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「こういうの迷惑なんだ!死ぬでー、神経やられるからなあ。」めいっぱいという感じの生意気な医師が、血走った眼をこちらに向けて言った。救急診療時のインフォームドコンセントの困難さ!

「こういうの迷惑なんだ!死ぬでー、神経やられるからなあ。」
救急待合室で二組ほど待って、ようやく番が来て、二人して医師の前に立つか立たないうちに、若い、人を見る目すらなさそうな、
めいっぱいという感じの生意気な医師が、血走った眼をこちらに向けて言った。
「だいたい間違える、そんなことをするくらなら、スーパーのものを食べてりゃあ、いいんだよ。」
状況やら症状はすでに看護師に説明してあった。

やばい、なんだこいつー。苛立っているにしても、言葉が過ぎる。野草の誤食をもって、こちらの暮らしの軸でもある食のありかたまで全否定されたらたまらない。それに「迷惑なんだよ」はなんなんだよ。こちらは、やっと駆けつけた患者なんだよ。
「そんなもの、車で40分の、山のなかなんですからね」と私。
「ここまで40分で来れるなら、スーパーくらいあるだろう」。ははーん、なんなんだ、こいつー。瞬時に作戦変更。といってもそんな意識は私にはない。

「点滴だな」とドクター。「解毒剤を入れるわけですか」と私。
 「そんなものないの知ってるだろう」と医師。「胃洗浄はしないんですね。」と私。
「胃洗浄が必要なほどなら、そんなペラペラしゃべれる訳ないだろう。へろへろで意識もないわ。」「で、点滴ね。」「そうだ、なんで知りたいんだ。医者にでもなりたいんか。」
ふらふらでそばにいた英子は、どこかの医者の口舌と同じだと思う。あらら、なんなんだ。

 「胃洗浄と点滴の分かれ目は知りたいですよ。そりゃあ。」
 「そんなことは知らんでもいい。」
 「知りたいです。受ける治療ですから。」
 「迷惑なんだ。医者も人間なんだから、ヘボイのが来たらやってられない。」
 「お手柔らかに願います。こうやってペラペラしゃべったあとに、くらりと来るんですよ。私は…。」
おーい、こっちも人間なんだ。
救急車がいつも間に合わない所に住んでいるから、幸い少し具合がましな私の運転で頑張ってようやく着いたのに、そのことへのねぎらいさえなしに、逆にそれを理由に救急ですらないだろうと言わんばかりの態度ではないか。

あんたが人間なのは知っているさ。途中で電話が入って聞いた話の内容を思い出す。
「いろいろ入っているから大変なんだ」と続けるのに対して、切り替える。
 「キドウシュウシュクとかおっしゃっていましたから、センセーも立て込んで大変でいらっしゃるんですね。まあ、ヘボイ患者ですみませんけどね。」
 「ヘボイ患者なんかではない。」あっ、そう…。するすると私の口は自動起動していく。

 「私は○○で胃洗浄が必要で、亡くなった娘のことがありますから…。」
 「なんでだ。」「○○過剰摂取で…、ええ、そうです。」
医者は黙る。てきぱきと看護師に点滴を指示する。
「この人、私より衰弱気味なので頼みますよ」
と私は英子をさす。

 私たちは点滴をするために、簡易ベッドの並ぶ処置室に案内される。私は「迷惑なんだ」に完全にやられている。カバンに咄嗟に入れてきた「食べられる野草ブック」のなかにもある。
…そもそも野菜とは野草だった。そのなかで人間にとって有益で食べられるものだけを栽培するようになって野菜とした。……
 だいたい、スーパーのものがぜーんぶ安全だ、なんてほうが、最たる間違いじゃないか。そうも思う。しかも、今思えば、こちらが「インフォームドコンセント」を確かに取り付けようとしたことに対しても、乱暴ないやがらせと、患者を人間とも思わない独善的な態度しかない。

迷惑、スーパー、迷惑、スーパー、胃洗浄、点滴、分かれ目、迷惑、スーパー、迷惑、迷惑、迷惑と、私のなかで赤と黄色にうるさく点滅する信号…。

 早めに吐ききった私よりも吐き気が尾を引いている英子の様子がかなり気になる。
それでも病院にいる安心感は大きい。そして何よりも、看護師の若い女性がきめこまかく、親切にやさしく、こちらの質問にも答え、点滴の処置などもてきぱきかつ淡々としてくれるのはありがたい。医師の態度の悪さが引っ張る余韻が、一挙に緩和していくようだ。
 「ええ、そうなんです。胃洗浄は鼻から管を入れて大変なことですから…。」
 「意識があればそりゃあ、大変ですよね。息子が鉛の鍋で料理をしてしまったときに、やむなく胃洗浄になって、「あんなめに2度とあいたくない」と言っていましたね」と私。
 「そういうときしかしませんね。農薬を飲んだり、●●したり、まあよほどのときですね。ああ、○○の過剰摂取の時はその内容と量、そして症状によりますね。必ずしも、胃洗浄とは限りません。」

 そうか、そうなんだ、と思う。
次に、そりゃあそうだな、とも思う。
そして、自分と英子の救急治療時にこんな確認をしている自分をあらためてかみしめる。非常時特有のエキサイトした気分が私を自動起動させたかのようだ。私はそれとなく診察したセンセーの名前を確認する。やはり訊いておこう。

 そのときはそのときだった。英子の吐き気がおさまり、私も超寝不足にもかかわらず、対応に追われ、自分も早々に吐きまくったその晩、ようやく1時間ほど寝入った。
そして、症状は落ち着いて、今度は眠気がたまらない私に替わって英子の運転で深夜二時過ぎ帰路についた。
 帰宅後、あきれるほど寝た。ようやく体を上げた午後、けだるく、しかしながら、自分が採取した「のびる」のつもりだったものがそうでなかったために起きた事故に、いたく責任を感じ、園芸や毒草に関する本がないかと検索を始めた。これは、私の「ものぐさ雑草混在ガーデン」にあたえられた宿題だと思えた。

 それが一段落ついたとき、私の中でじわじわと蘇ってくるものがあった。

 以前に、そう2011年秋、地元の若い仲間たちに、それも英子の寛容なこころにゆだねられて持たれてきた集まりに、結局、若者たちが次々と手のひらを返して裏切るように背中を向けた最後の最後の時のことを思い出したのである。
というのも、その時、私はある痛切な展開をへて、ショックのあまり、スーパーで冷凍食品に手を伸ばした瞬間、頭の芯からぐらりとふらついて、ドターンと音を立てて、後頭部を強打するほどの転倒をしてしまったのだ。
救急車が呼ばれ、担架で運ばれ、市内のある病院に着く。医師の対応は間違いなく奇妙で、間違いなく不適切で怠慢だった。私はそれにたてついた。
おそらく、それ以前の時間の流れの延長で、傍目には不気味なほど無表情に、医師の対応にいちいち申し立てた。またも、患者なのにだ。
たてつかれた医師は、私を変人と見なし、あるいは「おかしい」と見なしたようだった。CTを取ったことよりもなによりも、その時のぎくしゃくとした空気感が甦る。
英子はリアルタイムに、関係した二人の若い仲間に知らせる。むろん誰も駈けつけはしない。

閑話休題。 

 その一方で、昨晩は万が一を思い、英子がフェイスブックにまっさきに挙げたことで、しびれはないか、何かできることはないか、といった地元の人たちの助言を受けることができた。一人は、今にも駈けつけてくれそうなそんな勢いすらあった。

 とともに、私は今、救急診療時のインフォームドコンセントの困難さをもかみしめている。いよいよ胸に刻んでいる。
 自分の心身の危機に、ぎりぎりの心身で対応しようとする時に、その治療や判断に当たろうとする医師が「迷惑だよ」というリアリティに、あらためて唖然としている。
 私はまだ意識があり、傍目には覇気があり、反抗心もあり、納得したいと思う気持ちを失わず、即刻、若く、人間としての最低限のマナーも、筋も知らない医師に対峙した。

 しかしながら、そうできないほど弱っていたり、意識がもうろうとしていたうえで、それでも「迷惑だ」と思われるとしたらどうなのだ、という疑問が突き上げる。たとえ雰囲気だけだとしても、言動を伴っても伴わなくとも、どうなのだと突き上げる。
 それが、○○の過剰摂取、現在、救急搬送で最も多いという事態のなかでだったらどうなのだと突き上げる。
本人がぎりぎり119番を回したならまだいいかもしれない。
しかし、もしも迷惑だと言われつづけたとしたら、例えば家族は119番をまわさないかもしれないではないか。本人とて、「もういいや、もうどうなってもいいや、どうせ、迷惑だって言われるくらいなら、どうなってもいいや」と思うとしたらどうなのだ。

 はたして、それが救急治療の現場と言えるのか。

 たしかに。
たしかに、救急入口の周辺には、「あなたは本当に救急治療が必要な人ですか」といった貼り紙がされていたと、英子は言う。私は気づかなかったが。
 たしかに、あまりに気軽に救急車を自家用車のように利用する人も多いと聞く。
 
しかしながら、本当に命の境界線を行き来している人にとって、それを疑われることはどう働くのだろうか。
 そうあらためて思わざるをえない。
 私はこの地域で、あるいは県庁所在地で、「近所にみっともないから」という理由で、119番をプッシュしなかった例を知っている。それでもぎりぎり助かった例も助からなかった例も知っている。

 はたして、救急治療を受けることは「迷惑」なのか。不可抗力で誤食した毒物をなんとか早く体外に排出するなり、その毒を緩和するなりするために、奔走したことはマチガイなのか。英子が間もなく60代最後の歳に入ろうとしているこの春の夜に、私は痛切に思う。(私たちの受けた点滴は、毒性を緩和するもので、まさに解毒だった。)

 あの、7年半前の「はい、わかりました」が今も私の人生の深淵の扉を激しくたたく。
そんな私の昨日の今日、救急治療の現場のインフォームドコンセントと、それ以前とも言える医師の人間としての余裕のなさ、筋の通らなさを、ひしひしと思う。
 たとえ、どんなに切羽詰まった治療が次々と押し寄せていようと。
 たとえ、そのあと、点滴を受ける私たち二人のところにやってきた医師が我に返ったように殊勝な態度になっていたとしても。

 人の症状は急変する。医師の余裕のなさのように、患者の症状も急変する。
 そして、人の判断も幅をなくす。そう及ぼさせた、もともとの救急現場のありようが、どんなに切羽詰まったうえであろうと、ここまで「世間体」が「恥」が優先される日本のここのこの地の、この今のこのただなかにおいて。
 あの、「はい、わかりました」が今も人生の深淵の扉を激しくたたく。
 「迷惑なんだよ、だから、はいわかりました、だけだろ!」と疑問の余地ない嵐となる。

 嵐の向こうで笑い声がする。
 「ベロ亭なあ、ビンボーやったけどなあ、あの、いつもおかずのたしにしていた「ノビルのおひたし」おいしかったでー。
いつも子ども5人みんなで競争みたいな晩御飯やったけどな、うちがいちばん、食いしん坊やったけどな…。」

   2,016年4月27日   夜8時

     事態から24時間後に記す   米谷恵子


追記 ただいま零時前、東京の娘と話して、先日新聞記事になった水仙を食して中毒症状を起こした事件は、農家の出荷した「にら」に水仙がやむなく混じってしまった結果と知りました。まさに「スーパーが万能であるはずもない」という証明です。
水仙はいまや、間をあけてバランスよく育つように間引く高齢者の存在もなくなって、むやみと増える事態になっているかもしれません。私たちが間違えたのは、おそらく「のびる」のはずの水仙ではなく「たますだれ」だったかと思われます。
写真を見ただけで、その違いは一目瞭然ですが、娘は「違いは何も判らない」と申しておりました。わっ、そうなんだと思ってしまいます。
玉すだれは、ひげ根が太くしっかりしていて、葉の青くて厚い部分が下のほうから始まっています。まさに観察を怠ったと反省しております。
似たような植物のなかから、今も人類は自分たちに都合の良いものを食したり、毒を薬に変えたりしているのだと思います。
植物が悪いわけではなく、人間の勝手ですよね。人間にも毒のある奴、毒が好きな奴、その人と会えば毒が毒でなくなるときなどあり……ですから。
ということで。
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| 生と死のあいだで | 22:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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どれだけ、こうやって体調も悪い中で頑張る無理が甚大か 皆さん、想像してみてください


桜さんのご冥福をこころからお祈り申し上げます。
と、書きます。やはり、そして、そして、どうしたらいいか、と。
パートナーさんのこと、とても心配。どうしているか、痛い。
石巻なら知っている人がいるから連絡を取ってみようかな。


養子縁組までして貫こうとしたおもみもまたつらい。
私と英子も考えたことがある。それは…。それはそれぞれあるんだ。
私たちの場合は、息子のことが大きかった。二人して、
彼のことを考えられない、そんな制度に阻まれていたから。
大人になっても変わらぬ障害に向き合うのに、法に阻まれるんだから。

出てきたね。アウト イン ジャパン、ここにも。
私たちが、よくよく考えて辞退した、この写真プロジェクト。
東京五輪まで!! に一万枚だったっけ。

どれだけ、こうやって体調も悪い中で頑張る無理が甚大か、
皆さん、想像してみてください。どうか、どうか…。
そうだ、あの別のかたは、
クローズ イン ジャパンを提議したんだ。
そう、前に出る出方もいろいろあっていい。

出ない人も、ポジティブでもいられるはずだ。ほんとうは。
私たちだって、30年ちかくそうだったんだもの。

性的少数者だって、自死で遺された人々だって、
カミングアウトのきつさは、地方では特にはかり知れない。
そして、心身に来るのは他人事ではない。
まったくいまの自分とも重なり…。

祈ることしかできなるとき、人は本当に動き出すのかもしれない。
芯から何をすべきか、
どう動くべきかとことん向き合うのかもしれない。

桜さん、安らかに眠ってくださいとやはり言わせてください。
それでも、パートナーさんを見守っていて…。
合掌。

恵子 / 英子

| 生と死のあいだで | 23:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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悼む権利・悼む自由・悼む使命・悼む義務

悼む権利・悼む自由・悼む使命・悼む義務
……長文です。時間のあるときにでも。

「お盆」の季節をはさみ、色々な体験もし、色々な思考がらせん状に私を行き来した。だからここになかなか書けなかった。SOTTO虹、の営みのありかたも根本から考える時機が来ているという、最初は切迫していたけれど、やがてこれはやむないことで、ゆっくりやりかたを探ろうと変化していって、今はじいっと思っていることが多い。
庭の草花の水やりも少し控えめでもいい日が増えてきて、心身ともにまだまだ疲れやすい日々には少しありがたい。そして、ふと佇んでもいる。

「お盆」を前にて亡くなられた、知人がいた。ひとときは友人といえるつきあいがあった。危うい状態のなか、闘病中だということは知っていた。英子は一度、ネット上で交信していたが、私はそれすらしなかった。
英子には、そのことが突然やってきた。いつもそう。それなり親しかった人の、そういう瞬間って彼女には判るのだ。少したって確かめてそうだと判った。
北海道に行っている間には、町内のおじいさんが亡くなられたのを知った。年末の展示室開きに、この町内で二人だけやってきて、展示室に上がってくれたその一人。ちゃんとにお別れをしたかった人でもあった。
このおじいさんとは、不思議な交流が最近になって芽生えていた。集落いちばんの働き者で、黙々と動き続ける姿がいつもそこにはあった。最近は彼に似合わぬ小さな洋犬を、連れて歩くようになっていた。おつれあいが大変なことになって、そんな小さな動物との触れ合いをいかにも慈しんでいるというふうに私には感じられて、いつしかほんの二三言だけれど、話をするようになっていた。犬の名前を聞いたこともある。嬉しそうに答えてくれたっけ。以前は、緘黙で、無表情で、黙々となすべきことをはいつくばるようにしていたその人の姿は、どこか威厳に満ちていて、誰も寄せ付けないかのようでもあった。そんな人が、避けられず孤独になって、こんなふうに変わっていた。それにはそれで、私の側のことも、彼なりに垣間見たということがあった気がするけれど、それは割愛する。

私は、せめてお線香を上げにいきたいという衝動にしばらくかられた。そのおじいさんにも、その親しかったアーティストの知人のところにも。
でも、やめた。そこには、私の感覚や体験のうちにはない、いかめしい仏壇なんかがあって、私はそこに行っただけで、一気に白けてしまいそうな気もした。いや、悼みたい気持ちは明確にあるから、そんなことはなんでもないかもしれない。でも…としばらく思っていた。思う必要があった。

アーティスト氏は、娘の「うたうたい のえ」のライブのきっかけを作った人でもある。と同時に、衝撃と憔悴のなかから、のえの悲報を知らせたとき、耳を疑う質問をどかんと英子の耳に、電話戦ごしにぶつけた人でもある。
屈託ないと言えば言える。
でもね。でもね。屈託ないですむ、そんな時ばかりではないんだよ。
生きていれば色々なことがあるんだから。

そんなことは彼は、この闘病生活でいやというほど知ったことだろう。
それでも、私にはどこかで判っていた。私たちと彼とのあいだで、のえの死をめぐって起きた出来事の意味合いを、彼はけつして判るまいということを。あっけないほど、「判る」、とこちらが言ってしまえば、彼は言ったかもしれないけれど、それは判ったということではないことを私はどこかで悟っていたとしか言いようがない。
これについて詳細を書く気はない。彼には感謝している。最初で最後の、地元でのライブを実現させてくれたことにおいて。
と同時に、呆れてもいた。それはどうにもならないほどの「屈託のなさ」という名の「無神経さ」だった。それは、私には「単なるおおいなる屈託のなさ」とは、言い換えられないものとしてあり続け、そして、そのままこの世に残っている私の胸のうちに残っている。
「誰も傷つけることのけっしてない、大きな心をもった子どものような心の人」と誰かが弔辞を書いている、と英子が言っていた。

私はそういう彼をも知っている。キャラバンをやるたびに、地元なら必ずかけつけて、ペルーの凝ったアクセサリーなどすすんで購入してくれる時の嬉しそうな様子ったらなかったもの。彼には、私たちはおそらく「同類」で、ただ、私があるスペースで、人の弱さに触れるトークをした時は、英子をして「眠っている人が三人もいたら話せませんよ」と言わせた一人に違いなかった。

人の弱さ、家族観、人間観、そんなものが大切な事柄では、本質的な違いがちらちらと見え隠れしていた。それでも、同じ地に住むアーティストとして私たちは、そして、とりわけ英子は大事にしようとした時期もある。
のえ亡きあと、彼からは、最初の「屈託のない質問」意外に、悼むことばを一度も聞いてはいない。むろん、彼は、ベロ亭に「お参り」に来ることもなかった。ぜひ、来てほしい、と言って、行くよ、と確かに行ったけれど…。

いや、そもそも、地元で本気で、のえへの思いを告げられたことがあるか。この集落の人がその事実を知ったのだって、つい数ヶ月前。信頼する二人のおばあさんには、わりに直後に伝えたのは例外的で、彼女たちは口が堅いから、誰も知らなかったという訳だ。

私は不意に衝動にかられる。この集落のおじいさんのところに、お線香のひとつも上げに行こうかと。しかし、そこにはもはや代の変わった息子さんやお嫁さんがいて、全く自分の思いとは違うことが進行してしまうかもしれない。
私はふっと行ってみたいとも思う。のえが世話になったのは間違いないけれど、同じくらい、のえ亡き後、そのことのおもみを汲めなかった人のところに、お参りにいくってどういうことかと思いつつ。

そして、おそらく今のところは行かないだろうと思っている。
私は私なりの悼みかたを、胸の奥深くでしているのを感じている。

ところで、のえのお別れ…世で言う通夜と葬儀相当…に行こうとする友人を、「なぜ、どうして行くの」と問うた人がいたと、あとで知った。問うたというより、詰め寄った、と言ったほうが近い余韻が残った。これは、今もカタがつかない衝撃として残っている。詰め寄った側は、キョウダイを自死で亡くしていることが、今も私のこころを痛めている。

人の死。それはアプリオリなもので、誰かが誰かを悼むことを止めたりはできない性質のものではないか、と思う。
上記のような、近所の、あるいは近隣つながりのなかで、そんな悼みかたは違うでしょ、という人はいないけれど、それとは全く異質な出来事なのだ。あるいは…。
西成で一年間、のえの部屋を再現して、集まり続けた「のえルーム」に行こうとした人をすごい勢いで止めたひとがいる、という話も三年後に知った。
のえの始めたブログが、ブログ会社の都合で閉じられるとき、「この際だから、もうやめたら」と進言する人が何人かいた。そういうことを強いるって、どういう意味があるのかと不可思議な、誠に不可思議な出来事だった。ブログは引っ越した。



のえの「お別れ」も、「のえルーム」も、のえの作ったブログも、靖国なんかではありはしない。人が人を悼むという機会、しかも、それが最後のホントのホントのお別れだったり、たとえば、ようやく機が熟して、何かを心から発しようとするそのときに、その息の根を止めるようなことをしてもいいものかと思う。あるいは、ブログという大切な悼みの場をそろそろやめたほうがいいのでは、とどこから言えるのかと思う。

靖国神社参拝を擁護する気はないけれど、そこにだって行く人それぞれの思いはある。
なにも、神になった、と信じて行く人ばかりではなかろう。
ただ、日本の党首ともいう人が、どういう目的で行くのかは明確に語られなければならないのは当然だ。

最近、FBを控えめにして、新聞を1ヶ月分読み続けていて、つくづく「悼む」ことの意味合いを考えさせられる。

きわめて個人的でいて、社会的な意味あいをも帯びる、この種の行為をとことん考える。

8月15日は、焼肉のあとの炭があげる炎とともに、のえのトーキングブルースが夜闇をついて鳴り響いた。
「こういうの本当は苦手なんだけど、全く違う入り方をして聞き入った。くっきりとぜーんぶ自然と入ってきたよ」と次世代の友が言った。

お盆なんて、「初盆だから、送るね」とメロンが送られたあの日から、ようやく私のものになった習慣にすぎないのに、どこかに根づき始めている。ただし、仏壇もなければ、お墓も、何もない。そう、のえの立派な喉仏のおコツはあるけれど…。
それから、メモリアルフラワーはもう五個は咲いてもいるけれど。

私は、なにも返さない。あの時、この集落のあのおじいさんと奇跡のように、心がかわせた記憶を大事にしまう。
私は、なにも動かない。あの時、嬉しそうにアクセサリーを身につけたあの人の笑顔とともに、最後までどうやらあのアクセサリーを気に入ってしていたみたいな話に頷きながら。

そして、芯から「悔やむ」「悼む」という営みを、進行させる。
いない、人たちをかみしめながら。いない、そのことを思いながら。
いた、ということをかみしめながら。いた、そのことを思いながら。

悼むという営みは、どんな習慣にも集約されない。
悼むという営みは、どんな義務にも阻止にも強いられはしない。
悼むという営みは、きわめて自由に人の胸のなかでこそ進行する。

それは、人知れない使命。
その人とともにいた、という私の使命。
その人といない、という今の私の息使いとともにある祈りのようなもの…。
きっと、そう。

2015年8月20日  米谷恵子

| 生と死のあいだで | 00:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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父の生誕百年の日に、大切な手紙を5通出す

1月も20日を過ぎると、父の誕生日が来ることを意識する。
そして、気づけばうっかり過ぎている。
その翌日は、大事な友人の誕生日でもある。

はたと思った。
今日は父の生誕百年のその日じゃないか。
百年ってそれはそれですごくないかー。

気づけば、父に語りかけていた。
「ねえ、お父さん。あんな時代に生きなければならないのでなければ、
お父さんは本当はどんな人だったんだろうねえ…」

父をひと目見て、「ケイコちゃんとそっくり」と言ったのは、
後にも先にもヒデコだけだった。
あれからも一体何年がたったろう。

ヒデコは私の実姉の夫の葬儀も、もっと前の私の母の葬儀も
それから、ちょうど10年前の父の葬儀もすべて、顔を出している。
受付を共にになったあとに、親族席には彼女の席がなかったこともあった。
難病だった姉の夫の葬儀のときのことで、
姉もめいっぱいだったけれど、少し経ってから、姉には「抗議」もした。

私はヒデコの両親の葬儀には行っていない。
ヒデコの姉たちが私の存在を認めていない以上は顔を出せない。

むろん、ヒデコの姉たちは、のえが亡くなった直後のお正月に、
堂々と年賀状をよこしたし、
弟のカラに「あなた一人になったのだから頑張るように」と、
少しは理解のあるはずの長姉は年賀状に書き加えた。
あと三人が、のえの姉妹だって忘れていたではすまない話だ。


父の話。

陸軍士官学校…今の防衛大学だ…を出て、
職業軍人となった。終戦の年には30歳だった。
そうか、今年は終戦から70年だから、ぴったり、間違いない。

私の生まれた1952年、昭和27年。
自衛隊の前身となった「警察予備隊」に入ったという。

軍人だった父が、母と共に終戦直後にどれほどの苦労をしたかは、
ついに二人とも語らなかった気がする。

「ねえねえお母さん、どうだったの。
朝鮮半島で兵隊さんが、いつも雑用をしてくれて、
そのときがいちばん楽だったって言っていたけど、
そして、皆がゲーゲー吐いた揺れる引き揚げ船で、
ひとり、けろりとしていたというけれど、
どうだったの」

「ねえねえ、お父さん、どうだったの。
ヘリコプターに乗るのが本当は震えるほど怖かった、
そうフクイにきたとき言っていたけれど、
お父さんにとって、最後まで信じていた、
戦争ってなんだったの。
そして、ろうあ者だった弟…私にはおじさん…とともに、
13歳のみそらで、両親のもとを離れさせられたことを、
最後の最後まで、そう痴呆になるまではずっと、
父の父にどうしてそんなことをしたのか訊きたい、
と言っていたけれど、どうだったの」。

今だったら、そんな母や父とも話せるような、
いいや、やっぱり離せないような、
いやいや、やっぱり話せるはずのような。

お父さん。
ケイコね。
今日ね。大事な手紙を書いたんだよ。
5人の人にね。
投函が遅くなったから、着くのは土曜だけれど、
それでも、大切なことは大切って、
のえが教えてくれたんだよ。
お父さんは、ひい孫の「イオン」くんにも、
赤ちゃんのときに会っているよね。

お母さんは、小学生だったカラを、
寝床に入れて、ガンの末期だった1988年になる前の冬だったか、
抱きしめて、小さいカラもそれを受け入れながらも照れていたっけね。


今日は、たまには自分の育った家を思い出す日。

数日前には、
千葉の姉から、私の「とっておきのプレゼント」が届いたという、
喜びの電話も入った。
ありあまる水仙の芽が伸びだしたのを、
隙間につっこんだのがいちばん嬉しかったみたいでおかしかった。

父も「園芸」は好きで、
京成バラ園が近くて、バラ造りに精を出していたときもあったっけ。

母は、料理が好きで、ないものから不思議になんでも作って、
料理とはそういうものだと思っていた私から、
その才は、いよいよワイルドになって、のえに受け継がれてもいたんだった。


お父さん。
生誕百年なんだね。
一世紀たったんだね。
大正4年。1915年1月22日、
あなたは生まれた。
あのおばあちゃんのお腹から。

そうして、引き継がれたなにかが、
血の流れとともに、今の私に息づいてもいる。

あと半分の血の流れについては、しばらくは控えよう。
最後の切り札だから。

お父さん、1月22日生まれ。
わたし、2月11日生まれ。
姉、4月22日生まれ。
母、8月21日生まれ。

なんかおかしくないかな。
そんなことを今でも思う。

2と1にまつわる数ばかり。

のえは12月21日生まれ。

それでも、カラは4月10日生まれ。


まあ、たまには、
DNA関連話題で終わらせましょう。

お父さん、百年前に生まれてくれてありがとう。
そして、今、私は生きている。


あなたの「戦前のままの頭と心」から学んだ、
様々な葛藤、ありとあらゆる「わかりやすさを疑う」視点とともに。

あなたの「日教組が悪い。女は馬鹿だ」、
にちゃんとに触発され、疑い、生きられた私は幸運だった。


それでも、
あなたが最後まで、あの戦争が正しかった、
そう信じていたことは、今も私の宿題だ。

この時代の揺らぎのなかで。
この世界のどよめきのなかで。


そして、百年前にも、
その時代の揺らぎはあり、
この世界のどよめきはあったはずだ。


そんななかで、
ろうあ者の弟とともに生きたお父さん。

今日は生誕百年なんだね。

私はその日に、
大切な手紙を5通出した。

あなたにではないけれど、
大切な手紙を5通だした。


ケイコ

| 生と死のあいだで | 17:33 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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息子が20年前に、急死に一生を得た日に、「自死フォビアはホモフォビアだ」という表現にたどりつく

用語解説
フォビアとは、いわれなき嫌悪感、忌避感をさして言う。
おそらくラテン系の言葉が語源だ。
南米では、ペルーフォビアがあるんだもの。
いわれなき…何がどういわれなき、を解体して、
分析して客観的に、直感的に向き合わなきゃいけない、
差別よりは、侮蔑に近い、原始的な感覚のような気もする。




本来なら、あの日に急死に一生を得た、16歳で神戸の六甲に住んでいた、
そんな息子のあの日の始まりから、向き合うべき20年という節目の日です。

阪急の沿線からほんの少し高台にあったアパート。
大工さんがはすかいなど、かなり手を入れていたから、
木造りでも、傾ぐ程度ですんだアパート。
むろん、すぐに「全壊」指定になって立ち入りは、
おそるおそるだったけれど。

その一階の角部屋に住んでいたので、
六甲道の駅がぺしゃんこになっている映像をリアルタイムに観たときは、
いったんは覚悟したんだった。

その瞬間はなんと震度4ほどの揺れを、ここでもたしかに感じながらも、
寝直した私たち二人。
これ以降、必ずテレビで確認という習慣は身に付いたけれど。

7時前に「カラくんは大丈夫ですか」という息せききった、
ある年配の方からの電話があった。
「カラは神戸ですけど」
「その神戸が大変なことになっているんですよ。」

8時半にカラが列ができていた公衆電話から、
「ともかく生きているからね。ポッケっとに十円あったからかけた。
並んでいる人いっぱいいるから切るよ」
とかけてきたとき、とんちんかんでなくて本当に良かった。
いや、何よりも生きていてくれて、良かったんだけど。

私たちが被災地に出向いたのは、
それから2週間後のことでした。
そのかん、彼は、
まだまだ若い16歳の少年は、
たくさんの埋まった人たちを男たちと掘り出す、
そんな作業にもいつの間にか加わっていた。
そして、病院に搬送後、
彼の腕のなかで息を引き取った人もいた。
その直後、外に飛び出して叫んだという話も聞いた。

気づけば、まだ一切整備されていない、
体育館だか公民館で、
そこにいた「大人」の人の指示で、
遺体の数を数えていた。

そんな息子の16歳の、まるで戦場みたいな体験を、
つぶさに聞いたのは、
一年後に、あるリーダーとカラが、
フクイの看護師養成の学校に話に来たときのことだった。

はたして私は、そんな息子の体験に追いついているのだろうか。

追いつかなかったから、それ以降の息子の、
ありとあらゆる、予想外の出来事があったのだろうか。
いやはや、天災だけれど人災と、よくよく彼は見ていたのだ。

そんな言葉を記したTシャツをつくったこともあったっけ。
そんな渾身の作を「人権団体」から批難されても、
守ってくれる大人は一人もおらず、
ヒデコがリアルタイムにフォローしたのだった。

それから、「最年少の単身世帯の紛れもない被災者」は、
二ヶ月かそこらたってから、
「ちびくろ救援グループ」で動き出し、
今も続くパートナーと出会い、彼の子どもも今や受験生となった。

あのテント村が、本当に単身で神戸にいた、
そんなカラにどう作用していたのか。

あのテント村の主みたいでもあり、
シンボルみたいでもあり、
皆が仮設周りなどで、
どう被災者をサポートしたらいいか判らないときに、
ミーティングの席で、何気なく皆に語りかけもしていた。

そんなカラを、実のところは、
あのテント村の大人たちは本当に守っていたのか。
「まだ十代の若者をどう生かし、どう利用していたのか」
これは、あくまでも私たちの立場からの発信だ。
そして、それは永久に消えない疑問だ。

今でも、そう東日本が大変になってから、
それ以前にも海外で何かがあれば、
カラの病気がなんたるか少しも判っていない、
もと仲間とか、もとリーダーとかが、
すでに中年や、立派な大人になっているはずの奴らが、
「一緒にボランティアに行かないか」と誘うと聞く。

それがどうカラに残酷で無神経なのか判らないのか。
誘われる嬉しさをしのいで、カラが自分の足元に立ち返る、
そのときの気持ちを思わないのか。


書けばつらつらと、いくらでも出てくる。

「ここはそういうところではありません。
テント村に住む、一人一人のことなど考えてはいられません。」

あの滑り台の高いところから、
まさに高いところから見下ろして、
言い放ったそのリーダーの言葉を、私は一生忘れないだろう。

最初は良かったかもしれない。
そして、単に誰のせいかなどという気もない。

でも、カラは16歳の単身の被災者だったんだ。
そのことを芯から判っていた奴がいたのか。

カラはいい加減な奴なりに、
みんなの不思議なサポートをも、それでもしていたりした気がする。
むろん、カラの側もたくさんの心配をかけたろうけれど、
誰もが、誰をどう支え、補い合ったりしたらいいのか、
そんなのはすべて暗中模索だったのは、知ってはいるし、
十分に想像できるけれど、
それでも、ただ単にやむないなどと言えるのか。



そうして、息子の人生は20歳から変わった。





今日は二人と大事な電話で話せた。

あの日、「とてもカラくん大丈夫」と恐ろしくて聞けなかったやつの話題。
そう、のえのときも、同様な対応が今に至っても続いている、
憎めないけれど、そういう揺らぎがその人らしい愛すべき人の話題。

私が心配している人たちに、無事のはがきをきちんと送ったら、
「どんなに心配していたか。知らせてくれてありがとう」と言ってくれたその人の話。

今なら言える。
だったら、さっさと電話でもなんでもしたら良かったじゃないか。
友達だったし、今でも友達なんだから。

いやいや、もっともっと。
もっともっとその電話では別のことも話したよー。
その人についての最初の話題が、震災がらみであり、
のえがらみでもあったのだった。



それから、地元の古い友人にも機が熟して電話した。
とっくに熟していたのかもしれないし、
遅きにすぎた電話だが、まだまだ間に合う電話だった。

「いまでもいちばんすき」。
その言葉がつきささったまま、私のなかで慟哭した。

「いまでもいちばんすき」。
恋人を自死で亡くした、地元の旧友の言葉。
いや、正確に言うなら、
女たちのたたかいを一時期、
共に駆け抜けて、一旦関係が破綻し、
そして、のえの急逝で一挙にそれを飛び越えた人。

私には、今年はヒデコと出会って40年の年。
聞けは、彼女には、彼に先立たれて40年の年だった。
喪失を抱きしめながら、
慟哭をにないながら、歩き始めた23歳の事だった。

そう、彼女とは、私は一日違いの誕生日。同い年だ。

急逝を知らせる葉書に、泣きながら電話をしてきてくれた。
「よく、私になんか知らせてくれて。ありがとう。
知らなくて。」

のえを亡くしてから、はじめて会ったとき、
あんなにも自然に抱き合い、そして大泣きに泣けた私は、
私の悲しみのねっこを知っていた彼女の懐の中でだから、
泣けたのだと、思ってはいた。
とはいえ、まさにそうだったのだといよいよ思った。

あのあと、どうして他の人とはそうできないのだろう。
そういう疑問が少しずつ湧き上がってもきた。


どれほどの恋や愛にまつわる、悲劇が、
自死のなかにも含まれていることだろうか。

「いまでもいちばんすき」。

ありがとう、話してくれて。
ありがとう、話してくれた。
お互いがそうだった。

やむにやまれぬ仕事の場で出会った当時、
彼女はいつもため息をついていた。
いかに気にかかったか、そんなことも口に出した。

まだ直後のことだった。



あとの電話はつながらなかった。
ある大学の先生も、
地元の分かち合いを営むある議員の人とも。

夜は、疲れきった心身で、
ある新聞記者の六回目くらいの確認作業に心をくだいた。
疲れきった。拷問のようだった。

さっき、また書き直した文面が届いた。

おいおい、見て感じて、聞いて触れて、
そして、言語化できないわけー。
この表現、一歩間違ったら、私への侵害になるんだけど。


あいだには、例の懸案事項で連絡をとったり、
それもまた、わずらわしかった。

「しんどい」から私たちを避ける?
「しんどい」からこのテーマを避ける?


そして、どんどん性的少数派の若者も中年も老年も、
見えないところで死んでいるんじゃないのか。
自死しているんじゃないのか。

カミングアウトなんて遠いままに、
あるいはカミングアウトの爪痕のままに、
そうして、自分をこの地上では抱えきれない、
そう立ち止まってしまって。


そうか。
わかった。

彼らの自己否定はまさに内なるホモフォビアなんだ。
だから、自死フォビアに行き着くのだ。
つまり彼らの自死フォビアは、ホモフォビアとイコールなのだ。

そう思考がいきついたら、
ばかばかしくて、なーんだ、ふりだしかあ、
と拍子抜けしたみたいに、私は佇んでいる。

悲しみと虚しさとか交叉する。
それでも、揺るがない自分に、
去年とは違う自分をも意識する。



今日は、息子の20年の節目に、
きちんと共に向き合ってやりたくもあった。

もうそんな助けなんて必要はないのは判ってはいても。


自死フォビアはホモフォビア。
そう、ホモフォビアは自死フォビアに行き着くのだ。

なんと悲しい発見。
今さら発見なんかじゃなくて、言葉が浮き出してきただけ。
浮き出した言葉の単純さが、
その問題の深淵をたたきつけるだけ。

でも、そう。
紛れもなくそう。


みんな、なにが「しんどい」んだよ。
自分がしんどいんだろ。

私と会うのが、しんどい訳ないじゃないか。


勘違いはいいかげんにしてよね。


でなければ、
せっかく逆境をつきぬけた私たちを、
殺すことはできても、
生かすことはできないのだから。


20年前、息子は助かった。
20年後、私は息子の声がヒデコの電話口から聞こえるのを聞く。


6年たった、のえの声は聞こえない。



それでも、私は、のえの声を聞く。

Rちゃんが言ってくれたように、
ケイコちゃんのところに戻ってきた、のえの声を聞く。

「うん、また、のえちゃん、
またどこかに旅立つかもしれないけどねー」
彼女は笑って言った。

17年かかって、人知れず、
愛しい人への慟哭に向き合ってきた彼女と私の、
宝物のようなお話。

彼女の40年を思いながら、
私たち二人の絆の40年を思う。


のえへの悲しみ、
カラに起きたことの怒り。

なにもかも手放さずに、
それでも、何度も旅立つ彼らを見る。

私は遠くから、見る。

今日も、明日も。



ケイコ

| 生と死のあいだで | 03:31 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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