『ロスト・シティ・レディオ』も『闇の列車・光の旅』だ、リアルすぎる
『ロスト・シティ・レディオ』も『闇の列車・光の旅』だ、リアルすぎる
小説を読むんだから、おおいに楽しもうと思っていたから、付箋なんかするつもりはなかったけれど、やはり引っ張り出してきて、言葉のあまりにつよい喚起力にいくつか、つけた箇所より。
十年間、彼は記憶という、生と死のあいだの冥界に存在してきた。卑劣にも、残虐にも、『行方不明』と呼ばれて。そして、彼女は彼の亡霊とともに生き、普段通りの生活を続けた。彼は休暇が長引いているだけで、消息を絶ったわけではなく、おそらくは死んでいるわけでもない、とでもいうように。最初のころは探偵の真似事もしたが、ある意味では、そうしたことをやめてからのほうがすべて楽になった。諦めたのではなく、ただやめた。
52頁
それは大量殺戮で、無数の死者たちという形での祝勝会なのだ、と…戦争が終わるとは、つまるところ、命を捨てようという者がどちらかの側にいなくなるということなのでは? 55頁
少年のせいではない。ビクトルはほとんど話をしなかった。固い沈黙の下に埋もれた、もつれあう感情と見開いた観察眼…それが少年だった。彼が何を見てきたのかは分からなかったが、そのせいでほとんど口がきけなくなっていた。小柄で細い体格で、堂々としたところはなかった。台所のひんやりしたタイルの上で寝ることになっても、柔らかいクッションのあるソファと同じくらい満足しただろう。 67頁
あまりにリアルに読み進んでいくなかで、上記のどれも、いっそうリアルに身につまされるように入ってきたところだ。
あからさまで、むきだしの、どこもかしこもラテンアメリカの内戦の長い苦い年月…。
あからさまで、むきだしの、どこもかしこもラテンアメリカの内戦の長い苦い年月…。
私は少年ビクトルをその表情から内面、立ち居振る舞いまでよくよく知っているし、戦争が終わったあとの、一人一人に刻まれた爪痕の深さも知っている。行方不明者の家族として、友人として生きた人々を知っている。
だって、ラテンアメリカのあの光を探した教室で私は出逢っていたんだから。
「先生、虐殺が当たり前になると、慣れてしまうんです。銃声が一発、ああ一人、二発目、ああ二人目、三発目、三人目…。」
そんな会話をしたことすらあるんだから。
「政府軍」という虚構と、「ゲリラ」という虚構が入り乱れて、結局のところいちばん貧しく弱い、先住民の村や、奥地の人々が苛烈な殺し合いにのみこまれていくんだから。
弟が大学を卒業するというその日に、二度と帰ってこなくなった、そんな体験を持つ友人もいた。彼のお兄さんは最近亡くなった。きわめて繊細な神経の持ち主で、大学教授をしていたけれど、アルコール依存で続けられなくなり、体を壊したはてのことだった。
ここE県で働いていたこともある彼とは、今でも連絡を取り合っている。彼は、こんなことを理解できる日本人がいるとは思っていなかったと語った。
『闇の列車・光の旅』というメキシコ映画がある。4年ほど前に見て、一人一人の登場人物がみんなみんな、あのクラスの生徒たちにかさなってしまって、私にはそのリアルさのあまり、たまらない映像であり、顛末であった。
アメリカへの国境を越えようと、列車の屋根にしがみついて旅する貧しい人々の群れ。
ギャングの一味だった少年が、手をかけられそうになったある少女を救い、ギャングの一味にねらわれつづけるという背景があり、二人の恋がけっして実るわけがないというのが主旋律。途中ではレイプあり、殺人あり、なんでもありのなかで、なんとか国境をこえてアメリカに行きさえすればという『光』を求めての旅。
最後に列車が到着して、少女が国境の泥の川をなんとか筏で泳ぎ渡ろうとした瞬間に、彼女をさきに向かわせた少年が、ギャング一味に追いつかれて、彼女の面前で殺されてしまう。彼女が国境の小さな川をこえる瞬間に。
号泣した。号泣は深い河のようなもので、私がラテンアメリカを知りすぎているせいだと思っていた。深い河は、私の個的な悲嘆とも深い水脈でつながり、そのとき、私は号泣しながら、一時間記憶をなくした。
でも今は分かる。私がラテンアメリカをよく知っていたというせいだけではないと…。
そこにある現実、そこにある紛れもない暴力の連鎖、それでもやみくもに「希望」へとひたはしる人々のむきだしの姿、それが国境をこえて、私の中にも、私の記憶の中にもあるということが今は分かる。それが偶然、のえへの悲しみの水脈につながった訳ではないということが、今は分かる。
2000年にクラスで撮った写真が今、目の前にある。
一人一人との思い出。
最初のクラスの月日の記憶。
イタリア、ドイツ、アメリカ、日本…。
みんなペルーでは、けっして希望を持てなかった顔ぶれが揃っている。
そういう一人一人だから、私たちとも強烈につながろうとしていたのだと分かる。
完璧に、ありえないほど完璧に、私を裏切った生徒はまだここには映っていない。
小さな嘘や、こずるいペテン、そんなのは慣れっこになっていた。
ただ、あそこまで完璧にやられるというのは、きわめつきの体験となった。
ただ、忠実で、きわめて誠実だった、生徒たちのリーダー格の男性が、このときから最後までいたのだとこの写真を見てあらためて思う。
その彼とて、ありえないほど完璧に裏切った生徒の存在と力ゆえに、その誠実さを保てなかったまでのこと、保てない程度だったのだ。
しかしながら、そう言い切れるほどには、日本人である私の位置はけっして「公平」ではないのだ。
苦い。
苦い教室の記憶…。
『ロスト・シティ・レディオ』。
『闇の列車・光の旅』。
ただむきだしなだけ。赤裸々なだけ。
光も闇も完璧なまでに乱暴で放埒であからさまなだけ。
日本の内戦は誰からも見えないだけ。
ひとにぎりの、いや、本当はかなりの犠牲者がうごめいているというのに、
沈黙のなか、あえいでいるというのに、
見えない内戦は、どこまで行っても見えないのだ。
光も闇も、「幸福」のよろいで目を覆われて、完璧に伏せられているのだ。
秘密の国。
誰も殺さなくとも、殺されつづけているのだ。
この国では…。
日本では…。
ケイコ
小説を読むんだから、おおいに楽しもうと思っていたから、付箋なんかするつもりはなかったけれど、やはり引っ張り出してきて、言葉のあまりにつよい喚起力にいくつか、つけた箇所より。
十年間、彼は記憶という、生と死のあいだの冥界に存在してきた。卑劣にも、残虐にも、『行方不明』と呼ばれて。そして、彼女は彼の亡霊とともに生き、普段通りの生活を続けた。彼は休暇が長引いているだけで、消息を絶ったわけではなく、おそらくは死んでいるわけでもない、とでもいうように。最初のころは探偵の真似事もしたが、ある意味では、そうしたことをやめてからのほうがすべて楽になった。諦めたのではなく、ただやめた。
52頁
それは大量殺戮で、無数の死者たちという形での祝勝会なのだ、と…戦争が終わるとは、つまるところ、命を捨てようという者がどちらかの側にいなくなるということなのでは? 55頁
少年のせいではない。ビクトルはほとんど話をしなかった。固い沈黙の下に埋もれた、もつれあう感情と見開いた観察眼…それが少年だった。彼が何を見てきたのかは分からなかったが、そのせいでほとんど口がきけなくなっていた。小柄で細い体格で、堂々としたところはなかった。台所のひんやりしたタイルの上で寝ることになっても、柔らかいクッションのあるソファと同じくらい満足しただろう。 67頁
あまりにリアルに読み進んでいくなかで、上記のどれも、いっそうリアルに身につまされるように入ってきたところだ。
あからさまで、むきだしの、どこもかしこもラテンアメリカの内戦の長い苦い年月…。
あからさまで、むきだしの、どこもかしこもラテンアメリカの内戦の長い苦い年月…。
私は少年ビクトルをその表情から内面、立ち居振る舞いまでよくよく知っているし、戦争が終わったあとの、一人一人に刻まれた爪痕の深さも知っている。行方不明者の家族として、友人として生きた人々を知っている。
だって、ラテンアメリカのあの光を探した教室で私は出逢っていたんだから。
「先生、虐殺が当たり前になると、慣れてしまうんです。銃声が一発、ああ一人、二発目、ああ二人目、三発目、三人目…。」
そんな会話をしたことすらあるんだから。
「政府軍」という虚構と、「ゲリラ」という虚構が入り乱れて、結局のところいちばん貧しく弱い、先住民の村や、奥地の人々が苛烈な殺し合いにのみこまれていくんだから。
弟が大学を卒業するというその日に、二度と帰ってこなくなった、そんな体験を持つ友人もいた。彼のお兄さんは最近亡くなった。きわめて繊細な神経の持ち主で、大学教授をしていたけれど、アルコール依存で続けられなくなり、体を壊したはてのことだった。
ここE県で働いていたこともある彼とは、今でも連絡を取り合っている。彼は、こんなことを理解できる日本人がいるとは思っていなかったと語った。
『闇の列車・光の旅』というメキシコ映画がある。4年ほど前に見て、一人一人の登場人物がみんなみんな、あのクラスの生徒たちにかさなってしまって、私にはそのリアルさのあまり、たまらない映像であり、顛末であった。
アメリカへの国境を越えようと、列車の屋根にしがみついて旅する貧しい人々の群れ。
ギャングの一味だった少年が、手をかけられそうになったある少女を救い、ギャングの一味にねらわれつづけるという背景があり、二人の恋がけっして実るわけがないというのが主旋律。途中ではレイプあり、殺人あり、なんでもありのなかで、なんとか国境をこえてアメリカに行きさえすればという『光』を求めての旅。
最後に列車が到着して、少女が国境の泥の川をなんとか筏で泳ぎ渡ろうとした瞬間に、彼女をさきに向かわせた少年が、ギャング一味に追いつかれて、彼女の面前で殺されてしまう。彼女が国境の小さな川をこえる瞬間に。
号泣した。号泣は深い河のようなもので、私がラテンアメリカを知りすぎているせいだと思っていた。深い河は、私の個的な悲嘆とも深い水脈でつながり、そのとき、私は号泣しながら、一時間記憶をなくした。
でも今は分かる。私がラテンアメリカをよく知っていたというせいだけではないと…。
そこにある現実、そこにある紛れもない暴力の連鎖、それでもやみくもに「希望」へとひたはしる人々のむきだしの姿、それが国境をこえて、私の中にも、私の記憶の中にもあるということが今は分かる。それが偶然、のえへの悲しみの水脈につながった訳ではないということが、今は分かる。
2000年にクラスで撮った写真が今、目の前にある。
一人一人との思い出。
最初のクラスの月日の記憶。
イタリア、ドイツ、アメリカ、日本…。
みんなペルーでは、けっして希望を持てなかった顔ぶれが揃っている。
そういう一人一人だから、私たちとも強烈につながろうとしていたのだと分かる。
完璧に、ありえないほど完璧に、私を裏切った生徒はまだここには映っていない。
小さな嘘や、こずるいペテン、そんなのは慣れっこになっていた。
ただ、あそこまで完璧にやられるというのは、きわめつきの体験となった。
ただ、忠実で、きわめて誠実だった、生徒たちのリーダー格の男性が、このときから最後までいたのだとこの写真を見てあらためて思う。
その彼とて、ありえないほど完璧に裏切った生徒の存在と力ゆえに、その誠実さを保てなかったまでのこと、保てない程度だったのだ。
しかしながら、そう言い切れるほどには、日本人である私の位置はけっして「公平」ではないのだ。
苦い。
苦い教室の記憶…。
『ロスト・シティ・レディオ』。
『闇の列車・光の旅』。
ただむきだしなだけ。赤裸々なだけ。
光も闇も完璧なまでに乱暴で放埒であからさまなだけ。
日本の内戦は誰からも見えないだけ。
ひとにぎりの、いや、本当はかなりの犠牲者がうごめいているというのに、
沈黙のなか、あえいでいるというのに、
見えない内戦は、どこまで行っても見えないのだ。
光も闇も、「幸福」のよろいで目を覆われて、完璧に伏せられているのだ。
秘密の国。
誰も殺さなくとも、殺されつづけているのだ。
この国では…。
日本では…。
ケイコ
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