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「ご苦労されたんですねえ」で、切り捨てられる 他者の人生の歴史と痛みと… 「模範解答」が出たついでに累積赤血の出血サービス大放出!!!

「ご苦労されたんですねえ」で、切り捨てられる 他者の人生の歴史と痛みと…
「模範解答」が出たついでに累積赤血の出血サービス大放出!!!

このSOTTO虹をともに担う、私、米谷恵子のパートナーの岩国英子は、個人でもfbをしていまして、最近トップページを替えました。あっ、もう知ってますよね。
息子のkARAがベロ亭の壁面をライブペインティングした壁画に、タイミングとして今だって感じで出しました。

知らない訳ではないけれど、二回だけ会った…私は大昔、それこそ30年以上前にかな、それから最近とかな、はなはだおぼつかないけど…ある方が、壁画にかかわる息子のことを英子が語ったのに対して、「なつかしさのあまり」書き込んでこられた。

うーむー。
またも「ご苦労」の三文字。よく見るよなあ。このての表現というか、全く同じこの表現。

はーい、これはすぐに確かめられますから、確かめてください。ありゃ、どうなんだ。友達申請してないと見られない?それてもトップページの画像についてのやりとりだから、どなたも見えるのかしら。

ところで。

セレブ系のトランスのある有名人と化した方も吐いたということなのです。
英子に向って、私たちの番組を観たタイミングとして、まあ感想としてではないかもしれないけれど、総じて、その傾向を帯びながら、「彼」の想像の及ばない人生に対して、「悪いけどゴミ箱じゃなくて、ご苦労箱に入れさせていただきまーす」てな感じで言われたんだと思います。これは、英子の経験なので私は聞いたことを書いています。
その「彼」は、県に呼ばれて講演。なんで、私たちが住んでいる県で、ベロ亭を呼んで講演しないのかは全く不明ですが、ある議員さんのご説明によると、県の職員は「ぎょうぎょうしい経歴がお好きなので、難しいのではないでしょうか」ということでした。あらあら、この議員の方、お子さまのある悩みを英子に直接されたわりには、英子の「ぎょうぎょうしい経歴」を知らないんですね。いやいや、私のもですけど…。まあ、とりあえず、そのての経歴は書くのはやめた人生にだいたいはしていますから、視界の危うい県の行政担当者にはなーんにも見えてはいない訳であります。
その席で、英子はその「彼」を囲むささやかなミーティングのようなものを設定できるよう、事前に県にかけ合ったのです。まあ、その「彼」は、なかなかフェアなところもある若―い紳士君ですから、英子は寛大なこころにもなれるという訳です。で、英子のことも私たちのこともなーんにも見えないセクマイ若い衆数人と、「ご苦労されたんですねえ」と、私たちの人生をひとくくりにした「彼」とのミーティングは無事終わったようです。

おあとはですね。
トークバックという映画をお作りになった女性映画監督も同じこと言いましたね。これも英子とのネット上のやりとりなので、英子に怒られちゃいそうですが、えっ、このタイミングで言うわけーって、あきれましたね。一応、この映画観てますよ。彼女の書いた本も読んでますよ。でも、がががーん、って彼女の存在意義と価値は下落しました。
「ご苦労されたんですね」。
それは関わりあわないつもりの、在野の「苦労人?」に向けて、持ち上げたふりをして突き放す日本語表現であると、「巷の比較言語学者」の私めとしては、分析しておりますです。突き放すというより、そのまま谷底にいなはれって、突き落としなおすような感じかな。

はてさて、まだいますよ。
ベロ亭の子ども5人が幼児から小学生くらいだった頃の保育園の園長センセー。
はい、うちの双子ちゃんは、「今度ねえ、来た冷蔵庫は新しくてきれいなの。拾ってきたなかでは、今までで一番きれいー」なんて、屈託なく、突き抜けて、自慢しまくっていたものでしたから。ついでに、少しでも飲むと顔が真っ赤になる英子のことを、「ママは飲み介」なんてデマも飛ばしておりましたがね。
そんな保育園時代に、さぞや「かわいそうなおこちゃまたち」と見ていた園長センセーがですね。数年前、双子の一人が越前陶芸祭に手伝いに来ていて、ものすごく久々に会った折、のたまわったのです。40歳近い、娘を前にしてですよー。
「あの頃は、苦労していたものねえ。」
おっとー、聞いたぞ、聞いたぞ。あんたの本音、聞いたぞ聞いたぞー。

次なるエピソードは、昨日、ある方とのりにのって、話していた時に出てきたエビソード。その方は足に障害のある方で、まあ、この地域の良い家の出で、この十年あまり、この地でハンディキャップをもって、良い家柄に生まれると、「不渡り手形」なんて言われながら、たくましくもとぐろを巻いた毒の持ち主になるのねえって、やりきれなくも、「絶対、この人のこのおしゃべり、愚痴に終わらせないぞー」ってつきあってまいった方でございます。でありまして、最近は、実に純粋な本音対本音で、特に二人きりの時間が保障されると、まあ、ものすごい丁丁発止をするという相手から出たエピソードです。

「子どものとき、大嫌いでくそおもしろくもない、なーにもわかちゃいないなあって思っていたセンセーと、あるエレベーターで鉢合わせになったんですよー。
でねー、いやだなあ、あのセンセーじゃないかなー、って思いながらいたら、向こうが気がついて、「あら、●●さんよねえ、私、あなたのことが大人になってからどうなるか、ものすごく心配していたのよー。それが立派にお仕事されてるのよねえ」ってきたのよー。もうって思いながら、「ええ、ご心配していただいたおかげでー」と、ことさら嫌味と皮肉で受け流しましたわ。ああ、めんどくさい、って思いながらね。」

はい、読者の皆様。ここで、ご苦労がご心配、と切り替わったことを意識されていますか。

あと、なぜだか全く不明の「ごめんね、ごめんね」も似通った神経で発せられる、自己防衛的言辞であることも多いか…と。
二日前にあるメールでいただいた「ごめんなさい、恵子さん」はこころから受け止めていることだけは、つけ加えておきます。時々、勘違いして悩ませているらしいことも気づいていますから。

ある本が、20年ぶりの交信という知人から送られてきました。のえの写真もはさまっていました。ただね、おかしいんです。
「写真送るの遅れてごめんね。ごめんね。」
そうね、15行くらいのメモ的な手紙の中に、なんと「ごめんね」が4回出てきました。
私はこの人と、写真を送ってもらう約束をした覚えはない。
まして、ホームレスに関する本をなんの説明もなく受け取る筋合いはない。
それよりもなによりも、この人が、のえが亡くなったことを知っているのか、知らないのかの言葉もない。だから、むろん、お悔やみらしき言葉もない。いやいや、お悔やみって、あえて言いますけれど、どんな言葉だっていいのよー。「のえちやんのこと、あとから知りました。ショックでした。どんなに大変だったか、思い続けています。」といった表現でもなんでもいいわけですよー。あらあら、文例示しちゃった。このまま、利用できると思ったら、マニュアル大好き連中、大間違いですからね。
即、その日のうちに本など送り返しました。ただ、むろん、写真はもはや「遺影」ですから、「ありがたく頂戴します」と受け取りました。

  ≪のちに知りました。この手紙の主が、家族を自死で亡くしているこ  とを、それからさまざまに大変な人生を送っていることも。でも、知っ   たこっちゃありません。人と人とのふれあいかたの最低限の筋道も   知らないんですから。つまり、ご家族の死にも向きあえていないとい  うこと。で、「知らなかったのー」って私はあとで、間接的に責められま  す。直接責められた英子は、「写真だけは抜き取られていた」などと   いう冤罪的発言に手紙の主の友人につきあわされて、直接、本人が  恵子ちゃんとやりとりすべきー、で通しました≫

読者は、「ご苦労」が「心配」になり、それから「ごめんね」になったことに留意すべきですね。

これらは、まっすぐに向き合えない現実に対して、ひとさまがほおり投げる、他意なき、いや他意まんまんの物言いです。

他意。
はい、ご説明しましょう。
ご苦労箱、心配箱、ごめんね箱、これは向き合えない、ないしは向き合えないとも意識できない、人様の尊厳に満ちた人生を、ガボーンと投げ捨てる日本語表現です。

ついでに、大丈夫って、本気で使ったことあるかお聞きしましょうね。
それさあ、自分の安心立命のためだけに使う日本人、だいたい70パーセントくらいだよね。本気で相手のこと心配して、「大丈夫ですか」って必至で倒れた人に近づく場合は別よ~。

それ以外は、「ええ、大丈夫です」っていう言葉しか期待していないよね。

私は堂々と言いますよ。
「いいええ、ぜんぜーん、大丈夫じゃないでーす」と。
たいがい皆さん、心の準備ありませんね。
ぽかーんとして、絶句なさいます。
ここで何事かを言えるひとは、相当の人生体験を日本人としてはしていらっしやる方かと思います。

はてさて、
日本に来た外国人が最初にマスターするのも、この「大丈夫?」です。
で、私は日本語教室で、多くの日本人が本気で心配なんかしちゃいないのよーってことを伝授します。即、判ります。日本人以外はね。あるいは日系でも、他の文化社会をちゃーんとに生きていればね。

はーい、読者の皆様、「ご苦労さま」でした。
ここまでお読みいただいて、「ご苦労されたんですね」って言われたときに、
勘違いして嬉しくなったり、言った人に心酔したり、など、
以後、お間違いのない人生をお送りになることをこころから祈っておりますです。

じゃじゃじゃーん。

次回は、「讃辞は惨辞」といったあたりで、
ひとさまのことをいかに他人事化しているかの研究第二回目の発表を、
予定しておりますでーす。
まあ、褒め殺しって言葉もあるくらいの文化ですものね。
乞う、ゴキターイ!!!

:恵子
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| ノコサレシ者が伝授するこの気持ちとあったらいいマナー | 18:51 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「お元気で何よりです」と「心が震えます」のあいだの、越えられない距離?(翌日緑字加筆)

こんなふうに、うだる暑さのなかで、
信州での第四か第五か、もはやいくつ目の人生をやっているのか、
というような催しに向けて準備をしているなかで届く手紙。

なぜか、手紙が多いというのは、この時代に手紙を書く習慣を残している人が、
やはり本当に久々に「あの二人はどうしているだろう」と思っていたところに、
「なにやら、あんなに大変そうな人生なのに、果敢に取り組んでいるんだなあ」
といった、チラシやらで受けた感慨を伝えようとするからこそ、
まあ届く手紙なのだということなのでしょう。

今日も来ましたね。
「お元気そうで何よりです」。
カウント開始。明日も来るかー。ともあれ、これで二回目。
ほっとするんだね。私たちが生きていて、しかも何やらチャレンジしようとしていて、
あんな大変なことがあっても、「なんでもないんだわ」って安心を伝えようとするんだよね。

あの文面から安心するだけって、私たちは口あんぐりなんだけれど、
皆さんはどう思われますか。

昔、姉の前の夫がパーキンソン氏病になって、
車いす生活になった頃、姉の友人が来て、
「思ったよりお元気そうで何よりです」というのを聞いて、
「へへへへえっ、こういう言い方ってあるんだ。こういうときに使うんだ」
って、覚えた記憶はしかとあります。
でも、同時に「本当にこういう時に使っていいんだろうか」という疑念は、
正直言って湧きました。

わたし困るのいやなの。大変なこと見ることになったらどうしたらいいか判らないし。
ってことなんではないのかな、
あああ、他人事ですむ程度に「笑ってくれてよかった」ということではなかったのかな。
まあ、姉の前夫は、最後まで笑顔は絶やさなかった。
それだけが必要と心得ていたように…。

それが、何を彼に強いていたか姉は知っていたと思う。
だって、他人事なんかじゃありえなかったから。
姉は十数年、夜、介護で通しで眠る生活なんかしていなかったから。

大切な人の自死に遭遇するという体験は、
人生が変容する体験です。
人生が変容する、というのは、ある種、
中途障碍者になるくらいな人生の変容を体験するということです。

「お元気で何よりです」を容れる心の場所はありません。
それは、言っている人の安心立命のための言葉でしょう!
言っている人の主体が問われる言葉でしょう?

あああ、向き合わなくともいいんだ、よかったって。

今日は、ある自死遺族のサポートをする団体で活動もされている方から、
お手紙が来ました。ちょっとした経緯があった団体ですが、
この方は個人として、今は私とつきあってくれています。

「この度は、ずいぶん、素晴らしい企画をされていて、
お二人のアイデアにびっくりしました。
ここまでまとめるのは大変でしたでしょう。中略
共感し、心に響きあう方が大勢ご参加くださるといいですね。」

それから、チラシを関心のありそうな方に渡す旨、
軽井沢に行く予定の方にも…とあるのにヒデコ仰天。
それから、予定があって行けない残念さを書いて…。
信濃追分や会場の油やもご存じのようで、これもこちらがびっくり。

そして結びの一行前。

「心から共感して、参加なさる方の恵みのときとなりますように願っております。」

そして、
「心が震えそうです」。
と結ぶ。


ねえねえ、皆さん。
あのチラシ見て「心が震えない」んですか。
訊きたい、訊きたいです。

震える心をふりきるんですか。それとも…。
それとも、何書いてあるかわかんないん?
なんか気が重いわー…なのかな。

まあ、
「お元気そうで何よりです」
と180度、違うくらいのところからの言葉だとは思いますよ。
「心が震えます」。

うん?

判らない?

それならそれでいいよ。
安心立命の「戦争と自殺社会への道」を、
安心立命と安泰で、
すすんでいってくださいな。

自衛官がいちばんってくらい、
自殺が多いって知ってるのー?


秘密保護法の深層心理を支えているのは、
まさに「自死を隠す、よける日本人の究極の条件反射」
みたいなもの…。

でね。
でね。

そういうの、
やめてほしいから、
やる催しなんですけどね。

ケイコ

| ノコサレシ者が伝授するこの気持ちとあったらいいマナー | 23:09 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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人間って、どこまでゴーマンになれるんだろ。「思い出させてすいません」って、思い出している者同士がつながっていればいいだけよ。

ああああああああああ、また勉強しました。
人間ってここまで残酷にもゴーマンにも、
ものすごく良心的そうで品位のある年配の方までなれるって、
すごいことかもって、体中に震えが来て、怒りが走って、
でも、そのうち、そんなもんかってふうにも思ったりしつつ、
なつかしいついでに、今日、
のえのゆかりの西成の立ち飲み屋さんにお電話しました。




今日は、人生で大きな区切りになるような別の決断を二人でしました。

それから、西から一人、東から一人、
ふいに贈り物といっていい連絡をいただきました。
ありがとう。感謝しています。

なのにねー。

ここから本題ね。




今晩は、のえがゆかりある西成の立ち飲み屋さんで、
防音工事のカンパをつのるためのライブがあるというのを、
あるネットのやりとりでヒデコが知りました。

あらあら、のえときわどい関わりのあった子も出たりしちゃっててさー。
のえとの出逢いあってこそ、の今晩というふうに、
続いている訳でしょう。

まあ、聞きに来た人もそんな人もいたに違いない。ふふ、それなり嬉しいね。
というのも、今、その居酒屋さんのマスターと電話で話したあとだから思えるのね。

のえの人生とつながっている人と、つながっていることでこう思えるのね。

意味、伝わっている?
そうか、伝わっていないならお伝えいたしましょう。

最近、ヒデコはこの方なら信頼させていただけるだろうと、
このブログと、のえのブログとを紹介した方とのことです。
実は、この方を通して、この立ち飲み屋さんの今晩の企画を知ったのです。

そして、その方とヒデコはさり気なく良いやりとりをしました。
だけどねー。その末尾に体中が震え、
人がどれほどゴーマンになれるかを示されたように感じ、
カテゴリー「ノコサレシ者が伝授するこの気持ちとあったらいい言葉」
復活―って、切り替えた次第です。

一応、マナー集くらいのつもりのカテゴリーでもあるので、
こういうふうに言い換えたら、おそらく多くの自死で遺された人たちは、
傷つかないはずよってお伝えしましょう。
あっ、まず、なんていう言葉で結ばれていたか、お伝えしないとね。

丁寧で、さりげない短文の結びはこうでした。


「思い出させて、すいません」。





どうして、体中が震えるか判りますか。


のえの人生、思い出したら、なにか差し障りでもあるんですか。
たたり、でもあるんですか。
汚れでもあるんですか。
心身の具合でも悪くなるんですか。


ははーん。

そういう体験をなさった方かもしれません。
そう思うと切ないけれどね。

この類いの齟齬は、意外と当事者が多いというのもあるので…。


すいません。この文章、今、ここで書いているまさにその方が読まれたとしたら、
これは「すいません」ってはっきり私は一回は謝ります。

でも、誰もが言いそうで意外にこの言葉は聞いてこなかったなあ。
まあ、様々な、ヒトゴト語彙集はたまってきているし、
その研究、分析も進んでいるけれど、
この表現は誰もが言いそうで意外と聞いていないかもー。

影でサー。
「思い出させるとつらいだろうから、話さないようにしてるんだよね」
なんて声は、していたに違いありませんが。

思い出したいし、話したいし、
のえの人生のゆたかさにどれだけ向き合ってきたか、
このブログの読者はある程度はご存じですよね-。


人のこういった表現って、その方の思わぬ葛藤を表しているのかもしれません。

言っていいのかな、言わないほうがいいのかな、
何言おうかな、何も言わないほうがいいのかな、うんぬんかんぬん、うんぬんかんぬん。


のえが天国で腹抱えて笑ってますぜ。
ケイコちゃん、やりすぎーって。


アプローチが難しいのは否定しません。
12月の講演のあとの、「のえさんはなんで亡くなったんですか」は、
このブログの継続した読者なら記憶に新しいことでしょう。

なんで、
なぜ、
どうして、
これは、どんな類いの質問としても、
単純すぎるか、
深遠すぎるか、のどちらかです。

自死の場合は、手段とか病気の有無とか、悩みのありようとか、
ああ、書いているだけでいらだつなあ、
じゃなくて、じゃなくてね-。
人生は全体があって、その人の一分一秒で全て刻まれているのよ。
その人の、
なんで、
なぜ、どうして、を知っているのは、
その人だけなのよー。
その人だけのものに、精一杯、近づこうとするのが、
ときには、生きてノコサレタ者の宿題にもなったりする。

私、四年がかりで宿題していて、もうすぐ、
提出ってときに、
どうして、とか、
思い出させてすみません、とか、聞くわけ―。
おいおい。

はい、マナー集なので、一応書いておきます。
万能ではありません。
性的少数派も発達障害者も精神障害者も、
自死で遺された人たちも、
在日も、被差別部落を背景に抱えた人でも、
一人一人がぜーんぶ違うでしょう。

万能なマナーはありません。
あなたが、その人が大切だと思うなら、必死で、
あなたのオリジナルな応えを見いだしたいと思うはずです。

では、とりあえずの応え。

「もしも、おつらい気持ちにさせたとしたら、すまなく思います。
私は、今晩の居酒屋さんに、のえさんもいらしていたような気がします。」

最初の一文だけは、かなり応用が利く。
二文目は、のえを知る人でないとなかなか言いにくいかもねー。


昨日の無反応番付に入っている方が、
首都圏の講演で、「重いテーマ」って表現を使っていると、
ヒデコが困惑していました。

彼女には、きっと間違いなく、「重いテーマ」なのでしょう。


でもね。
「重い」って何?
自分の語っているテーマに自信や誇りって持っていいんだよ。

単なるこだわりでもない。
こういう体験はさ。
人生を変容させる体験な訳で。

変容していくことで大きく深くなる体験な訳で。
それを許さない社会で、
それを許さない人々のジョーシキの中で、

簡単に「重い」「重い」って連発したり、
「思い出させてすいません」ってつい、口に出したり。

そういうジョーシキ、
くつがえさないと、世の中は変わりません。

私たちの歴史は、まさに死者と共にあるのですから。


今日、ここに書いた話題の方、
これを読まれたとしたら、
読みっぱなし…ぶしつけな言い方ですが…ではなく、
もう少しお話、いつかできたら嬉しいです。

ネット上だけのおつきあいはさびしいものです。
とりわけ、こういう話題では…。



きっと、大きな悼みと痛みをしまってこられた方なのではないですか。
考えさせてくださって、心から感謝しています。


ケイコ


追記 書いて間もなく、誰の拍手も入らないうちに??
   このブログの発言の方の背景を間接的に知りました。
   向き合えない、友人の家族の「自死」があるとのことです。
   沈黙
   沈黙
   沈黙
   ち ん も く

   確かに、ノコサレタ側は苦悩する課題です。
   その苦悩を置き去りにしてはダメなんです。
   苦労してでも、共に悩む。
   共に悩めないなら、そっとそばにいる。
 
   くだらんヒトゴト発言よりも、
   そっとそばにいる…そのほうが何倍も困難かもしれない。
   エリザベス・キュープラ―・ロスの言葉です。

   私は確かに「つきすすんだ」ノコサレシ者かもしれません。
   でも、人知れず、人生を見きわめ、深め、揺るぎないまなざしを獲得しながらも、
   それをそっと伝える相手すら見いだせない人もいるかもしれない。

   それ以前に、「わたしたち」は、
   喪失の痛み以上に大きな偏見と、沈黙の壁に包囲されて、
   喪失の内容そのものと向き合えずにいるのです。

   そこがこの課題の出発点です。
   それだけは、ここに記しておきたいと思います。
 

| ノコサレシ者が伝授するこの気持ちとあったらいいマナー | 23:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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のえの生誕日に始める新カテゴリー「ノコサレシ者が伝授するこの気持ちとあったらいいマナー」

日本社会というか、このご世間さまは、
本当にノコサレシ者がどういう気持ちが判らないままで暮らしているんですよね。

それは、ノコサレシ者が、言われたら違和感のある言い回しや表現、
このタイミングでこれ言うのかって感じる気持ちなどなどすら、
世間に言わせてもらうことを許されていないから、
なおのことわかんないまんま、
ハレモノみたいな扱いが続いちゃうだけだと思います。

私はハレモノではありません。
晴れものではあるかな。腫れ物ではない。そうなんだよー。
いやなことはいやなことって女性が言えない時代があつた。
今は痴漢もセクハラもおかしなことの代表みたいになったけどさー。

それでね。
私は、まだ零時こそまわったけれど、
のえの生誕日の余韻がまだ残っている深夜のうちに、
新しいカテゴリーを創出することにいたしました。

それはー
「ノコサレシ者が伝授するこの気持ちとあったらいいマナー」。
そのうちまとめてベストセラーにでもしようかしら。
うーむ、新しい分野のミリオンセラーよね。


まずは、21日が、のえの誕生日というか、生誕日であることから、
どうしていまだに「お誕生日おめでとう」が続くのか疑問であること、
そういう人たちの気持ちの深層に少し分け入ってみることにしまーす。

そこに分け入る前にね。
なんで「おめでとう」と言うものでは、もはやないっていう、
こちら側のノコサレシ者の気持ちから…。

おめでとう、はお祝いの気持ちですって知ってるよね。
広辞苑を引くと、未来へとつなぐ幸せを祈る、うんぬんとあって、
ほらね、やっぱりね、って気持ちになります。

年賀欠礼を形式として欠かさなくとも、これに気づかない人って多いのね。
亡くなっても「お誕生日おめでとう」って人。

最も喪失感の大きい人は、それにとっくに気づいています。
特に子を亡くした親とかはそうでしょう。

それでもいくら喪失感が大きくても、もしかしたら使っちゃう場合もあるかも。
そっと、娘の遺影に向かって、「●●ちゃん●歳だね、おめでとう」なんてつぶやいているかも。
それも人知れずとか、大声で家中に響いたりとかしちゃったりしてさ。
どう考えても、ほとんどないケースとしか思えないんだけどね。
やっぱり、「おめでとう」だけはどう考えても言えない。

でも、それでも、喪失感の大きさが判っていてふっと言ってしまうのと、
その喪失感ゆえに、
それはもう言えないって判って言わない場合と、
あんまり変わらないよ。
そこにある現象は…。

でね。
私は、さすがに五年目の生誕日を迎えて、
昨日、前日には、まさかね、まだ「おめでとう」なんて言う奴がいるんかいな、
ってなくらいの気持ちで観察しておりました。

いましたよ。
おととい、のえの唄に出逢ったばかりの方。
のえと同じ年で同じような生きづらさを抱えた方。
でも、彼女は亡くなっているとはいえ、のえの唄と共に、のえと出逢った方です。
そして、まだ二日目です。
「おめでとう、はさ。違うんだよ」って言ったら、
ものすごく謝ってきて、「謝らなくていいんだよ」と応えました。
以前お教えした方に「教えてくれてありがとう」と言われたのが一番自然だったかな。


これはさ。マナーのたぐいのことでもあるよね。
昨日は、「応援団」なる方々に、この辺りのことを書いたらさ。
誰も、のえの生誕日のことで言ってこない訳サー。
そうじゃなくてね。「おめでとう」が違うってことでさ。
「おめでとう」って出ちゃう人に、喪失感がないんだなーって、
突きつけられちゃうみたいな体験なんだなって昨日考えていて発見しました。

のえの妹もしましたよ。一年目、二年目って続いて、
ヒデコが注意したら、なんて言ったらいいか判らなくなったみたい。

考えろよなー。
思考停止に陥るなよな-。

記念日なんです。その人が生まれたという事実は変わらない。
でも、年はとらないんです。
知ってるよね。きっと書く人は知らないんだろ。
そこまで考えないだけかー。
年を取らない娘のことを毎日かみしめていたら、それはまあ考えなくとも判るわけさ。


で、いつだったか、今日は、
のえさんの生まれた大切な記念日なんですね。
そうやって、あの唄が生まれたんですね、つて言われた時はめちゃ嬉しかったよ。

誕生日の箝口令なんかしく気はないのよ。
この前の三字の漢字は、カンコウレイって読むの。
特定秘密なんかになったひには、誰もそのことに触れなくなるみたいな感じのことよ。
要するに、ハレモノにさわるみたいに、誕生日に触れてはいけないなんて思わんといてよね。

一応、日本語の語感としては、
誕生日は年をへていく感じですね。
生誕日は、記念日的なもの。生誕百年とかいうでしょう。
まあ、亡くなっても生まれてから何年って、
数えられるような文化人とかが標的になるけどさー。

ちなみに、スペイン語で誕生はナシミエント。
キリストの誕生をひと言で、「ナシミエント」と言います。
でもね。
誕生日は、クンプレアニョス。
アニョは年。クンプリールは満たすとか約束を果すとかいう意味。
クンプレはその変化形。つまり年を満たしていく果たしていくという意味。
おそらく、ナシミエントは時をこえる表現なんでしょう。
あとは、記念日相当のスペイン語になりますね。アニベルサリオだったっけ。

喪   とか
弔う  という語感は私はきらい、というかなじめない。

でも、悼むはいいと思っています。

お悔やみなんていう表現もきらいな人がいるのかな。
のえへの区切りの言葉のひとつもない人に、
「お悔やみのひとつも聞いていないけれど…」と正直に言ったときに、
「お悔やみなんてきらいだもん」って言われたこともある。
こちらは、おっ、開き直られたって思っちゃったよ。


「冥福なんて祈らない」って書かれているブログを見たこともある。
のえはどこでも、魂になっても唄っているって感じている音楽仲間だった。

語感への抵抗、不慣れさと、
マナーのなさとが入り乱れているとしたら、
日本語の点検もしなければなりませんね。

少しずつしていきますね。


のえちゃん、43年前のこの日、生まれてくれてありがとう。
めちゃめちゃすごーい「うたうたい のえ」という人になる赤子として、
私のもとにやってきたあなたに、私は今も感謝しています。


気持ちは言葉の創出です。
気持ちに伴った言葉を探しませんか。

私も弔いはなじみのない言葉。

「のえルーム」に来た人のノート、に、
「どこでも創造。弔いも創造」と書かれてぎょっとした私ですから。

ひとつひとつ点検していきますね。

そして、共にふさわしい言葉を探してみませんか。

宿題。
のえちゃんや、ノコサレシ者の私たちに、
のえの生誕日に贈る言葉ってありますか。

あるなら教えてねー。
はいはい、宿題です。


ケイコの「ノコサレシ者が伝授するこの気持ちとあったらいいマナー」の
始まり始まり。

ふふーんだ。
黙るなよな。
ハレモノは晴れものなんだぞー。


ケイコ

| ノコサレシ者が伝授するこの気持ちとあったらいいマナー | 23:25 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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