「こういうの迷惑なんだ!死ぬでー、神経やられるからなあ。」めいっぱいという感じの生意気な医師が、血走った眼をこちらに向けて言った。救急診療時のインフォームドコンセントの困難さ!
「こういうの迷惑なんだ!死ぬでー、神経やられるからなあ。」
救急待合室で二組ほど待って、ようやく番が来て、二人して医師の前に立つか立たないうちに、若い、人を見る目すらなさそうな、
めいっぱいという感じの生意気な医師が、血走った眼をこちらに向けて言った。
「だいたい間違える、そんなことをするくらなら、スーパーのものを食べてりゃあ、いいんだよ。」
状況やら症状はすでに看護師に説明してあった。
やばい、なんだこいつー。苛立っているにしても、言葉が過ぎる。野草の誤食をもって、こちらの暮らしの軸でもある食のありかたまで全否定されたらたまらない。それに「迷惑なんだよ」はなんなんだよ。こちらは、やっと駆けつけた患者なんだよ。
「そんなもの、車で40分の、山のなかなんですからね」と私。
「ここまで40分で来れるなら、スーパーくらいあるだろう」。ははーん、なんなんだ、こいつー。瞬時に作戦変更。といってもそんな意識は私にはない。
「点滴だな」とドクター。「解毒剤を入れるわけですか」と私。
「そんなものないの知ってるだろう」と医師。「胃洗浄はしないんですね。」と私。
「胃洗浄が必要なほどなら、そんなペラペラしゃべれる訳ないだろう。へろへろで意識もないわ。」「で、点滴ね。」「そうだ、なんで知りたいんだ。医者にでもなりたいんか。」
ふらふらでそばにいた英子は、どこかの医者の口舌と同じだと思う。あらら、なんなんだ。
「胃洗浄と点滴の分かれ目は知りたいですよ。そりゃあ。」
「そんなことは知らんでもいい。」
「知りたいです。受ける治療ですから。」
「迷惑なんだ。医者も人間なんだから、ヘボイのが来たらやってられない。」
「お手柔らかに願います。こうやってペラペラしゃべったあとに、くらりと来るんですよ。私は…。」
おーい、こっちも人間なんだ。
救急車がいつも間に合わない所に住んでいるから、幸い少し具合がましな私の運転で頑張ってようやく着いたのに、そのことへのねぎらいさえなしに、逆にそれを理由に救急ですらないだろうと言わんばかりの態度ではないか。
あんたが人間なのは知っているさ。途中で電話が入って聞いた話の内容を思い出す。
「いろいろ入っているから大変なんだ」と続けるのに対して、切り替える。
「キドウシュウシュクとかおっしゃっていましたから、センセーも立て込んで大変でいらっしゃるんですね。まあ、ヘボイ患者ですみませんけどね。」
「ヘボイ患者なんかではない。」あっ、そう…。するすると私の口は自動起動していく。
「私は○○で胃洗浄が必要で、亡くなった娘のことがありますから…。」
「なんでだ。」「○○過剰摂取で…、ええ、そうです。」
医者は黙る。てきぱきと看護師に点滴を指示する。
「この人、私より衰弱気味なので頼みますよ」
と私は英子をさす。
私たちは点滴をするために、簡易ベッドの並ぶ処置室に案内される。私は「迷惑なんだ」に完全にやられている。カバンに咄嗟に入れてきた「食べられる野草ブック」のなかにもある。
…そもそも野菜とは野草だった。そのなかで人間にとって有益で食べられるものだけを栽培するようになって野菜とした。……
だいたい、スーパーのものがぜーんぶ安全だ、なんてほうが、最たる間違いじゃないか。そうも思う。しかも、今思えば、こちらが「インフォームドコンセント」を確かに取り付けようとしたことに対しても、乱暴ないやがらせと、患者を人間とも思わない独善的な態度しかない。
迷惑、スーパー、迷惑、スーパー、胃洗浄、点滴、分かれ目、迷惑、スーパー、迷惑、迷惑、迷惑と、私のなかで赤と黄色にうるさく点滅する信号…。
早めに吐ききった私よりも吐き気が尾を引いている英子の様子がかなり気になる。
それでも病院にいる安心感は大きい。そして何よりも、看護師の若い女性がきめこまかく、親切にやさしく、こちらの質問にも答え、点滴の処置などもてきぱきかつ淡々としてくれるのはありがたい。医師の態度の悪さが引っ張る余韻が、一挙に緩和していくようだ。
「ええ、そうなんです。胃洗浄は鼻から管を入れて大変なことですから…。」
「意識があればそりゃあ、大変ですよね。息子が鉛の鍋で料理をしてしまったときに、やむなく胃洗浄になって、「あんなめに2度とあいたくない」と言っていましたね」と私。
「そういうときしかしませんね。農薬を飲んだり、●●したり、まあよほどのときですね。ああ、○○の過剰摂取の時はその内容と量、そして症状によりますね。必ずしも、胃洗浄とは限りません。」
そうか、そうなんだ、と思う。
次に、そりゃあそうだな、とも思う。
そして、自分と英子の救急治療時にこんな確認をしている自分をあらためてかみしめる。非常時特有のエキサイトした気分が私を自動起動させたかのようだ。私はそれとなく診察したセンセーの名前を確認する。やはり訊いておこう。
そのときはそのときだった。英子の吐き気がおさまり、私も超寝不足にもかかわらず、対応に追われ、自分も早々に吐きまくったその晩、ようやく1時間ほど寝入った。
そして、症状は落ち着いて、今度は眠気がたまらない私に替わって英子の運転で深夜二時過ぎ帰路についた。
帰宅後、あきれるほど寝た。ようやく体を上げた午後、けだるく、しかしながら、自分が採取した「のびる」のつもりだったものがそうでなかったために起きた事故に、いたく責任を感じ、園芸や毒草に関する本がないかと検索を始めた。これは、私の「ものぐさ雑草混在ガーデン」にあたえられた宿題だと思えた。
それが一段落ついたとき、私の中でじわじわと蘇ってくるものがあった。
以前に、そう2011年秋、地元の若い仲間たちに、それも英子の寛容なこころにゆだねられて持たれてきた集まりに、結局、若者たちが次々と手のひらを返して裏切るように背中を向けた最後の最後の時のことを思い出したのである。
というのも、その時、私はある痛切な展開をへて、ショックのあまり、スーパーで冷凍食品に手を伸ばした瞬間、頭の芯からぐらりとふらついて、ドターンと音を立てて、後頭部を強打するほどの転倒をしてしまったのだ。
救急車が呼ばれ、担架で運ばれ、市内のある病院に着く。医師の対応は間違いなく奇妙で、間違いなく不適切で怠慢だった。私はそれにたてついた。
おそらく、それ以前の時間の流れの延長で、傍目には不気味なほど無表情に、医師の対応にいちいち申し立てた。またも、患者なのにだ。
たてつかれた医師は、私を変人と見なし、あるいは「おかしい」と見なしたようだった。CTを取ったことよりもなによりも、その時のぎくしゃくとした空気感が甦る。
英子はリアルタイムに、関係した二人の若い仲間に知らせる。むろん誰も駈けつけはしない。
閑話休題。
その一方で、昨晩は万が一を思い、英子がフェイスブックにまっさきに挙げたことで、しびれはないか、何かできることはないか、といった地元の人たちの助言を受けることができた。一人は、今にも駈けつけてくれそうなそんな勢いすらあった。
とともに、私は今、救急診療時のインフォームドコンセントの困難さをもかみしめている。いよいよ胸に刻んでいる。
自分の心身の危機に、ぎりぎりの心身で対応しようとする時に、その治療や判断に当たろうとする医師が「迷惑だよ」というリアリティに、あらためて唖然としている。
私はまだ意識があり、傍目には覇気があり、反抗心もあり、納得したいと思う気持ちを失わず、即刻、若く、人間としての最低限のマナーも、筋も知らない医師に対峙した。
しかしながら、そうできないほど弱っていたり、意識がもうろうとしていたうえで、それでも「迷惑だ」と思われるとしたらどうなのだ、という疑問が突き上げる。たとえ雰囲気だけだとしても、言動を伴っても伴わなくとも、どうなのだと突き上げる。
それが、○○の過剰摂取、現在、救急搬送で最も多いという事態のなかでだったらどうなのだと突き上げる。
本人がぎりぎり119番を回したならまだいいかもしれない。
しかし、もしも迷惑だと言われつづけたとしたら、例えば家族は119番をまわさないかもしれないではないか。本人とて、「もういいや、もうどうなってもいいや、どうせ、迷惑だって言われるくらいなら、どうなってもいいや」と思うとしたらどうなのだ。
はたして、それが救急治療の現場と言えるのか。
たしかに。
たしかに、救急入口の周辺には、「あなたは本当に救急治療が必要な人ですか」といった貼り紙がされていたと、英子は言う。私は気づかなかったが。
たしかに、あまりに気軽に救急車を自家用車のように利用する人も多いと聞く。
しかしながら、本当に命の境界線を行き来している人にとって、それを疑われることはどう働くのだろうか。
そうあらためて思わざるをえない。
私はこの地域で、あるいは県庁所在地で、「近所にみっともないから」という理由で、119番をプッシュしなかった例を知っている。それでもぎりぎり助かった例も助からなかった例も知っている。
はたして、救急治療を受けることは「迷惑」なのか。不可抗力で誤食した毒物をなんとか早く体外に排出するなり、その毒を緩和するなりするために、奔走したことはマチガイなのか。英子が間もなく60代最後の歳に入ろうとしているこの春の夜に、私は痛切に思う。(私たちの受けた点滴は、毒性を緩和するもので、まさに解毒だった。)
あの、7年半前の「はい、わかりました」が今も私の人生の深淵の扉を激しくたたく。
そんな私の昨日の今日、救急治療の現場のインフォームドコンセントと、それ以前とも言える医師の人間としての余裕のなさ、筋の通らなさを、ひしひしと思う。
たとえ、どんなに切羽詰まった治療が次々と押し寄せていようと。
たとえ、そのあと、点滴を受ける私たち二人のところにやってきた医師が我に返ったように殊勝な態度になっていたとしても。
人の症状は急変する。医師の余裕のなさのように、患者の症状も急変する。
そして、人の判断も幅をなくす。そう及ぼさせた、もともとの救急現場のありようが、どんなに切羽詰まったうえであろうと、ここまで「世間体」が「恥」が優先される日本のここのこの地の、この今のこのただなかにおいて。
あの、「はい、わかりました」が今も人生の深淵の扉を激しくたたく。
「迷惑なんだよ、だから、はいわかりました、だけだろ!」と疑問の余地ない嵐となる。
嵐の向こうで笑い声がする。
「ベロ亭なあ、ビンボーやったけどなあ、あの、いつもおかずのたしにしていた「ノビルのおひたし」おいしかったでー。
いつも子ども5人みんなで競争みたいな晩御飯やったけどな、うちがいちばん、食いしん坊やったけどな…。」
2,016年4月27日 夜8時
事態から24時間後に記す 米谷恵子
追記 ただいま零時前、東京の娘と話して、先日新聞記事になった水仙を食して中毒症状を起こした事件は、農家の出荷した「にら」に水仙がやむなく混じってしまった結果と知りました。まさに「スーパーが万能であるはずもない」という証明です。
水仙はいまや、間をあけてバランスよく育つように間引く高齢者の存在もなくなって、むやみと増える事態になっているかもしれません。私たちが間違えたのは、おそらく「のびる」のはずの水仙ではなく「たますだれ」だったかと思われます。
写真を見ただけで、その違いは一目瞭然ですが、娘は「違いは何も判らない」と申しておりました。わっ、そうなんだと思ってしまいます。
玉すだれは、ひげ根が太くしっかりしていて、葉の青くて厚い部分が下のほうから始まっています。まさに観察を怠ったと反省しております。
似たような植物のなかから、今も人類は自分たちに都合の良いものを食したり、毒を薬に変えたりしているのだと思います。
植物が悪いわけではなく、人間の勝手ですよね。人間にも毒のある奴、毒が好きな奴、その人と会えば毒が毒でなくなるときなどあり……ですから。
ということで。
救急待合室で二組ほど待って、ようやく番が来て、二人して医師の前に立つか立たないうちに、若い、人を見る目すらなさそうな、
めいっぱいという感じの生意気な医師が、血走った眼をこちらに向けて言った。
「だいたい間違える、そんなことをするくらなら、スーパーのものを食べてりゃあ、いいんだよ。」
状況やら症状はすでに看護師に説明してあった。
やばい、なんだこいつー。苛立っているにしても、言葉が過ぎる。野草の誤食をもって、こちらの暮らしの軸でもある食のありかたまで全否定されたらたまらない。それに「迷惑なんだよ」はなんなんだよ。こちらは、やっと駆けつけた患者なんだよ。
「そんなもの、車で40分の、山のなかなんですからね」と私。
「ここまで40分で来れるなら、スーパーくらいあるだろう」。ははーん、なんなんだ、こいつー。瞬時に作戦変更。といってもそんな意識は私にはない。
「点滴だな」とドクター。「解毒剤を入れるわけですか」と私。
「そんなものないの知ってるだろう」と医師。「胃洗浄はしないんですね。」と私。
「胃洗浄が必要なほどなら、そんなペラペラしゃべれる訳ないだろう。へろへろで意識もないわ。」「で、点滴ね。」「そうだ、なんで知りたいんだ。医者にでもなりたいんか。」
ふらふらでそばにいた英子は、どこかの医者の口舌と同じだと思う。あらら、なんなんだ。
「胃洗浄と点滴の分かれ目は知りたいですよ。そりゃあ。」
「そんなことは知らんでもいい。」
「知りたいです。受ける治療ですから。」
「迷惑なんだ。医者も人間なんだから、ヘボイのが来たらやってられない。」
「お手柔らかに願います。こうやってペラペラしゃべったあとに、くらりと来るんですよ。私は…。」
おーい、こっちも人間なんだ。
救急車がいつも間に合わない所に住んでいるから、幸い少し具合がましな私の運転で頑張ってようやく着いたのに、そのことへのねぎらいさえなしに、逆にそれを理由に救急ですらないだろうと言わんばかりの態度ではないか。
あんたが人間なのは知っているさ。途中で電話が入って聞いた話の内容を思い出す。
「いろいろ入っているから大変なんだ」と続けるのに対して、切り替える。
「キドウシュウシュクとかおっしゃっていましたから、センセーも立て込んで大変でいらっしゃるんですね。まあ、ヘボイ患者ですみませんけどね。」
「ヘボイ患者なんかではない。」あっ、そう…。するすると私の口は自動起動していく。
「私は○○で胃洗浄が必要で、亡くなった娘のことがありますから…。」
「なんでだ。」「○○過剰摂取で…、ええ、そうです。」
医者は黙る。てきぱきと看護師に点滴を指示する。
「この人、私より衰弱気味なので頼みますよ」
と私は英子をさす。
私たちは点滴をするために、簡易ベッドの並ぶ処置室に案内される。私は「迷惑なんだ」に完全にやられている。カバンに咄嗟に入れてきた「食べられる野草ブック」のなかにもある。
…そもそも野菜とは野草だった。そのなかで人間にとって有益で食べられるものだけを栽培するようになって野菜とした。……
だいたい、スーパーのものがぜーんぶ安全だ、なんてほうが、最たる間違いじゃないか。そうも思う。しかも、今思えば、こちらが「インフォームドコンセント」を確かに取り付けようとしたことに対しても、乱暴ないやがらせと、患者を人間とも思わない独善的な態度しかない。
迷惑、スーパー、迷惑、スーパー、胃洗浄、点滴、分かれ目、迷惑、スーパー、迷惑、迷惑、迷惑と、私のなかで赤と黄色にうるさく点滅する信号…。
早めに吐ききった私よりも吐き気が尾を引いている英子の様子がかなり気になる。
それでも病院にいる安心感は大きい。そして何よりも、看護師の若い女性がきめこまかく、親切にやさしく、こちらの質問にも答え、点滴の処置などもてきぱきかつ淡々としてくれるのはありがたい。医師の態度の悪さが引っ張る余韻が、一挙に緩和していくようだ。
「ええ、そうなんです。胃洗浄は鼻から管を入れて大変なことですから…。」
「意識があればそりゃあ、大変ですよね。息子が鉛の鍋で料理をしてしまったときに、やむなく胃洗浄になって、「あんなめに2度とあいたくない」と言っていましたね」と私。
「そういうときしかしませんね。農薬を飲んだり、●●したり、まあよほどのときですね。ああ、○○の過剰摂取の時はその内容と量、そして症状によりますね。必ずしも、胃洗浄とは限りません。」
そうか、そうなんだ、と思う。
次に、そりゃあそうだな、とも思う。
そして、自分と英子の救急治療時にこんな確認をしている自分をあらためてかみしめる。非常時特有のエキサイトした気分が私を自動起動させたかのようだ。私はそれとなく診察したセンセーの名前を確認する。やはり訊いておこう。
そのときはそのときだった。英子の吐き気がおさまり、私も超寝不足にもかかわらず、対応に追われ、自分も早々に吐きまくったその晩、ようやく1時間ほど寝入った。
そして、症状は落ち着いて、今度は眠気がたまらない私に替わって英子の運転で深夜二時過ぎ帰路についた。
帰宅後、あきれるほど寝た。ようやく体を上げた午後、けだるく、しかしながら、自分が採取した「のびる」のつもりだったものがそうでなかったために起きた事故に、いたく責任を感じ、園芸や毒草に関する本がないかと検索を始めた。これは、私の「ものぐさ雑草混在ガーデン」にあたえられた宿題だと思えた。
それが一段落ついたとき、私の中でじわじわと蘇ってくるものがあった。
以前に、そう2011年秋、地元の若い仲間たちに、それも英子の寛容なこころにゆだねられて持たれてきた集まりに、結局、若者たちが次々と手のひらを返して裏切るように背中を向けた最後の最後の時のことを思い出したのである。
というのも、その時、私はある痛切な展開をへて、ショックのあまり、スーパーで冷凍食品に手を伸ばした瞬間、頭の芯からぐらりとふらついて、ドターンと音を立てて、後頭部を強打するほどの転倒をしてしまったのだ。
救急車が呼ばれ、担架で運ばれ、市内のある病院に着く。医師の対応は間違いなく奇妙で、間違いなく不適切で怠慢だった。私はそれにたてついた。
おそらく、それ以前の時間の流れの延長で、傍目には不気味なほど無表情に、医師の対応にいちいち申し立てた。またも、患者なのにだ。
たてつかれた医師は、私を変人と見なし、あるいは「おかしい」と見なしたようだった。CTを取ったことよりもなによりも、その時のぎくしゃくとした空気感が甦る。
英子はリアルタイムに、関係した二人の若い仲間に知らせる。むろん誰も駈けつけはしない。
閑話休題。
その一方で、昨晩は万が一を思い、英子がフェイスブックにまっさきに挙げたことで、しびれはないか、何かできることはないか、といった地元の人たちの助言を受けることができた。一人は、今にも駈けつけてくれそうなそんな勢いすらあった。
とともに、私は今、救急診療時のインフォームドコンセントの困難さをもかみしめている。いよいよ胸に刻んでいる。
自分の心身の危機に、ぎりぎりの心身で対応しようとする時に、その治療や判断に当たろうとする医師が「迷惑だよ」というリアリティに、あらためて唖然としている。
私はまだ意識があり、傍目には覇気があり、反抗心もあり、納得したいと思う気持ちを失わず、即刻、若く、人間としての最低限のマナーも、筋も知らない医師に対峙した。
しかしながら、そうできないほど弱っていたり、意識がもうろうとしていたうえで、それでも「迷惑だ」と思われるとしたらどうなのだ、という疑問が突き上げる。たとえ雰囲気だけだとしても、言動を伴っても伴わなくとも、どうなのだと突き上げる。
それが、○○の過剰摂取、現在、救急搬送で最も多いという事態のなかでだったらどうなのだと突き上げる。
本人がぎりぎり119番を回したならまだいいかもしれない。
しかし、もしも迷惑だと言われつづけたとしたら、例えば家族は119番をまわさないかもしれないではないか。本人とて、「もういいや、もうどうなってもいいや、どうせ、迷惑だって言われるくらいなら、どうなってもいいや」と思うとしたらどうなのだ。
はたして、それが救急治療の現場と言えるのか。
たしかに。
たしかに、救急入口の周辺には、「あなたは本当に救急治療が必要な人ですか」といった貼り紙がされていたと、英子は言う。私は気づかなかったが。
たしかに、あまりに気軽に救急車を自家用車のように利用する人も多いと聞く。
しかしながら、本当に命の境界線を行き来している人にとって、それを疑われることはどう働くのだろうか。
そうあらためて思わざるをえない。
私はこの地域で、あるいは県庁所在地で、「近所にみっともないから」という理由で、119番をプッシュしなかった例を知っている。それでもぎりぎり助かった例も助からなかった例も知っている。
はたして、救急治療を受けることは「迷惑」なのか。不可抗力で誤食した毒物をなんとか早く体外に排出するなり、その毒を緩和するなりするために、奔走したことはマチガイなのか。英子が間もなく60代最後の歳に入ろうとしているこの春の夜に、私は痛切に思う。(私たちの受けた点滴は、毒性を緩和するもので、まさに解毒だった。)
あの、7年半前の「はい、わかりました」が今も私の人生の深淵の扉を激しくたたく。
そんな私の昨日の今日、救急治療の現場のインフォームドコンセントと、それ以前とも言える医師の人間としての余裕のなさ、筋の通らなさを、ひしひしと思う。
たとえ、どんなに切羽詰まった治療が次々と押し寄せていようと。
たとえ、そのあと、点滴を受ける私たち二人のところにやってきた医師が我に返ったように殊勝な態度になっていたとしても。
人の症状は急変する。医師の余裕のなさのように、患者の症状も急変する。
そして、人の判断も幅をなくす。そう及ぼさせた、もともとの救急現場のありようが、どんなに切羽詰まったうえであろうと、ここまで「世間体」が「恥」が優先される日本のここのこの地の、この今のこのただなかにおいて。
あの、「はい、わかりました」が今も人生の深淵の扉を激しくたたく。
「迷惑なんだよ、だから、はいわかりました、だけだろ!」と疑問の余地ない嵐となる。
嵐の向こうで笑い声がする。
「ベロ亭なあ、ビンボーやったけどなあ、あの、いつもおかずのたしにしていた「ノビルのおひたし」おいしかったでー。
いつも子ども5人みんなで競争みたいな晩御飯やったけどな、うちがいちばん、食いしん坊やったけどな…。」
2,016年4月27日 夜8時
事態から24時間後に記す 米谷恵子
追記 ただいま零時前、東京の娘と話して、先日新聞記事になった水仙を食して中毒症状を起こした事件は、農家の出荷した「にら」に水仙がやむなく混じってしまった結果と知りました。まさに「スーパーが万能であるはずもない」という証明です。
水仙はいまや、間をあけてバランスよく育つように間引く高齢者の存在もなくなって、むやみと増える事態になっているかもしれません。私たちが間違えたのは、おそらく「のびる」のはずの水仙ではなく「たますだれ」だったかと思われます。
写真を見ただけで、その違いは一目瞭然ですが、娘は「違いは何も判らない」と申しておりました。わっ、そうなんだと思ってしまいます。
玉すだれは、ひげ根が太くしっかりしていて、葉の青くて厚い部分が下のほうから始まっています。まさに観察を怠ったと反省しております。
似たような植物のなかから、今も人類は自分たちに都合の良いものを食したり、毒を薬に変えたりしているのだと思います。
植物が悪いわけではなく、人間の勝手ですよね。人間にも毒のある奴、毒が好きな奴、その人と会えば毒が毒でなくなるときなどあり……ですから。
ということで。
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