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あの番組にも出た、スリランカ人・写真家 ブディカさんとの授業を再開して

BUDD

おととい、ふと思い立って、ブディカさんのホームページを訪ねた。
何か、私自身、言うに言われぬ空白感にとらわれそうになった時、
彼の写真で埋められた、彼のホームページをふと訪ねていたような気がする。
いつもそうだ。おとといもある意味、そんな感じだったような気がする。

開かれた画面の中には、明らかに東北の被災地での、
あの慎重で、この上なくやさしい彼のまなざしを通した写真の何枚かが、
私の前に展開していた。
彼の心が見えるような、一枚一枚。と言ったら、本当はおこがましいほどだ。

彼の母国スリランカで、
彼はフォトジャーナリストとして然るべき仕事を持ち、
高い志をもって活躍していたと聞いている。

大国インドのその隣の小さな国スリランカについては、
日本人のほとんどは、あのセイロン紅茶の産地ねえ、といったことぐらいしか知らない。
私もそうだった。

実は、スリランカ人の日本語教室の生徒は、ブディカさんで二人目である。

ひとり目は、3年ほど前のある日、
「もっと日本語を勉強したいんです。今はこのお金があります。どうか教えてください。」と、
教室に駆け込んできた、タヌージャさんという、
越前市のある会社の研修生として働いていたスリランカ人の女性だった。

たしか、その時彼女は、彼女としては大金であるはずの五千円をひらひらさせて、
今なら習える、という気持ちを最大限表していたのだった。
そして、やがて、彼女は、ちょうど同じレベルの日系ブラジル人のクラスがあったことから、
そこの「特待生」的存在となり、あまりの判りの良さから、
日本在住18年の日系ブラジル人女性二人の舌を巻かせるほどの存在となった。

タヌージャさんは、「研修生」の名のもとに、信じられないほどの低賃金で働いていた。
送別会に行った時判ったことだが、
職場の同僚だった他のスリランカ人女性たちの、「お母さん」的存在で、
その送別会で、彼女はほとんどひとりでスリランカカレーを作り、
さまざまな形で世話になった、この小さな田舎町の良き日本人たちの接待を、
率先してしていたものだった。
働いていた会社では、別れの挨拶さえ、そっぽを向かれるような扱いを受けていた
そんな現実の一方で。

その彼女が、ひとしきり皆と話した後、私に抱きついたまま、
号泣し続けたことを、私は忘れてはいない。
あれほどの絶望感を震えるように伝える涙を私はそれまで体感したことがなかったからだ。

ここでは、それについては割愛する。2008年の9月のこの日記をさかのぼれば、
その辺りの詳しい記述のある日記も探し出せるはずだからだ。

その直後、私の娘、のえが逝った。
私は、スリランカに帰国したばかりの、彼女からのメールに答える余裕すらなかった。
そして、ごく最近、彼女から電話が来た。
「ああ、良かった。先生元気なのね。私は今、スリランカで日本語を教えています」と。
電話はメールよりも高くつく。それでも電話をかけて、
彼女は私と再びつながろうとしたのである。

ブディカさんの話が、最初のスリランカ人タヌージャさんの話になってしまった。

ところで、ブディカさんは母国で、民族的にはマジョリティに属しつつ、
しかしながら、フォトジャーナリストとして、マイノリティの民族の真実を
伝えようと、写真に賭けた。彼は昨日の授業で言った。
「二つの民族同士は仲良くしたいと思っているんだ。だけど、政府が、
わざわざけんかさせようとしているだけ。」
まだまだ日本語力が不足している彼ではあるが、ほとんど日本語、
たまには私がほとんど忘れてしまった英語も交えてコミュニケーションをとって、
判ってきた真実。そして、彼が母国にいることが危なくなってしまったという事実。

昨日は「…が……をつくります」という簡単な文型で、
徹底的に彼の人権意識につながるような練習をした。

無知が、差別・偏見・タブーをつくります。
というような。もちろん、無知、差別、偏見、タブー、についてもきちんと説明する。

そして、あの震災の正式名「東日本大震災」についても、
一字一句の意味を説明しながら伝える。
西は覚えていても東はおぼつかなかった彼に、
大きな日本地図を取り出し、説明する。
「福井は西?」と彼。「まあ、西かな」と私。
にほん、と読むか、にっぽん、と読むかは微妙なところ。
私は「にほん」と教えた。
やっぱり、大日本帝国(だいにっぽんていこく)の臭いを残す発音は
どれが正しいというより、個人が選んでいい類のことと判断してのことだ。

ざじずぜぞ、の発音。さしすせそ、の発音の苦手な彼に、少し集中して発音指導。
その音の混じる重要な単語が、彼のこれから向かう震災の被災地での活動に、
大きく寄与するだろうことを承知しての指導だった。

クラスの半ば、彼が私達の番組を観ていることが判明した。
まあ、彼も一分ほどでも出演している番組のこと、まだ二日目は観ていないということで、
手持ちのDVDを彼にレンタルした。

そして、今度は「ハートをつなごう」の意味などの説明と練習。
つなぐ、という動詞の変化をさまざまな文を作って練習したり。
ハートをつなごう、がどんなテーマを扱ってきたかを説明したり。

そんなこんなの授業の中で、彼がどうしても言いたかったのは、
「このケイコ先生とヒデコさんのテーマの番組は、
福井テレビも福井の新聞社もみな扱わないでしょう」と言っていたという、
やはりジャーナリストのおつれあいとの会話のことだった。
どうやら、彼も、彼のおつれあいも、それぞれあのディレクターに撮られていたけれど、
あのディレクターが東京から取材に来つづけていたことは知らなかったようだった。
残念ながら、おつれあいの出た、福井のあるスペースでの、
私がファシリテーターとして行った「異文化トレーニング」の画像は、
あの番組には使われなかったのだけれど。

授業風景を撮ることになったとき、私は生徒として彼以外にないと思ってもいた。
それでも、宗教的な背景など計り知れず、迷うところもあった。
まず、生徒であるその人自身に、私達がカミングアウトしなければならない、
そのことが立ちはだかってもいたのである。

そんな中、ヒデコが「絶対彼は大丈夫」と勘づけた。それは当った。
私は「教師」という立場上、どうしても慎重にならざるをえないところがあった。
もし、それでこんなに大切な生徒を失うことになったら、といつも頭をかすめるものがあるからだ。

そうして、私達は日本人女性とスリランカ人男性の二人のカップルにカミングアウトをした。
彼との授業は、実は一番後に撮ったフィルムだ。
彼は、どの角度から撮ったらいいか、と問う私たちに、
「右からでも、左からでも、前からでも、後ろからでも」と
こんなにスムーズではなく、とつとつと間違えながらも、はっきりとこたえてくれた。

そうして、あの『番組』のあの教室シーンは成立した。
彼の大切な写真作品を使った授業だから、彼の国籍と職業、名前を入れてもらうよう、
ディレクターに頼んだのは私だ。

私としては、水の中の鯉をつつこうともしない水上の渡り鳥を映した、あの写真の授業の瞬間を、
番組に使ってほしかった気持ちがあった。
その写真を彼はこう説明したからだ。
「このさかな、およいでます。へいきです。鳥、さかな食べません。」
「さかな、ウェルカムです。鳥、遠くから来ました。外国から来ました」

後日見た、福井駅前の某スペースで行われた彼の写真展では、
その写真には、『短期滞在者』という、目の覚めるようなインパクトのあるタイトルがつけられていた。

二月、あの魔の日々が始まる昨年の五月十一日の授業以来はじめて、彼の授業を、
番組の撮影も兼ねてした。日本語教師を天職とひそかに思っている私としては、
やっとなんとかしたあの授業の、ほんの僅かなひと時が番組の一部となった。

そして、昨日。

おととい見た彼の写真の被災地での何枚かが、
即座に私に彼への電話をかけさせた。
「ミニマムな日本語で、マキシムな写真を撮っているのね。もっと日本語を教えてあげて、
ブディカさんが、もっと良い写真を撮るお手伝いがしたい。」
私は日本語と、とんでもない私の英語まじりで彼に伝えた。

そうして、彼の昨年以来、本来の意味では、初めての日本語授業が再開した。

まだまだ、口は回らない。ただ、一年間の間に、ヒアリングが恐ろしくできるようになった、
そのことを私はしかと確認した。
だから、もっと話せたら、もっといい仕事ができる可能性がひらいていく。

でも、
でも、
彼の人間性と写真家としての魂は、言葉など越えたところにあることも
私にはわかる。

それでも、ここは日本だ。
だから、力になりたい。

これほど、ちゃんとに日本語を教えたいと心から望み、
心から伝えたことは、今までにないことかもしれない。
しかも、なんとか、あの猛烈な『副作用』の余波から
立ち直りつつあるこの今と言う時に、
私自身の心からの「希望」として、日本語を教えるということ。

それをもたらしてくれたのが、彼のあの謙虚で、慎重で、
それでいて本質的で、どこかおおらかな、
人の心をやさしく深く問う、あの写真たちであるということ。

そうそう、スリランカのシンハラ語を話す人たちの日本語のイントネーションが、
福井弁とも東北弁ともつかぬような、
なんともいえない哀愁に満ちたものであることも、伝えたい。
二ヶ月しか学んでこなかったというのに、とても日本語が達者だったタヌージャさんも、
必死に少ない語彙を集めて日本語を組み立てようとする
四十代になってから日本語を学び始めたブディカさんも。

それは、私にとってスリランカという国の言葉と文化の、香りと雰囲気と思いを、
伝えて余りあることを伝えて、このブログを結ぶ。


彼の写真を見たい人は、是非彼のブログを訪ねてほしい。以下、アドレス。

http://www.buddcom.blogspot.com/
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| ひびき日本語教室 | 17:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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7ヶ月ぶりの授業

かおりちゃんの都合と、先生の体調をみながら、久しぶりの授業を始めようね。

そうして、今日午後二時、それは実に7ヶ月半ぶりに実現した。
まるで、つい先週までのつづきをするかのように。

実はおととい、今日午後はどう?と電話を入れたが、彼女の携帯からは応答なし。
日曜のことだし、家族で遊んでいるのかな、と思ったものだった。


かおりちゃんは、高校入試にかかわる作文の添削を、
私と久々の授業ですることになった。

難なくことは運んだ。

先生、久しぶりで頭悪くなっちゃったかな、
なんて、二回ほど言ったけれど、
そんなことはけっしてなく、
授業の時間は滞りなく過ぎた。

ああ、よかった。

そのときはいきいきと。

帰宅してからは、ソファで横になったまま、
しばらくうたたね、ものすごく疲れていることに気がついた。

ぼちぼちやろう。

好きな仕事だもの。

かおるちゃんは、英語が得意でそのことにふれた作文。

でもね。自分の言葉であるポルトガル語のことも、
けっして忘れないでね。
 
私はそのことを付け加えるのを忘れなかった。

年内になんとか始められた。
復活できた。
ぼつぼつでも、少しずつでも、始まったことを大切に。
大切に。
少しずつ。

ケイコ

| ひびき日本語教室 | 22:21 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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待っていてくれるんだ

ここのところ、一日おきにすこぶる調子が良い時がある。
反対に言えば、一日おきにしゅんとしてもいるのだが。

そんな体調が上向きの昨日、
ごくごく自然に、日本語教室の生徒の中三の日系ブラジル人の女の子に電話した。

わあ、先生。
私も何度も電話しようかと思ったけど、悪いかなあと思ったり。

彼女は、志望校に受かる点数は維持しているようだったが、
やはり私とやっていた社会と国語は、五十点程度にとどまっていると言っていた。

23日から冬休みだというし、お互い都合や雪模様や、体調の良い時を見計らって、
できるときにする、という形で、
勉強を始めようか、ということになった。

無理しないで。でも、わかったよ。先生。
社会は室町時代のところがわからないの。
国語は古文かな。

いいよいいよ。英語もポルトガル語も日本語もできて、
日本語の古文まで必要ない。なんて、実は古文にそんなに自信がない私は答えた。
古文をやらなくとも、まだまだ彼女は習うべきことはあろう。

それに彼女と会うと、私はなんとも言えない元気をもらえるのだ。
うん、ゆっくりゆっくり。
できるときに少しずつ。

前みたいなスピードで、ばしぱしやらないけど、
ゆっくりやる感じになるけどいいかな。

うん、もちろん先生。そのほうがいい。

信じて待っていてくれた。その気持ちがしみてきて、私を満たした。


しばらく時間をおいて、三人を教えていたある一家のお母さんの
携帯に電話した。
すると、やはり教えていた娘が出た。

最近その二十歳になっているはずの彼女がどこで働いているか、とか、
パートナーの彼があたらしくマッサージ師として働いていて、
お客さんとの会話に困ることがあるとか。
お母さんの職場とか。
彼女がこのかんに、コンビニとか王将とか仕事をあれこれし、
成長したこととか、いろいろ話してくれた。

でも先生、まだ無理しないで。
一月にはじめるとしても、彼を優先してね。
いちばん困っているのは彼だから。

私は一人一人の外国人、
そう日系ブラジル人としてのアイデンティティを持つ彼らと、
どんなにか大切につながりを作ってきたかをかみしめた。
それがしっかりと伝わっていて、
半年以上のブランクにもかかわらず、
なんということもなく、その次の会話が弾んでいく。

みんな、待っていてくれた。
先生は、病気。
今は待っているんだ、そう思っていてくれた。

じわじわと日本語教師魂が頭をもたげ、
彼らの役に立つことの意味が、
埋もれた記憶の中から、
むくむくと顔を出し、私はすっかり
先生として、話を弾ませていた。

少しずつ始めよう。
最初はものすごく疲れるかもしれないし、
案外、気持ちだけはものすごく元気になったりするのかもしれない。

そんなことを思いながら、しゅんとする日はしゅんとする日なりに、
理解して、私の体調を優先して、でもわたしから習いたいと
思ってくれている彼らに、ありがとうの気持ちでいっぱいになった。

彼らの日本語がふってきた。
外国語としての一語一語が、
私の脳細胞を活性化させる。

そのつたなさ、
そのおもしろさ、
そのかわいらしさ、
その率直さ。
その粉飾のなさ、と共に。

ケイコ

| ひびき日本語教室 | 21:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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日本語教室のささやかな成果

メキシコから帰って早二週間。ひびき日本語教室のクラスもぼちぼち続いています。

12月の最初の日曜日に実施された「日本語能力試験」の結果が発表される時期ということもあり、
次々と聞く朗報に、教えていてよかったという感慨に打たれます。

中二のかおりちゃん。二級試験に受かりました。読解の問題がなかなか難しかったみたいですが、よくがんばったみたい。午後になった読解と文法の時間が眠かった、なんて余裕ですよね。

その上、このかおりちゃん、私と国語と社会の勉強をじっくり続けている効果が現れたようで、普段は20点くらいしか取れなかった中学の社会科のテストが、今回は60点も取れたと、ものすごく嬉しそうに話してくれました。問題の意味が分かったり、解いている実感が持てたり、という日本語力の向上をひしと感じているみたい。社会科の特に歴史の教科書の読み解きを続けている中で、特に使われている、かなり難解な言葉のひもときかたが分かってきたのではないか、そんな気がします。

このことは、かおりちゃんのお母さんがものすごく喜んでくれているとか。お母さんと知り合いの、私の別の生徒のはつこさんが教えてくれました。かおりちゃん本人も言っていましたけどね。

はつこさんの話では、彼女の娘のパートナーのセルジオさん、私のクラスにすごく満足してくれているとのこと。一週間に一日も休みがない仕事を続けながら、週一回、日本語を習いにくる彼はとっても真摯でまじめです。でも、疲れで顔がゆがんでいることもあるくらい。でも、いつも最後の方で、分かった、ということへの手ごたえを何らかの形で示してくれます。それは心をこめた「ありがとう」だったり、にこにこ笑顔だったり。

この彼も、四級試験に受かりました。今年は三級だね、と言うと、二級を受けたいけど無理かな、と返ってきます。慌てないでつづければ大丈夫と促すと、よく分かっているようで、三級への決意も固そうです。

はつこさんの娘さんのはるみさん、彼女は私にも本人にも思いがけなかったのですが、一級試験に無事通りました。読解がまだまだと思っていましたが、私と勉強するようになって、全部文章の意味がわかりたいという欲求が生まれたと話していた、そんなことも功を奏したようです。

いつだか、私に聞けば何でも分かる、と言っていると聞いて、身が引き締まる思いがしたものです。それだけ信頼されている、ということは、信頼にいつもこたえなければ、とますます思うものです。

いずれにしても、私のクラスがあったから、ということだけではなく、それぞれ本人の努力が大きく作用しているのは、言うまでもありません。

異文化トレーニングでゲストに来てもらったはつこさんは、引越したところで、一度私に遊びにきてください、と誘ってくれています。さりげなく、生徒と教師の枠をこえて、出会いが心の芯まで浸透していくのは、それこそ日々のクラスの丁寧なやりとりの積み重ねの中でのことです。

そんな彼女は、私の疲れも絶対見逃しません。笑顔を作りきれないとき、早速それを見破られます。「先生、まだ旅の疲れがありますね」と。

今日は、これからスリランカ人の生徒さんのクラスの準備、夕方からは一ヶ月ぶり以上のクラスです。口がまだまだ回らない彼のクラスでのあらたな成果を目指しつつ、地道な準備を続けていくつもりです。

ケイコ

| ひびき日本語教室 | 11:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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お手軽取材依頼と走れメロスと日本語教室

二ヶ月ほど前にあった取材依頼が、また『ひびき日本語教室』にあった。

いつも戸惑う。若干むかつく。

どんなふうに日々、一時間一時間、日本語教室の中で、
外国人生徒と向き合っているか、知っていての依頼なのだろうか、と思う。

あまりのお手軽さに一旦は、とにかく保留にする。
そこに行けば、簡単に外国人の状況を聞けるとでも思っているのか。

日々、どんな授業の中で、どんなふうにそれぞれの外国人の心のひだまで分け入り、
日本語の機微を、文法を、はたまたコミュニケーションを伝えているとご存知か。
おいおいおい。と言いたくなる。

まして、プロの日本語教室として、仕事として開いている教室でもある。

そこでは、実は太宰治の『走れメロス』を読む、という、
教える側にとっても非常に面白い授業が始まった。
一字一句の意味が浮き立ち、わかりやすい日本語や、
時に最後の手段でひらいたスペイン語の辞書からも、意味が浮き立ち、
ポルトガル語を母語とするその生徒の頭の中に、
この文学作品の雰囲気や香りがのぼりたつ。

ああ、この王の周囲への不信感は太宰治が内心深く抱いていた、
自身への破滅的な違和感であり、不信感であったのだな、など教えながらも思う。

この教室の中でしている、不思議な言葉の授業。

それは私にとってかけがえのない、秘め事にも似た、
珠玉の時間となりつつもある。

本当に日本語を真剣に身に付けたい、そんな生徒しか最近はいないからだ。

記者には、一度でも外国人の状況を勉強してから来てほしい。
記者には、一度でも外国人に日本語を教えてから来てほしい。

私が渾身の力で拾い集めた外国人たちの心の機微、デリケートな本音を、
とんびが油げをさらうようには持っていかせはしない。

そんな私の気持はなかなか人には伝わらない。

そんな私の教室は、たった一人の日本語教師である、
この私のささやかな、秘めやかな、かけがえのない仕事の場所であることを、
誰がどんなふうに、はたして知っているのか。いないのか。

一回性の日々に賭けながら、キャラバンの準備の合間にも、
私の日本語の響きに託す日々は今も続いている。

ケイコ

| ひびき日本語教室 | 10:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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