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ヴィォレット・ルデュックの映画を観た、1940年代当時のタブーに挑戦し、同性愛者としても書くこと生きることをひとつに身悶えする姿に震えた


ヴィォレット・ルデュックの映画を観た、全編、私のことでもあったー
女性として初めて自分の生と性を赤裸々に描いた、
が男性作家に編集者に検閲に阻まれた
1940年代当時のタブーに挑戦し、同性愛者としても
書くこと生きることをひとつに身悶えする姿に震えた

この映画『ヴイオレット』の詳細には触れたくない。そんな宝物。
ものかきだしね。それでも、書かねばならないこともある。
大胆に時代の常識を覆した。むろん、それは並大抵のことではなかった。
同性愛も異性愛もごっちゃまぜの主人公はなんのこだわりもない。
それでも、ありのままを昇華した文学としての言葉にこめたとき、ジャン・ジュネなら許されたことが、彼女には待った!がかかる、そんな時代でもあった。いやいや今もそんなに変わるまい。日本では。
中絶を、女性同士の触れ合いを削るか控えめにするよう当然のように強要する編集者。

私も何回も何回も何回も、編集者、編集長とのたたかいを経てきている。
ほとんど誰にも言っていないし言う気もしない。だが、今日は最低限は言わせてもらおう。

「そんなものねえ。出版社の求める枚数でおさめなきゃあ、本なんて出せる訳ないでしょ」。
そう言った奴、出てこいよ。「うたうたい のえ」の人生…生まれてから、育ち、旅立ち、歌いに歌って、力尽きるように逝った、そんな、のえの人生を、ちっぽけな商業出版の枠におさめよーって、強要したように言ったんだからねえ。判ってんのか。おいおい。
「うたうたい のえ」の歩いた、走った、よろけた道はさ。商業主義のシンガーのまがい物のそれとは大違いなのさ。それにはそれだけのことがあるのさ。判っててて言ってんのかよー。

ある夏の午後、某出版社でかわされた編集者と編集長との会話、忘れるものか。
あんたら、刃物で切りつけるように、私の命削って書いた言葉を値踏みした。
「やっぱり、あちこちで後悔なさっているじゃないですかあ」
「後悔なんてひとかけらもしてませんよー」
「またまた、言葉にうるさいんですから」
「言葉にうるさいとか、編集者が書き手に言うのも考えものですけど、これは別次元のこと。後悔していたら、娘の一生に向き合うなんてできません。私は問いかけはけっして手放しません。手放しませんよ。それは後悔とは違うんです。お判りですか。」

ヴィオレットは、三作目に至って、ずたずたに検閲され…性描写やら含めてだ…枚数を減らされ、「ああ、私が切り刻まれる。怖い」と言ったきり、倒れた。
以後、心因反応と思われる精神科病院での休息の日々。

「ああ、私が切り刻まれる。怖い。」

耳を付いて離れない。けっして離れない。
一字一句とて、彼女の人生そのものからは削れない血も涙も汚濁もなにもかもがこめられた言葉なのだ。

先日、ある近県に住む友人がはるばる来て言った。なんのまえふりもなく。
「早く出してくれなくちゃ、読めないまま死んじゃうよー」。
あなたが70代になって、先行きがいつも不安なのは英子ちゃんと同じなのよー。
でもさ、英子ちゃんが同じ言葉を言うのとは全然違うんだよ。全然ね。

脅迫するなよ。
駆り立てるなよ。
なにを書いているか、判ってんのかよー。

ヴィォレットがあの『招かれる女』に感動し、シモーヌ・ド・ボーボワールのこころを捉え、やがてボーボワールが彼女を芯から見守る人となっていく姿もよかった。
後輩作家の、同性愛者としての思慕をたちきりながらも、逆に、友人とか同志とかをこえる、とてつもなく大きく深いものを育んでいくその微細なプロセスが見ものだ。

今もヴィォレットの声が私の耳をつく。
「私は生まれてこなければよかったのよー」
「私は書いていなければ、書いていなければ、なにもないの」

一人の激しい気性の才能溢れる女性作家を、精神科病院へと追い詰めるほどの、著名な男性作家で溢れるフランスの文壇に私は怒る。こころから怒る。
それがカミュであれ、ジャン・ジュネであれ、誰であれ。

立ち直って、あの超大作にして一世を風靡した「私生児」を著したのは、それからしばらくたってからのことだった。
そう、彼女は、母親だけの家庭で育った私生児だった。あの時代に。そして、苦悩と自己否定に揺れながらも、ボーボワールという巨星を助けに得て、自らの言葉と共に、広い世界へと旅立っていくのである。

著作に集中するとき、必ずや、大自然のなか、川べりや野原、木陰を彼女が愛するのもなんとも言えない眩しさと親近感が湧く。

作家としての途上で倒れた娘をいたわる母の姿もいとおしい。
長年の葛藤が透けに透けて、互いを癒しあっていくような、あのシーンのつらなりがいとおしい。限りなくもいとおしい。

彼女の作品は二十歳前後にほぼ読んでいる。

映画のなかで、ボーボワールが刷り上がった、
あの「第二の性」をヴィオレットに渡した。
見開きの手書きの献辞には
「第二の性をまっさきに
第一の性にしたヴィオレットへ」とあった。

見終わってから、なじみの映画館で
パンフレットを立ち読みした。

どの評者も、この女性作家の存在を
フランス文学専攻の書き手すら知らないと
堂々と書いていることに唖然とした。

2016年3月4日    米谷恵子
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| 出版という困難な旅路にて | 01:58 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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フランクル「それでも人生にイエスと言う」、石原吉郎「日常への強制」、ロズナー「光の軌跡」、ノイマン「カフカの恋人・ミレナ」を繰りフランクル「それでも人生にイエスと言う」、石原吉郎「日常への強制」、ロズナー「光の軌跡」、ノイマン「カフカの恋人・ミレナ」を繰り返し読み返す時間のはてに……ラーゲリ(強制収容所)を「人間として」体験した人たちの一字一句から立ち上がるもの返し読み返す時間のはてに……ラーゲリ(強制収容所)を「人間として」体験した人たちの一字一句から立ち上がるもの


フランクル「それでも人生にイエスと言う」、石原吉郎「日常への強制」、ロズナー「光の軌跡」、ノイマン「カフカの恋人・ミレナ」を繰り返し読み返す時間のはてに……ラーゲリ(強制収容所)を「人間として」体験した人たちの一字一句から立ち上がるもの

それは、
「大切な人を自死で喪うという体験に伴う、すさまじいストレスが、
時に、強制収容所の生還者を襲う壊滅的なストレスに匹敵する」
という引用句を補完するために必要な作業だった。


ということは、これを明らかにするということは、
日本中に、「魂の強制収容所」を生かされている人々が、
とてつもない数で存在しているという、
そのことを証明してしまうことになる。

「匹敵する」という文言は、ある引用の孫引きである。

おとといはフランクルを読んでいた。
ロズナーはとおに読破していた。
石原吉郎は、半年ほど前に、40数年ぶりに取り出した。
どんどんと、二十歳ころに読んだ記憶がよみがえる。

ノイマンの「カフカの恋人・ミレナ」については、
長田弘の「私の二十世紀図書館」の書評でめきめきと関心をもち、
そうだ、あったんだ、と突如思い出して、これも一年前に読んだ。

そして、今晩読み直した。

ありとあらゆる人間としての尊厳をはく奪された状況で、
それでも人間としての眼差しとか、
生きようとする意思、なにがそこで起きているか
伝えようとする意思、それらを持ち続けることで、
からくも生き延びて、なにがしかの「証言」を残した人々。

ベロ亭の孤立も、立場的におかれた疎外も、
よりいっそう相対化が深まる一字一句との遭遇。

庭では秋が深まっている。
ぼちぼち、いずれ風除室になる玄関先に、
寒さに弱い植物を避難させる。
もっと弱いのは、台所のサッシの中の棚にも。

どこか偶然読んだページに、
秋は疎外感をきわめていく…という一節があった。
いや、あれは新聞だったかな。

違う、「生と死の意味を求めて」というアンソロジーに、
ふっと垣間見たような気がする。
まずい、まずい、これから冬をのりきる風除室は、
とびきりのものにするのだから、
そんな表現に引き込まれないようにしよう、
そう思ったのだった。

英子は、二日間の小学校でのゲストティーチャーを、
なんとか終えた。それにしても、68歳という彼女が、
120人ほどの児童たちの作品に、
帰宅してからも丁寧にしかるべき手を
深夜まで数時間にわたって手を加えている、
そんな姿には、40年ともにいても敬服する。

キャラバンで出逢ったある小学校の先生から、
めぐりにめぐってきた仕事という側面もある。
そのもともとの先生は、のえのコンサートに来ていて、
のえのアールブリュットミュージックに、
彼女なりに触れたということもある。

私もそういう点では、
かろうじて、この地の空気とつながって、
息していると言えるのか。

最近、底冷えするように寒さを感じる。
からだにではない。こころに…。
冷静で、穏やかで、静寂で、
なんともない時間と空間のなかで、
秋の深まるマイガーデンで、
不意にそれはやってくる。

そして、二日間続けた早朝の朝飯つくりに起き上がるとき、
ふっと、世の「母親たち」の労苦がかさなって思われながらも、
その直前に、とてつもない深淵が囁いているのを感じる。

ともあれ、もう一度、草稿をまとめなおすための、
引用句はほぼ決まった。
深まる秋に追われているわけではないけれど、
また今年が過ぎてしまう、
そのことにはどこかで時間というものの、
容赦のなさを覚えている。

久々に英子がリコーダーの練習をする音色が。
そろそろお風呂に入ろうかな。

恵子

| 出版という困難な旅路にて | 19:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ささやかな食事のあとの展示室を見ながら印刷をする、書き上げた、「うたうたい・のえ」の全原稿を深夜印刷





ただいま印刷中。涙が止まらない。
またも、朝の五時。昨日は夕刻から深夜まで寝て、そして徹夜。今日は深夜から二時間半ほど寝て、今はできた原稿の印刷中。

どうも、二階の自室のパソコンと、下のプリンターとの連携がいまいちなものだから、ドライブに内容を入れて、下のパソコンに入れて、あけようとしたけれど、なかなかどこにあるか判らなかった。自分で何もかもやらなければならない時間帯で良かったのかもしれない。英子が起きていたら、頼ってしまいがちだ。最近は、パソコンのことも、わかってきたことはあるし、ワード入力に関しては、私のほうが知っていることもある。なんと言っても、書き続けたぶん、基本的なことはほぼクリアーしている。

今は下のプリンターくんは動いてくれている。二階のと連携させていた時よりも、スムーズで早い。良かった。でも、どこに入っているか判るまで試行錯誤、ドライブを途中で抜いたら、「致命的な」なんて出たから、急いで入れ直したり。

今は4章の印刷。まだ、5章から8章、そしてエピローグと参考資料がある。
今のところ、さかさに写っているのは、今日の、いや昨日のブランチに来てくれた、近所のお二人の座ったあとの、テーブルの光景。三つの英子作の花生けに、今、春の花も、夏の花も咲く、庭からつんだ花を入れた。

話の途中で、のえのことになったので、持ってきた写真もそのまま立ててある。
明日には、7月11日のコラボのフライヤーも届く。
それまでに重要な手紙をひとつ書かなくてはならない。
でも、原稿が物を言うはずだから、しっかりと要点のみおさえればいいだろう。
なにか、体がぞくぞくして、心がはりさけそうで、魂がびんびんと音を立てて、私をかりたてつつも、ぞくっと立ち止まらせそうにもなる。

のえのところに行きたい。
のえのところに行きたい、とは今まで思わなかった。
のえのところ、がある、という訳もない、ことは今も判っている。

だから、のえのところには行かないよ。

でも、どうして、なぜ、のえは今、のえの新しい唄をつくり、
もっともっと大人になった、それでも変わらぬ、
いや、いい意味でもっと変わった、あの声で歌っていないのか、
歌っていないのか、という理不尽な問いかけがつのっていく。
けっして返ってこない我が子を喪った喪失感がどっとやってくる。

隣ではプリンターがそこそこの調子で動いている。
のえの人生ここにあり、って調子で動いている。
よいじゃないか。よいじゃないか。ええじゃないか、ええじゃないか、
と動いている。動いている。止まったり考えたり、どんどん印刷したり。


のえ、新しい唄、唄ってよ。
ケイコちゃん、疲れちゃったよ。もう疲れた。疲れた。疲れた。
死にたくないけれど、死んでもいいと思ってしまう。

これからが本物のたたかいが始まるって判っているんだ。
誰よりも判っているんだよ。
今日は、ともに食事をした人の前で、私はガハハ笑ったよ。
読めば判りますよ、みたいな感じで笑ったよ。
ガハハ笑ったよ。


あんたの誕生のおもみ。
私の十代後半の選択の潔さ。
と言っても、若気のいたりはいたりつくせぬ。

それからそれから英子との出逢い。
それからそれから続く日々。

英子はもう覚えていない、とフクイベンとの私たちの葛藤の、
その一部として、彼女の側の体験を語った。
彼女は彼女でいっぱいいっぱいなんてものではなくて、
考えられないくらいの状況で、自分の仕事と私の確認、
それも私にしてみればほんの少しのつもりだったけれど、
その狭間で引き裂かれて、怒った。怒った。怒った。

悲しいね。喧嘩のあとは悲しいね。つらいね。
どうにもならない現実ゆえに、私たちは時に、
ただただ、これだけのことに突然引き裂かれる。

あんたのことを一字一句にこめたこの日本語の塊は、
一体どこにどう届くために、歩き出すのだろうか。


プリンターくん、まだ4章でぐだぐだしている。
これが終わったら黒インク入れなくちやね。

ねえ、のえ、歌ってよ。
あんたの44歳の唄を歌ってよ。
まっとうした?
まっとうしたからいい?

そうさ、あんたはまっとうした。
まっとうしたさ。

それでも、まだまだまっとうできたはずだった。
誰が、どう、
そして、社会のシステムがどう、
そして、地域社会がどう、
誰と誰と誰と誰と誰と誰とがよってたかって、
のえの人生をいよいよ生きがたくしていったか、
私は向き合いきったよ。


誰も許しはしないさ。
誰も憎んではいないさ。
誰をも許してもいるさ。

それが自死でノコサレルという紛れもない事実だ。

私はあんたの人生を書いた。
書いたところから、これからどう歩き出すのだろうか。
歩き出せるのだろうか。

5年がかりで書いた原稿の印刷に手間取るのは当たり前か。
インクを二色今は変えたところだ。ずいぶんこのプリンターにも慣れてきたな。
インク充填中から復活してまた印刷が始まった。
インクが不足気味では、なくなったから、これからはもっとスムーズかな。

5章印刷開始。インクも変えたから調子いいけれど、
こいつ突然、調整で休む。私が執筆中に、ふと疲れて庭に深夜でも立つみたいだな。

そろそろノックダウンしそう。
もう6時半。まだ5章。でもやらなきゃね。全部の印刷を。
でなきゃ終わらないもの。終わりゃあしないもの。

まだ、終わらないのって、皆が待っているんだもの。
私はやったよ。ここまではやったよ。

だから、手渡すよ。手渡された人が手渡してよ。

私はここまではやったよ。
今はプリンターくんとやっているよ。

ねえ、のえ。
今度の北海道は、あんたの「青」とともに行く。
行く。行く。行くのさ。

まっ白な雪のなかで、ほんとうのことを見た。
見た、見た、見たの?
なにがどう見えたの。
いや、違う、見たんだよね。

ほんとうのことを。

2015年6月10日  午前6時半  
恵子


| 出版という困難な旅路にて | 03:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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あれから1ヶ月、彼と相対したその時の、誰もしなかった射貫くような凝視を忘れない

あれから1ヶ月、彼と相対したその時の、誰もしなかった射貫くような凝視を忘れない

その方は、ノンフィクションの大家で、めったなことがなければ、お会いすることなどかなわなかったかもしれないかった。が、私は主催された方たちとも面識があり、Sotto虹を通しても話し合ったり、リーフレットの設置をお願いしていたから、率直にお願いする道筋作りは、こちらの覚悟と決心次第だった。

その主催者のIさんとお話したのは、たしかその1週間ほど前。なかなか時間のない方との約束なので、車に乗ったのはきっかり1時間前。ああ、それで、あんな峠道で、慣れないナビに翻弄された私が、初めての前方不注意で、反対車線の側溝に右側の前後の車輪までつっこんでしまうことになろうとは。気がついたら、落ち葉に乗り上げるように車は停車した。

慌ててはいるが、こういう時はかえって冷静に対応する。近くの友人の助けを求める。待つうちに、初老の男性と若者の二人連れが、本当に心配そうに声をかけてくる。この二人が最後まで見守ってくれたのはありがたい。JAFにも連絡したけれど、友達も来てくれて、いつもの小型ではなく中型トラックで、そして待機していたお二人に押すのを助けてもらって、ついに我ジムニーくんは脱出。JAFも断ることに。

その間の慌てようは、なかなかない時間の方との久々のアポだったことは大きい。
走り出す。悪寒が走る。もしも対向車線に車がいたら、正面衝突だった。
スピードはナビに気を取られてあまり出ていなかったし、
大きなカーブだから死ぬか重症か、どちらかだったろう。
いや、反対車線ではなく、左側に引っ張られたら、谷底だった。
転落事故で間違いなく、あの世ゆき。

そこは、なんと「嫁転ばし」といういわくある俗称の、
市内から隣の町内に抜ける峠道だ。
車で駆けつけて助けてくれた友人は後で、
お礼にゆくと言ったものだった。
「お嫁さんたちが恵子さんを助けてくれたんだ」。
そうそこには、あの峠から突き落とされた、
もしかしたら何人かの女たちの魂がいたりもするのかもしれない。
ぞくっとしながら、彼でしか言えないよなあと、唾を飲み込む。

ともあれ、九死に一生を得て、私の腹はどかんと座った。

お会いし、長いこと渡せなかった冊子を出し、
新しいリーフレットをどさっとゆだねる。
単刀直入に、かの先生の講演の前後の日程やら、
こちらの差し迫った事情など話す。

二転三転して、かくして講演当日、
私たちは、一旦は彼が泊まっているホテルに行きかけたり、
車中でのやむない話し合いを覚悟したりはしたけれど、
結局は、彼自身の意志も含めて、
講演後の小さめの部屋での、彼とのかけがえのない、
そして厳粛で真摯で、きびしい邂逅の時間を得た。

まず、彼は、隣りに座ろうとした私と英子を、
彼の真向かいの席に座るように促した。
「車中でお話するようなことではないですから、
そうお伝えしました」とのこと。

出版状況のきびしさを、商業主義の限界として、
今の現状として、彼はやむない助言をあえてする。
黙って聞く私。時に「承知しております」ともこたえる。

私の腹の座りかたゆえか、時折はさむ言葉に動かされたのか、
話は意外に進展していった。
「ドストエフスキーだってありゃ、ノンフィクションですよ。
フィクションじゃあない。「カラマーゾフの兄弟」などそうですよ。
フィクションである訳がない。」

彼がこうやって時間をつくってくださったのは、
彼も私も「自死」で、息子を娘を亡くしている立場で、
彼はすでに本を出版し、私はこれから出版しようとしているなかでの、
誰にも届くはずもない苦境を聞いていただく必要があったからだ。

そのうち思いがけない展開で話は進む。
いや、単に思いがけない訳ではない。
あの『犠牲…わが息子脳死の11日』において、
どれだけ書かないままのことがあったかまで語り出す。

私はすでにこの席の冒頭で、
「娘の人生の、生涯のすべてに、何一つ目を背けず向き合った」
と告げてあった。
私の口を突いたのは、いつも自分の書かれた原稿のある種の傾向として、
全部ではないけれど、特に最期の刻一刻を描いた筆致において、
思っていることだった。
「『死の棘』のようなものかと思っております。
けっして全てではないですが、そういう部分ははずせません。」

彼のなかで大きく音を立てて、魂が揺れていくのを感じた、
と言ったら許されることだろうか。

その後だったか、それからもう少し話した後だったか、
彼と私は、ありえないほど相手の目の奥の奥まで見入った。
真っ正面から、何ものからも目を背けず、私たちは向き合っていた。
厳粛にして真剣、そして、1日4時間睡眠で、
執筆に講演に79歳の心身を酷使している作家先生は、
まちがいなく、私の側にもある、ある種「対等な」気迫も、
底の底から汲み取っとくださったのだと思う。

「僕にはこれだけのことしか言えません。
それでも、あなたのことは尊重したい。チャレンジしてほしい。
そのチャレンジは、もう僕の眼差しなど通りこしてすらいるかもしれない」
ひそかにその眼差しは、そんなことをも語っていたような気がする。

私は私の眼差しに何をこめたろう。
「ええ、先生のおっしゃることは全てよく理解できます。
先生がぎりぎりで人生最後かもしれない活動と執筆をしているのも、
心から理解し敬意を表します。
それでも、私はやるべきことから逃げません。
どんな形であれ逃げません。
あなたは男性作家、息子さんを亡くされた大御所。
私は女性で、母親で、ノンフィクションを書いている無名の立場。
それでも、私は引きません。引きようがありません。
何もかも見てしまっているのですから」

無言の凝視は2分か3分か。
意外な長さで続いた。
先生は、そこにある『地獄と天国』を知っている方だった。
なぜなら、息子さんをあのような形で亡くされて、
しかも、様々な限界の中でも本にされた方だから。
書かざるを得なかった方だから。
そして、それ以前の著作と違う域にいかれた方だから。

私はふっと切り替えた。
「わかりました。
先生にご負担はおかけしたくありません。
このプロローグはもう、朗読などで発表していますし、
家族も友達も何人も読んでいるものです。
差し上げますけど、なにか講評していただくなど、
全く必要ありません。」

彼は少し、いや少し以上に嬉しげだった。
「いただけるんですね。」
そばにいた英子にすれば、彼はもっと草稿を見たかったのではないか、
とも言う。そんなふうにすでに心が動いていたのではないか、と言う。

彼は私の潔さに目を見張ったかもしれない。
だけど、私は80歳間近い老大家になにかを求めるのはやめた。

これで十分。
彼は何一つ私を傷つけることなく、
1点の凝視に全てをこめて、
許しを愛を厳しさを、厳粛さをこめて、
書き手としての性根を確認するように、
いや確認するまでもなく、見届けていたのだ。

これでいいのですか。
僕はここまでしかできません。
それでもいいのですか。

私は今、ぐるりと経巡ってここにいる。

最後の仕上げのここにいる。

あの時のあの凝視に支えられ、肩を押されてここにいる。
ここにいて、のえ亡き後の日々を書き継ぐ。
もっとも厳しい第8章を書き継ぐ。
点検する。確認する。推敲する。
この一字一句でどんな齟齬が起きないかを見る。

柳田先生。
言いそびれたこともある気がするけれど、
何一つない、そちらのほうが正真正銘の実感として残っているのです。

むろん、私は「母親」だから、
全てを書くしかない、というだけではありません。
でも、先生に抗弁するよりも大事なことがあったから。
そして、先生もまたそれを察してくださっていたから。

この現代における絵本の大切さを語るご講演のあとの、
あの30分余り、いや40分。
一期一会か、またお会いできるかは判りません。
でも、必ずや、私は先生のもとにできあがった本をお届けします。

先生の貴重な、きわめて重要な助言を忘れません。
それでも、私はチャレンジします。
「どうかチャレンジをやめないでください。」
その言葉を忘れません。

そして、物書き同士として向き合っていたとき、
そこに娘の「うたうたい のえ」がいることを、
そして、「のえさん」と語ってくれたことを、
私は忘れません。

そんな作家先生、他にはいません。
今のところ、他にはいませんから。

厳粛で真剣で、
真摯で、誠実で、けっして手を抜かないで、私の率直なお願いに、
相対してくださった時間を大切に、
私は前に進みます。

迷うことなく、進みます。
私のノコサレタ人生の時間を書くことに賭けます。

そして、きっと、
何気ないお便りなど、もしかしたらするかもしれません。

どうかお元気で。
最近倒れられたこともあると聞きました。

そして、あの三人で向き合った緊迫もし、
ゆるんだ瞬間もあったあの時間に、
どんな講演でも見せなかった先生のお顔の表情を忘れません。

それは商業主義の出版の側にいつもいる訳ではない、
事実を「星座のように散りばめる」ノンフィクション作家であり、
あるいは、ジャンルをこえて表現者である、
その深奥からこそ見せてくださった表情。
揺るぎなくも、厳しくも、同時に悲しい表情。

私はここから逃げません。

貴重な邂逅から丁度一ヶ月後に記す。
米谷恵子  2015年5月29日

| 出版という困難な旅路にて | 06:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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何もつかまなかったと思える2日目の深夜の余韻を聞いてみた

何もつかまなかったと思える2日目の深夜に

おとといは、21日から再開した仕上げの続きをした。
昨日は…。
昨日は、午後1蒔から7時まで隣の県から記者が来て、
「取材」という営為に時間が埋め尽くされたのだ。
カメラマンは、手慣れた態度で、私たちの姿をおさめた。
私たちも手慣れた態度で、
そういうカメラマンの注文にも、すぐに応じられるのが、
何回目かの取材に来た記者ですら驚いていたのだ。
私たちがあんまり自然に笑い合った、
そのことが記者には、「つよい」と思えたとすらいうのだ。

その直前は、なんとも言えずここのところくすぶっている、
ヒデコと私の、
二人のあいだの燃えかすが再びくすぶったような記憶は、
そりゃあ、確かにあるけれど。

一旦、執筆を再開すると、
その現実のただなかでは無駄ではないと決めて向かっていた、
取材も、人との対応も、どれも虚しい営為に思えるときが多い。
そして、何もつかまなかったように思えてしまう。

今日は…。
鍼灸院の時刻は遅らせられないので、結局、
土曜日の治療に変更して、来客の二人と会話があった。

そのしょっぱなに、北の友から真剣な電話があって、
電話を切らなくてはならないことが私には、
ひどく申し訳ない気がした。

それでも、最近、ぼちぼち知り合っている顔ぶれを、
大事にしたい思いもあった。
それに「お客様」であるのも事実だ。

二人が立っている新制「展示室」に電話を切って入り、
「あらあら、トップランナーだか、ラストランナーだか、
いやいや、反対側からみたら、
どっちがトップだかラストだか、
わかんないお二人が揃っちゃって…」
などと、私は言うのである。
紛れもなくそういうお二人はお二人で、
ベロ亭には場違いなくらいな、
いやいや時代は変わったのよ、と言いたげな、
40代後半の女性の、
おしゃれな衣装とお化粧に、
おからだもお顔も包んでもいる


新制「展示室」には悪くない光景だ。
それに話していることが通じるのは、
やはり嬉しいのだ。
まだ、そりゃあねえ、小出しの部分もおおいにあるけれど、
ずばりの話もしたり、
あれあれ、ずばりがそれてそちらに話が行くんですかあ、
なんて話も勝手に展開していたりもする。

ところで、
21日に再開したとはいえ、
車で町まで用事に行けば疲れて、寝入ってしまうし、
記者の取材を受ければ、駅に往復した後にも寝入ってしまう。
今日は今日で、大して長い時間を接客に費やした訳でもないのに、
やっぱり気づけば寝入ってしまう。
シャットダウンしたままの、二階の書斎のパソコンが、
ひらいてよー、書き続けてよーと、うなっている。
否、私のどこかで仕上げたさが暗礁に乗り上げてうずき始める。

うずき始めているのに、展示室なんぞで、
私は大人の冗談が通じる二人にしゃべってなぞいるのだ。

ここのところ、続けて、
タカハシゲンちゃんの本を読んだ。
刺激的だったが、自分なりにやれていることの確認にもなって、
シッタゲキレイの部分よりは、よっしゃーっという元気づけになっている気がする。
ついで、『東京プリズン』だの鶴見俊介だのを、アマゾンの古本で買っている。

時間のすきまには、そういうものに目を通しているのだから、
何もしていないのとは違うし、するべき大事なことを通過しているとも言える。
いや華麗そうな遊びをまじえた、ふっと凡庸にも当たり前にも思える時間すら、
大事に経過させてもいるのである。

それでもうずく。
暗礁に乗り上げないうちに、またこぎ続けたいと願う。

記者は膨大な疑問を遺した。
「遺した」と書くと、昨日の記者がこの世の人ではないみたいだけれど、
これは1979年からの取材の全てを指しているから、
もう他界した人も間違いなく含まれているので「遺した」と表記した、
というところもあるし、なにか記事そのものの性質に由来しているような気もする。
いいや、新聞記事だけではない。
雑誌、ラジオ、そしてあのテレビのドキュメント出演。
ほぼ、取材を受ける側ではあるものの、
私は記事も番組も、共同制作者として、
おそらく良い意味で関わってきた、
関われてきた人間の部類なので、
つくづくこの膨大な「取材される」歴史の蓄積を思うとき、
いい知れない思いが膨らむのは避けられない。

今回の、ヒデコが中心になる取材では、
こんなにもこの36歳の女性記者さんは
7時間とか6時間とか、
半日とか、
時間を経た、時間を蓄積した取材をして、
それでも書かれるのは、たかが見開き2頁なんだよね、という事実に、
私は不覚にも、彼女の書いた記事の内容と共に、
初めて昨日触れて、頭がぽかんとしてしまったのである。

大事にしてくれそうだし、大事にしているけれど、
実際に良い記事につないでくれるかどうかはまだ未知数だ。
良い記事につないで「なんぼのもの」、というのが、
被取材者の現実なのだ。
地元紙にほんのちょっと載って、
経歴なんかに掲げて大騒ぎしている人とは、
全く次元の違う苦悩だ。

なぜと問うまでもなく、
私が言葉の使い手、他でもない書き手だからだ。
ヒデコをモデルに、彫刻で仕上げたいという人がいたら、
彼女は絶対に困るだろう、ということを、
私はこんなにも長いあいだ、寛大な心で許してきたのだ。

たとえて言えば、ヒデコをモデルにっていったって、
なんだかやや安易な、
プラスチックか何かの素材で描かれたアウトラインで、
つまりは実のところ、表現なんかではありえないからだ。
いや、プラスチックでも素晴らしいアートはあるんだけれどね。

いや、それとても、
1979年から始まって、一旦は1994年で終わりにしているのだ。
記者さんのためのやさしくも実質的な文章教室を、
無償で、モデルにすらなって、
表現の奥行きにも貢献すらして、
それでもそうしつづけることにすっかり飽きてしまったというべきか、
そういった必然性が尽きてしまったというべきか。

全ては間違った事実を書かれたくはなかったからだった。
しかし、間違いとは、そもそもなんなのだろう。
創造的なマチガイなんぞ、絶対しないだろう、
そういう確信だけはあったからだろうか。

いや、あったぞ。
見出しに「仲良し二人、イベントに」。
いや、あったぞ。
「そんなあ、バートナーなんて書くと、
勘ぐられますよー。いいんですかあ。」
いや、あったぞ。
なんの断りもなくパートナーと書いて、
勘ぐられる心配も書く側も書かれる側もしなかった記事に、
Lカップルが勘づけて訪ねてきた西のキャラバンでの記事とか。

それからそれから。



ぼおんと飛んで、
あいだにドキュメント出演などをはさんで、
LGBTデビュー? なぞもはさんで、
それはそれで、それ以前にも新聞でも、
ある時期には、匿名記事になったりもして。

ぼおんと飛んで、隣の県から、ずいぶんと誠実で感受性のある、
次世代の女性記者が、
なんだか空から降ってきてしまったのである。
いやはや…。


にもかかわらず、
という、にもかかわらず接続詞に読者は途惑うだろうけれど、
今晩は、これまでと「趣向」をがらりと変えて、
というより、前にどかーんと戻った感覚で、
借りたままたまっているビデオの一本を観ることにした。

そういえば、夏辺りはやたら映画を観た時期もあったっけ。

ああ、これでまた乗り上げたままになるけれど、
ヒデコとこういう時間を、
9月以降持てなかったことを思ってもいたから、
迷わず決めて、『息ができない』に釘づけになって観た。
ソファの服のくずはどけてよけて、
ノートパソコンを運んで椅子にぐらつかないようにして。

いちいち内容の説明は書かない。
これもまた、やむにやまれない、
ある連鎖の極限を描いた映画だった。
驚かなかった。たじろがなかった。
それでも平気ではなかった。

しかし、私はどこかで問われていて、
自分の奥深くに潜む憎悪の類いの感情について、
しばし思いを巡らしもした。

それにしても、
主演も監督もしていた韓国人の若い男性、
なぜ、「やはりフィクションでしか描けない」と言うのだろう。
私だって、そうだろう、とは思う。
それでも、そうだろうではすまない。
それが私の今の暗礁と進行のはざまの極限的現実でもある。


記者はけっして気楽に取材をしている訳ではない。
お客様もけっして気楽なだけで、ここに来ている訳ではない。
なにしろ、トップランナーとラストランナーか争うお二人なのだから。
ええっ、どういうことって、こういうことよ。

ヒデコは必死でシュトレンを焼き続け、
執筆ゾーンに入った私のこころここにあらず状態に、
時にぼやき、時にやりすごしてもくれる。
やれることはやりながらも、暗礁を意識する日々の繰り返しはかなりきつい。

記者でよりいっそうえぐられるような気づきがありもするし、
お客様で、妙になごんで、でもそれがどうした、という思いもある。
ましてや、ヒデコのネット上での出来事には、
ほとんど振り回されてはいけないと心を決める。

「反省する」がいかに軽い言葉かという学習。
「フルオープン」は困った連想をしてしまいそうだけれど、
実はカミングアウト強迫の極限で、
そのからみで、ある時期、
私がどれほど傷つく始まりの時を得ていたのか、
と気づきもしたり…なのである。

華麗なネット上の書き込みやら、写真やらは、
目の毒なのである。
みんなクリスマスをやっていたんだ、なぞと、
突如、だまされていたみたいに気づくのである。



何もつかまなかったと思っている深夜に、
私は、各種映画祭で絶賛されたハードで、
人の深淵を描ききった…と思われる…映画に、
「ここまで描いてもいいって訳だよねー」と見終わってのうのうと言う。
ふーんだ、と思う。たかが映画じゃないか、
よくやったよ、でもたかが映画じゃないか、と思う。

よくぞ貸してくれたと貸し主の目利き度合いをも思う。
そう、このてのは彼はよくよく判っているんだ、とも思う。

そして…。

ラストシーンが焼き付ける現実の意味に射貫かれる前に、
すでに、とっくに、何度も射貫かれている自分を意識して、
そうさ、そうさ、射貫かれる準備はできていた、とだけ思う。

嗚咽なんぞはするけどさ、嗚咽なんぞはするのである。


号泣する準備はできていた、という小説があった。
同じ題名で書けるな、と昨日思っていた。
この集落の歴史のことを、記者に語った後のことだった。

号泣はムラを変える…でもいいかもしれない。


ひろい集めてみれば、
何も落としてはいないのに、どんな成果もつかめないままに、
年は暮れようとしているようにも思える。

今晩垣間見たネット上の出来事では、
コラボレーションをした相手が、
表現とは何か、
果たしてコンクールのコンクールのためのものなのか、
という根源的にもなりうるテーマで立ち止まっている様子に好感を持った。
おそらく、私と慎重にコラボしたことをも含めて、
彼女の人生と表現にも届いていることがあるのだ、と思える確認だった。

少しずつ少しずつ、
目に見えないものが進行して、そうして暗礁はしかと見つめられて、
今も私のパソコンのすぐ隣には、
あの青年の斜め左側からの横顔が覗いている。
私は彼の顔を見ていることをやめたくはないのだ。

彼が今、どこに住んで、
どれほどの貢献をして、
どこに所属しているかをこえて、
おそらくその全ても呑み込んでも、
それらを超えて、
彼の写真が大写しされたこの本の表紙は、
あるべくしてここにあるという確信がある。

彼が見つめているもの。
彼がその左斜めからの横顔で見つめているものは、
私が見つめていたいものと、
おそらく、
多分、
間違いなく、
かさなっているか、
同じかだろう。

その本のタイトルは
「ぼくの父さんは自殺した」。
その本のサブタイトルは、
「その一言を語れる今」。

むしろ、私はこの本の中身はもう必要ないのかもしれない。

彼の斜め左側からの横顔。

繊細でりりしくて、
切羽詰まる寸前で、
あるがままに我に返って、
意識的に自らの意志を集中させている、
そんな斜め左側からの横顔。

私のなかで持続するべく、今は暗礁に乗り上げているにすぎないものを、
ここぞとつなぐ意志が、ここでつながれようとして見上げている、
そんな横顔に寄り添われ、寄り添う日々。

何もつかめなかった…と思えた…二日間のあとの、
誠実な36歳の女性記者の、どこか揺らぐまなざしやら、
トップ&ラストランナーの訪問者の浮つき気味でいて、
なんだか妙に真剣な痕跡やら、
寒さになんとかしてよーと言っている、
よれよれの玄関口のハナの懇願やらが、
確かな、
こんなにも確かな余韻となって聞こえてくる。


ケイコ

| 出版という困難な旅路にて | 03:37 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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