すべての人間は障害者である。AUTHOR ADMIN-DC DATE 2016年2月29日、辺見氏のインタビューより抜粋。
すべての人間は障害者である。
AUTHOR ADMIN-DC DATE 2016年2月29日、辺見氏のインタビューより抜粋。
辺見庸氏[作家、詩人]
以下は、SOTTO虹、が任意に抜粋したインタビューである。
読者にもぜひ共有していただきたく、掲載にふみきった。
辺見庸氏は、他者の痛みにまで想像力の射程を届かせることのできる稀有な作家だ。そして、その透徹したまなざしは、常に痛みをともなう生を生きる者たちに向けられている。
哲学的な意味で「人間とは疾病なのだ」というイメージを持つことにより、僕なんかは個人的にほっとするところがある。健常という概念は、常に「健常であるべき」という強制力=イデオロギーを含みますしね。それともう一つ、僕はなぜか、不揃いで欠損のあるもの、そして“正気”ではないもの、正気ではないとみなされるものに、強く惹かれるのです。その逆には吐き気をもよおします。
見る側は健常で、見られる側をいわば健常ではない人間、つまりなんらかの故障や異常がある人間と断定しているわけですから。しかも、見ることによって相手を類化してしまうわけです。しかし、見られる側も実は見ています。それこそ思考を奪われたような状態にある人間でも、じーっと相手を見ていますよ。この双方向性に気づくことぐらい大きな発見はありません。
善意ぐらい厄介で手に負えないものはないです。たとえばファシズム。ファシズムの端緒には悪意があると考えられがちですが、そうではない。すきまのない善意があるのです。善意の塊こそがファシズムを立ち上げるわけです。まあ、ファシズムは極端な例ですけど、弱者を排除するような意図というのは、実は悪意を元にしたものではありません。善意の集合の方が、悪意などよりもはるかに怖い。
健常さを迫られているとでも言いましょうか。こう、みんなで同じ歌を歌うとか(笑)、みんなで統一されたシュプレヒコールを乱さないように叫ぶとか。その中で一人だけ違うことを言ったり、違う行動を取ったりすると、たちまち病者にされてしまう。僕はそうした嫌な光景を色んな現場で見せられました。われわれはいま、そんな社会に生きているのだと思います。
そこで注意しなければならないのは、そうした車椅子の人たちの行動をグロテスクと見る視線が社会にあるということです。そして、その視線は、現在の体制に抗っているという国会前の若者たちにも無意識に共有されていたように感じられます。彼らは恰好の悪いもの、醜いもの、異様なもの、乱暴なものを排除するという。それで警察と打ち合わせをした上でデモ行進し、最後には行儀よく道路の掃除をして帰る。僕にはちょっと生理的にわからない。異様なものが入り混じることに対する嫌悪──その感性は彼らが抗うべき現体制の感性と同質なものなのではないか。
それで、僕がいちばん怒ったのは、彼らがあれだけの警察の壁を壁と思っていないことです。むしろ、警察を守護者であるという風に考えている。この感性の倒錯ですね。僕は警察の壁に体ごとぶつかっていって突破しろと言っているのではないのです。ぶつかって突破したいという自然な衝動が殺される気配──それを若い人たちがまるで感じ取っていないことに苛立っているのです。
仮に体が動こうが、お役に立てようが、こちらは活躍なんてしたくないわけですから。それはともあれ、一億総活躍とはとんでもない国家スローガンであって、そうした文言が出てくる状況というのは、やはり1930年代あたりに似ている。ファシズムの時代ですね。ある意味、現在の日本国はファシズムを反復しようとしているように見えます。
そして、インタビュー氏はこう白状する。
「おい、俺は骨をごりごりこすりつけるようにして話したいんだよ。俺は汚い肝をでろんでろん絡ませるようにして語りたいんだよ。首から上でへらへら話すんじゃないんだよ」(「語ること」辺見庸掌編小説集/黒版所収)。首から上でへらへら話す賢しらな筆者は、おそらく見透かされていただろう。障害者をめぐって筆者が口にした言葉の数々──それらが筆者にとって観念でしかなく、自分の身体の外部にのみあるものでしかないことを。精神の生理において骨の髄まで観念的な男である筆者は、ごりごりの身体性をともなった辺見氏の言葉に圧倒され、インタビューを終えるとほうほうのていで逃げ出した。東部戦線でけちょんけちょんに撃破されたドイツ軍のように敗走しながら思った。「死にぞこない」の辺見氏、故障した身体を持つ辺見氏は、言葉本来の意味で健康である。それは、生に対する肯定力においてだ。辺見氏の小説作品を読んでいて強く受けるのは、社会や国家という大文字の概念をはじめ、さまざまな対象に諧謔的な否定を突き付けつつ、どこかで氏が全肯定の高笑いを響かせているという印象である。今回のインタビューでも、筆者はそうした印象を受けた。生に対する肯定力を持たない人間に否定力が持てるはずがない。すべての人間は障害者である──この重量感のある言葉もまた、その表層的な意味とは裏腹に、実は人間に対する力強い肯定のメッセージなのではないか。筆者には、そう思える。
付記⇒4月はじめには、大阪まで辺見氏の講演に出向きます。
最近は歳とからだの不具合やらでフットワークがけっして軽くはないのですが、
これは行かなければと即、チケットを手に入れました。
ぞくっとするほど、本質的かつラディカルな言辞として腹におさめました。
善意についての言及は特に打たれました。
AUTHOR ADMIN-DC DATE 2016年2月29日、辺見氏のインタビューより抜粋。
辺見庸氏[作家、詩人]
以下は、SOTTO虹、が任意に抜粋したインタビューである。
読者にもぜひ共有していただきたく、掲載にふみきった。
辺見庸氏は、他者の痛みにまで想像力の射程を届かせることのできる稀有な作家だ。そして、その透徹したまなざしは、常に痛みをともなう生を生きる者たちに向けられている。
哲学的な意味で「人間とは疾病なのだ」というイメージを持つことにより、僕なんかは個人的にほっとするところがある。健常という概念は、常に「健常であるべき」という強制力=イデオロギーを含みますしね。それともう一つ、僕はなぜか、不揃いで欠損のあるもの、そして“正気”ではないもの、正気ではないとみなされるものに、強く惹かれるのです。その逆には吐き気をもよおします。
見る側は健常で、見られる側をいわば健常ではない人間、つまりなんらかの故障や異常がある人間と断定しているわけですから。しかも、見ることによって相手を類化してしまうわけです。しかし、見られる側も実は見ています。それこそ思考を奪われたような状態にある人間でも、じーっと相手を見ていますよ。この双方向性に気づくことぐらい大きな発見はありません。
善意ぐらい厄介で手に負えないものはないです。たとえばファシズム。ファシズムの端緒には悪意があると考えられがちですが、そうではない。すきまのない善意があるのです。善意の塊こそがファシズムを立ち上げるわけです。まあ、ファシズムは極端な例ですけど、弱者を排除するような意図というのは、実は悪意を元にしたものではありません。善意の集合の方が、悪意などよりもはるかに怖い。
健常さを迫られているとでも言いましょうか。こう、みんなで同じ歌を歌うとか(笑)、みんなで統一されたシュプレヒコールを乱さないように叫ぶとか。その中で一人だけ違うことを言ったり、違う行動を取ったりすると、たちまち病者にされてしまう。僕はそうした嫌な光景を色んな現場で見せられました。われわれはいま、そんな社会に生きているのだと思います。
そこで注意しなければならないのは、そうした車椅子の人たちの行動をグロテスクと見る視線が社会にあるということです。そして、その視線は、現在の体制に抗っているという国会前の若者たちにも無意識に共有されていたように感じられます。彼らは恰好の悪いもの、醜いもの、異様なもの、乱暴なものを排除するという。それで警察と打ち合わせをした上でデモ行進し、最後には行儀よく道路の掃除をして帰る。僕にはちょっと生理的にわからない。異様なものが入り混じることに対する嫌悪──その感性は彼らが抗うべき現体制の感性と同質なものなのではないか。
それで、僕がいちばん怒ったのは、彼らがあれだけの警察の壁を壁と思っていないことです。むしろ、警察を守護者であるという風に考えている。この感性の倒錯ですね。僕は警察の壁に体ごとぶつかっていって突破しろと言っているのではないのです。ぶつかって突破したいという自然な衝動が殺される気配──それを若い人たちがまるで感じ取っていないことに苛立っているのです。
仮に体が動こうが、お役に立てようが、こちらは活躍なんてしたくないわけですから。それはともあれ、一億総活躍とはとんでもない国家スローガンであって、そうした文言が出てくる状況というのは、やはり1930年代あたりに似ている。ファシズムの時代ですね。ある意味、現在の日本国はファシズムを反復しようとしているように見えます。
そして、インタビュー氏はこう白状する。
「おい、俺は骨をごりごりこすりつけるようにして話したいんだよ。俺は汚い肝をでろんでろん絡ませるようにして語りたいんだよ。首から上でへらへら話すんじゃないんだよ」(「語ること」辺見庸掌編小説集/黒版所収)。首から上でへらへら話す賢しらな筆者は、おそらく見透かされていただろう。障害者をめぐって筆者が口にした言葉の数々──それらが筆者にとって観念でしかなく、自分の身体の外部にのみあるものでしかないことを。精神の生理において骨の髄まで観念的な男である筆者は、ごりごりの身体性をともなった辺見氏の言葉に圧倒され、インタビューを終えるとほうほうのていで逃げ出した。東部戦線でけちょんけちょんに撃破されたドイツ軍のように敗走しながら思った。「死にぞこない」の辺見氏、故障した身体を持つ辺見氏は、言葉本来の意味で健康である。それは、生に対する肯定力においてだ。辺見氏の小説作品を読んでいて強く受けるのは、社会や国家という大文字の概念をはじめ、さまざまな対象に諧謔的な否定を突き付けつつ、どこかで氏が全肯定の高笑いを響かせているという印象である。今回のインタビューでも、筆者はそうした印象を受けた。生に対する肯定力を持たない人間に否定力が持てるはずがない。すべての人間は障害者である──この重量感のある言葉もまた、その表層的な意味とは裏腹に、実は人間に対する力強い肯定のメッセージなのではないか。筆者には、そう思える。
付記⇒4月はじめには、大阪まで辺見氏の講演に出向きます。
最近は歳とからだの不具合やらでフットワークがけっして軽くはないのですが、
これは行かなければと即、チケットを手に入れました。
ぞくっとするほど、本質的かつラディカルな言辞として腹におさめました。
善意についての言及は特に打たれました。
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| なぜ、人は妄想を生きられるのか | 20:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑