
言ったものでした。
「時間がなくて読めなかった訳ではないの。
読むのがこわかった。」
それから始まったヤエとの大切な会話は、
私の胸に大事に大切にしまってあります。
人生よ、ありがとう。
こんなにもたくさんのものをくれて。
ケイコ
ホームページ『アスベルガーの館』内の、
『自閉連邦共和国付属図書館』だったかな、
そこにオリジナルで書いた文章はかなりまとまってすっきりしているけれど、
たいがいは、私はまいってしまいます。
のえの生前に、のえが先に買い、
二人で読み合わせた『自閉っこ、こういうふうにできています』も、
そのどぎつさに気持ち悪くなってやめたくなりましたが、
急ぐ課題でもあり、やはり一日で読みました。
そして、のえとの最初の課題図書になり、
最後の課題図書になりました。
タイトルにした『スルーしない脳』も私は読み切れませんでした。
彼女が、売れっ子になって出せば売れるだろうと思った、
出版社の戦略だったかと思われます。
読む必要を途中からは感じなくなりました。
『モッキンバード』という十代のアスベルガー症候群の女の子の、
お兄ちゃんの死に向き合うにいたれるようになるまでの児童文学の翻訳は、
ニキリンコさんは翻訳向けなのかもという達人ぶりを見せてくれます。
特性がとことん判っている人ならではの、
意訳と直訳とがものすごくうまくかみあっています。
この本は、のえの去年の命日の、
できればキョウダイたちの課題というか宿題図書になればいいかな、
と思いましたが、それを察したのはサナエとハナだけでした。
ヒデコも判っていたけれど、忙しくてその日までには読み切れませんでした。
タンポちゃんは、あとから一気に読破しました。
カラいわく。
「判ったよ。ハッタツ障害ってワガママで困った変わった人たちなんでしょう」。
「あんたの精神疾患のことをそう言われたらどう思うの。
…だいいち、ヒデコちゃんがハッタツ系をそう称したら、
ヒデコちゃんってひどいねえって言ったんじゃなかったの…」
こんな会話も早い段階でありました。
ヤエは、私の草稿の一字も読んではいませんが、
…自分にかかわりのあるところのみちゃっかり確認のみ…
あの命日の前の晩のひらきなおりと覚悟のありようはすごかったものです。
「サナエなんかさあ、ベロ亭のお嬢だったやんか。」とヤエ。
「ヤエって、ただの主婦かと思ったら、いつの間にそんな奴になってた訳」とサナエ。
「ところでさあ、本って最後まで読むとなんか判るわけー」
と、とうとうヤエ。
のえの命日は10月5日です。
私が全員に本を進呈したのは8月のうちです。
実は、あの千葉大学の自閉症スペクトラム度テストによると、
ヒデコ、ハナ、ヤエ、サナエはホワイトゾーンとなります。
私とのえは…生前に駆け込みセーフでやりました…、
ブラックにほぼ近い閾値は立派にこえた特性の持ち主。
カラだけが、グレイゾーンの本当は両方が判るくらいの点数。
でも、十代の時と今とでは違うかもしれない。
これはこれで理由あり。
ともかく、こんなの目安だから、あんまり指標にしてはいけないのだけれど、
50の設問のひとつひとつの意味合い、その奥行きが私は全部判るので、
これはこれで、あながち、あなどれない数字が出てくると判るし、
人を見ると、どのくらいの人かなあとついつい思うし、
それがだいたいぴったり当たるのが、
のえが遺してくれた遺産でもあります。
いや、のえを含めた、ホワイトゾーンの家族との壮絶な日々が、
教えてくれた、すさまじいバックボーンを持つ、鋭どすぎるほどの勘です。
二人で口もきけなくなって、…私が利けないだけなんですが…
ブログを書き合っているように映るかもしれませんが、
これはこれで良い段階に達したと思っています。
私は長いあいだ書けずにいた事柄が山のようにあります。
現実をなんということなく、いや、すさまじい努力をして切り拓いていく、
そういうタイプの人間と組んで、私も間違いなく鍛えられたこともあるし、
それでも、やっぱり、どうしてもタイミングが合わないなあと思って、
どうにもこうにもやりきれなくなることもまだまだあります。
いやいや、
私は私で、これはこれで、すさまじい努力をして、
「定型」の人と時には変わらないほどの実績を上げても来たんですよ。
そのいい証拠が、キャラバンの全国六百カ所の歴史です。
でも、やりすぎた。
やりすぎたら、シャットダウンするしかないんです。
2005年の北海道キャラバンは調子もわるかったし、
ナビゲーターを放棄しました。24年目にしてはじめて。
そしたら、道に一時間迷いました。
迷えばいいやって思いました。
搬入に遅れても、なんとも思いませんでした。
思うのをやめたのです。
いつもいつも8人分をなけなしの材料から工夫を凝らし、
豊かに量的にも十分に作らなければならなかつた料理。
まあ、子育て時代の私の拠って立つ基盤みたいな仕事。
これも、やりすぎた。
やはり、2000年代に入ってから、やめました。
もとこどもたちが大勢来て、誰一人として、
私が一人でする料理を手伝わなかったあの日から、
あのお正月だったかな…。
料理の献立と材料の表を皆にはいって渡して、
私は自分の部屋に退散しました。
皆のトランプの手が止まって一時間って状態だったようです。
動きつづける人とのタイミングは難しいです。
動くなら動くで、ずいぶんと前に確認行為には及んでくれているようですが、
それも聞こえていないこともあります。
急によくのみこめないうちに動作、作業に突入していくので、
とてもついていけないことも多いです。
いや、とてもついていけないことがほとんどでした。
きっと、定型の伴侶は、動作と作業のぶっつづけの便秘というより、
流れっぱなしなのかなあ。動きっぱなし。
アドレナリンとかなんだっけ不足すると「うつ」になる物質とか、
きっとどんなに体力に限界が来ても、
よほど精神的なダメージがない限りは出続ける脳なんだと思います。
むしろ、伴侶の脳は、腸や胃。かなり敏感で繊細です。
いつも苦しんでいるとも言えるな。
昔、本当に大昔、
フクイに来たばかりの頃、
ある界隈で知りあった人に、伴侶は、
「よくケイコちゃんと暮らしていられるねえ」と言われたと聞きます。
それを聞いてから、それを言った人の価値が私のなかで下落しました。
どうにもならないことです。
私が生きている、暮らしている価値がない、と判断した人ですから。
今から、「自閉症スペクトラムVS定型」というカテゴリーを始めます。
定型というのは、自閉症スペクトラム度が低い低い人たちのことで、
これはこれでマイノリティです。
グレーゾーンの人とブラックの人と合わせると6割か7割にはなると思いますから、
このホワイトの定型発達の人たちは、
それはそれは希少種なのです。
人と人がつきあうということに苦を感じない。
いや、感じているのだと思います。
なぜなら、それなりに人と人はどんなひとでも違いますから。
でも、それはそれでしっかりと割り切って、
やんわり、広く、時にはそれなりの深さでも関わったりもします。
引きこもりの人たち、不登校の人たちの大半以上は、
自閉症スペクトラム度の高い人たちだと思います。
まあ、これは自然な流れ。
定型の人たちは、外側に向かってぐれたりするかもね。
ハッタツ障害の人たちには、三つ組みの障害がある、
というふうに言われています。
コミュニケーション、
社会性、
こだわり…想像力と置き換えることも…。
だけど、これは定型を基準にした三つ組みで、
私から見たら、
定型の人たちが陥っている三つ組みの障害ってあると思います。
いや、三つ組みとは言い切れない、さまざまな課題とも言えること。
課題を課題と感じないですむほどの、
スムーズに映る人と人とのあいだでのありかたゆえの…。
でもね。
かくいう私は、最近自閉の人たちも大嫌いになってしまった。
あまりにも無自覚に傷つけてくるから。
自覚的な人ですらそうだから。
それに、今のところ、お金に困ったことなんてない人たちとの出逢いが、
圧倒的に多いから…。
のえのことをね。
野性的って言ったら、「野性的…」って絶句したアスペさんがいました。
自閉症の人は、野性的なんです。
放っておいたら、それはそれは野性的な天性を持っているんです。
だけど、シリコンバレー症候群じゃあないけれど、
コンピューターや計算や、数学や物理や理屈にはまっている人も多いからね。
ところで、
あなたは、次の二つのうちのどちらがスキでしょうか。
映画館に行くのと、
博物館に行くのと…。
これは博物館に行くほうが自閉度が高いってことなんです。
要するに人と人の物語よりも物が持つ意味なんていうのが、
自閉の人たちには肌に合う。
だけど、これは私の場合は違います。
映画館のほうがスキ。
のえもそうだった。
ただ、やたら映画を観られる脳では最近ない。
うるさいのはいや。必要ない映画なんか時間の無駄。
伴侶は、博物館や美術館がお好きでしょう。
映画も私から見方を伝えられてずいぶん大丈夫になったけれど、
そして、むしろ一度判ったら尋常ではないほど、
幅広く、深く、大きく判る人だけれど、
どちらかと言えば、本性は博物館スキのタイプだと思います。
それから、集中力。
これはこだわりのひとつです。
ものつくりに向かうときの集中力。
これはある種、自閉の集中ともいえる。
だから、ホワイトでもいろいろまだらにその要素はある。
本でも、ノンフィクションのほうが安定して判る時期がありました。
でも、十代後半からフィクションもノンフィクションも境目がないことが多い。
ノンフィクションやドキュメントが物事のわかりやすさから、
自閉向け。
フィクションにつきものの「想像力」が働かない場合もある。
ただね。
のえもフィクションも大丈夫でしたよ。
それでも、のえの本のコレクションはややフィクションは私よりも少ない。
ミュージシャンの自伝や評伝、偏屈なアーティストのエッセイとか…。
ふふふ。
定型の人たちをこきおろす気はないんですよ。
ただ、ホワイトの人たちは、やばいなあ、障害の域だなあ、
そう思うことがこの頃多いのも事実です。
そういう意味では、すべてがスペクトラム。
スペクトラムって変化する範囲という程度の英語です。
そうそう、最近のテレビニュースでこのスペクトラムという概念が、
なんか秘密保護法の適用だか、憲法の解釈だかで語られていて、
おっ、こんなところにこのスペクトラム概念を持ってくるとは…、
と思ったものです。ずるい。
そもそも境目のない遠近両用レンズと一緒。
私は最近度が合わないから高かったけれど、あまり使わない。
夜の運転のときくらいしか…。
虹もスペクトラム。
虹の色を六色と決めたのはどこのどいつなんだ。
いや七色だって違うんだよ。無限…。
色の可能性のすべてかな。
ハッタツVS定型
なんて言っても、このスペクトラム感覚は大事にしたい。
それを基本に書いていきます。
こきおろすこともあるかもね。
なんで、あんなに雑談で用が足りるわけなのー。
雑談ってなんか意味アルノー。
って堂々とこれからは言います。
いやいや、もういっぱい言って来たけどさー。
かつてのベロ亭ファミリーをこれでひもといたら、
大変なことになってしまいます。
ヤエは、のえの5年目の命日の折、
皆より一日早く帰るので私が駅まで送っていったとき、
言ったものでした。
「時間がなくて読めなかった訳ではないの。
読むのがこわかった。」
それから始まったヤエとの大切な会話は、
私の胸に大事に大切にしまってあります。
人生よ、ありがとう。
こんなにもたくさんのものをくれて。
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