友よ、こたえは風のなかに……♪♪若きボブ・ディランもいた。 もどかしいNHK『映像の世紀5・若者の反乱が世界に波及した』 を観たあとに、突然、ある監察医の著書『自殺の九割は他殺である』が浮上した。
友よ、こたえは風のなかに……♪♪若きボブ・ディランもいた。
もどかしいNHK『映像の世紀5・若者の反乱が世界に波及した』
を観たあとに、突然、ある監察医の著書『自殺の九割は他殺である』が浮上した。
「ここから出せ。俺たちをとにかくここから出してくれ」
デビッド・ボウイのコンサートで、ドイツの壁の東側から起きた三人の若者の声も、
チェコの「プラハの春」が弾圧される国家的危機の最後の瞬間、
劇作家ハベルの「今は耐えるときだ」という放送の声も知ることはできた。
それでも、この番組は日本の現実のほとんどをスルーし、
世界中の「英雄」を「英雄」にとどめるだけの番組だった。
ゲバラの描写は長く丁寧な気もしたが、突然希望を奪うように遺体が映されもした。
もしも、世界中の現代史をそんなには知らない若者たちが観たとしたら、いったい咀嚼できただろうか。そんな思いもたちあがる。
というのも、ほぼ、何者でもない人たちが、民衆が描かれていなかったからだ。ほんのツマミのように、群衆の一部としてのみ映像は行き過ぎた。
「プラハの春」の敗北のあとには、私の中には大切に、
あの小説『存在の耐えられない軽さ』が横たわっている。
東ドイツの女性作家のやりきれない小説は昔何冊か読んだ。
ソビエト連邦、中国…と続くと言葉をなくす。
長田弘著『私の二十世紀書店』には、国家体制の犠牲になった、
数限りない芸術家、作家、音楽家、詩人、劇作家が数頁の書評という形で、次々と紹介されている。カフカの恋人、ミレナを再認識したのもこの本でだ。
実は、この本は私のカンフル剤だ。困難な執筆にまいりそうになると、手に取る本だ。どこを開いても、あくなき表現行為と国家的暴力の挟間を生きた、そんな本来の意味でのアーティストたちが、その受難のすさまじいまでのただ中で貫いた姿勢に胸を打たれるからだ。
比較するなど愚かなことかもしれない。
むろん、ただ比較する訳ではないのだ。
彼らの存在が、私を叱咤激励するのだ。
それも長田弘の選び抜かれた表現で、それも短い三頁ほどで、
一冊の本に一人の表現者の姿がまざまざと浮き彫りにされて。
今日の番組は文字通り『映像の世紀』だから、映像をコラージュするしかなかったのか。
それにしても、なぜ、日本は世界の歴史から、
しかも、若者たちの反乱が世界を揺るがした時代からオミットされたのか。
観終わったあとの奇妙な違和感から突然、あの本のタイトルが思い出される。
『自殺の九割は他殺である』。
東京に行ったとき偶然古本屋で見つけたように思う。
しかしながら、3年は寝かしてあった。絶対手には届かないけれど、遠くに必ず見える位置において3年は寝かしてあった本だ。
他にもそういう本はある。
『自殺で子どもを亡くした親たち』もその種の棚上げをした本である。
それはそうなのだ。それはそう…。
ただ、今晩の番組を観たあと『自殺の9割は他殺である』が思い出されたのは、そこに貫かれた深い水脈に、私の中で反応するものがあったからだ。
NHKは自滅しつつあるのではないか。
それもむごい権力による圧力で、自殺行為に至る道を歩き始めている、
そのなかでのささやかな抵抗を、
きわめてささやかな抵抗を貫いたのではないか。
そんな気がしてならない、
もどかしい構成であり、あいまいさが残る余韻、
それが離れないからだ。
私が思い出した著書は、ある監察医、つまり遺体、というより死体を、検分して死因をつきとめたり、死亡時刻を特定したりするために、何千何万という遺体と接した人物が著した書物である。
実は最初に開いた頁がショックで、そのまま3年間読めなかった。
間をおいて読めば、たまたま開いた頁がいちばん衝撃の走る頁であると判った。
そしてあっという間に読んだ。
貫かれている主旨は、死にたくて死ぬのではない、ほとんどの場合、殺されるように自殺するのだ、ということを死体が物語っているということだ。
家族の自殺をなんとか隠ぺいしようとするケースも頻出する。
それは「監察医」としてはありえないことだ。
死体検案書は家族に届けられるのだから、
そして警察は守秘義務がある以上、
世間体から、やむない事情から自死の事実を公にしないのは、
家族の自由である、と彼は記す。
なにか不思議な読書だった。
他殺か自殺か事故か見分けるために彼がどんなふうに、
遺体と接するのか、どこに目の付けどころがあるのか、
妙な感じで詳しくなった事実は、私からそれ以降ほぼ離れない。
殺されてから水に投げ込まれれば、
生体反応がないから水を飲んでいないとか、まあ、あれこれ。
でも、この辺りでやめておこうかな。
彼は、「本気」の人間は失敗しない手段を選ぶという、
ある種の精神科医の物言いにも疑義を提出している。
ともあれ。
タイトルがすべてを物語っている。
「自殺の9割は他殺である」。
老人がどれほど虐待されていたかは遺体を見ればすぐ判る。
いじめ自殺が自殺ではないことは、誰にだって判る。
そして、生きづらさを抱えた人たちが追い詰められるのは、
セイフティネットがどこにもなかったという点において、
やはりこの社会が「生きない」ことを奨励していると言える。
チェコでは、21年後の1989年、
かつて「いまは耐えるとき」とソ連の侵攻を目の当たりにして放送した、劇作家ハベルが民主化がなされた後に、元首になる。
「反対するだけではなく、実現できると証明したかった。」
彼の言葉には耐え続けた日々の含蓄も、それゆえの歴史というもののおもみもある。
ただ、この番組では時に意味なく権力者の言葉がはさまれたのが奇妙だった。
1時間の番組のなかで3回ほどでも、これは解釈の幅をあいまいにする操作だ、とすぐ判った。まるで映像の流れのように見えて、それぞれの権力者の奇妙な言葉はおきどころなく上ついていて、前後関係においても必然性に欠けていた。
かつて、ポーランドの映画監督が「砂とダイアモンド」を制作したとき、権力者の目をくらましながら、民衆をも勇気づける映画作りをしたことを思い出す。
そうだ、アンジェイ・ワイダだ。
あの映画のラスト。どうして、暗殺される権力者は倒れながら、
暗殺者と抱き合うような格好になるのだろう、高校生のときから思っていた。
そして、何年か前の、
アンジェイ・ワイダの特集でそれを知った。
権力者には暗殺者がいかにみじめに見えるようにも描き、
民衆にはだからこそ暗殺者が身近に感じられるように描き、
そして、「和解」への意志を秘めたラストにしたことを。
すでにそんな時代が来ている。
自殺と見せかけもせず、他殺的に表現の自由が奪われ始めている。
そんな確認を今日という日に書き留める。
2016年2月22日 米谷恵子
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