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有名な「ニーバーの祈り」ですが、どう考えますか。あるお二人に紹介された経緯があるのですが、 抵抗をぬぐえません。偉大な宗教哲学者かな? を疑うことをしてはいけないとは思いません。


有名な「ニーバーの祈り」ですが、どう考えますか。

神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。

あるお二人に紹介された経緯があるのですが、
抵抗をぬぐえません。偉大な宗教哲学者かな? を疑うことをしてはいけないとは思いません。
時には戦争をするのさえ、「変えられないこと」と肯定されかねない、そんな直観が走るのです。皆さんの感受性で受け取ったものを訊きたい。米国のオバマ大統領も指針にしているとか。
この祈り、男社会でこそ必要とされているんじゃないかって。


以下はあるところに書きかけた文面より。

この「祈り」を紹介されて、正直、複雑な思いがよぎる。「変えるだけの勇気」など言うまでもないのではないか。この土地でどれだけ当たり前に変革のために力を使いつくしたか、次世代は、そして新たに出逢った性的少数者たちは何も知らない。

と同時に、背腹とも言える女たちの、そして農業ファシズムとも言いうる頑とした状況を前に、ぎりぎりまで奮闘した年月は十一年目の一九九三年に終焉する。
「幼稚園の先生が未婚のまま出産して配置転換になった郡部の事件」の折、私たちは、その当事者の女性と同じ町内に住む私たちの仲間が、おそらくストレスの余り、くも膜下出血で倒れ半身不随になるという事態まで経験する。

それを最後に、この地で他の女たちのために指一本動かせなくなる。家社会が縦横に張り巡らされ、人間としての自由など微塵も入る余地ない絶望を思い知った境地を「冷静」などと評したくはない。

おまけに、勇気を要することと穏やかに受け入れることを識別する知恵など要るものかとすら思う。
そんな指標がなかろうと、希望も自由への模索もぎりぎり行使してきたのだから、そう思うのは至極当然だ。

多くの人が称賛するこの祈りには、それだけの真理があるし、必要な人も必ずやいよう。

が、祈りの祈りたる所以か、人間に潜む内発性をあらかじめ信用していない保守的で教訓的な傲慢さが漂っている気がしてならない。

変えられないものをも変えてきたのが女たちの歴史ではなかったのか。変革が必要な切迫した事態には、可能かどうかを問わず人は自然と動くのではないか。
私たちは、この地ではヨソモノで異邦人、マイノリティの女所帯で、障害のある成人した子どもを一人ならず支えてきた。
投げ出せない逆境を、瞬時の判断やひらめきを総動員して、あるいは経験と知恵と知識の蓄積の果てに、どれだけくぐり抜けたか知れない。

しかも…。
この祈りは、自死遺族には百害あって一利なし、という確信がある。
諭される事なく、この種の喪失体験は凄まじい苦悩と共におのずと悟るしかない、そんな類いのものだ、と、どうしても思えるのだ。
2016 2/10 keiko     期間限定の投稿です…
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| 知のレッスン | 23:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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エドワード・W・サイードの二冊から、「ひらめき」を引用

エドワード・W・サイードの二冊から、「ひらめき」を引用

読書は執筆のうしろだてです。
当然ながら、充電であり、養分補給であり、こころの静寂、
国境をこえた「同志」の発見でもあります。
かならずしも、なにもかもが「同志」の幅を持つとは限らない。

私は私のよって立つところから、
その言葉の一字一句を点検批評しながら読む訳ですから。

昨日から、一冊がアマゾンから届いていたのはわずかに意識していました。
ただ、階段の上に置いてしまって、開けずにいました。
アマゾンのおおげさな書籍用の段ボール様の梱包です。
開けるのはだいぶ慣れてきました。
ひっついているところの面積が広いので手間取る。

もう一冊が朝起きて、届いていました。
個人名で届いてきた古本です。
いつも個人書店の意外な地域名や書店名そのものの驚きを新鮮に感じますが、
個人そのものから送られてきたのは、まだ2回目か3回目かと思います。


今や、ずいぶんと読まれているサイードに、
ようやく手をつけることになりました。
私が購入できる範囲の値段と共に、内容も検索して選んだのが、
「知識人とは何か」と、
「サイード自身が語るサイード」。

「知識人とは何か」の表紙には、彼自身の言葉の引用があります。

「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、
さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の担い手である。」

語りのほうの本には、こんな引用が帯に。
自分がまだイメージができきっていない著者の本は、
私はいくら古本でも帯があるのを選ぶようにしています。

「わたしが思うに、知識人がなすべきことのひとつは、基本的に歴史を無視した健忘症の世界に対して、ニュースを17分間の報道番組にパッケージ化してよしとしているこの世界に対して、歴史を思い知らせること、苦難にあえいできた人びとの存在を知らせること、権利を侵害された共同体がおこなってきた長期にわたる道徳的主張の存在を知らせることです。」

ケイコ注 道徳的を読み違えないでください。本質的なモラルのこと。


私は大概読もうとしている本を手に取ると、ぱっとひらめきでというか、
煎じ詰めればでたらめに、ある頁を開きます。
そこから本全体を抱きしめることを始めます。
抱きしめる覚悟がなければ本なんて開けませんから。

「知識人とは何か」で開いた頁には、ヴァージニア・ウルフのことが出てきました。
やはり、これは、指先がひらめいてたどってくれたのかもって思えます。
さて、私の写経ならぬ、パソコン早打ち利用の、一節紹介です。いきなり孫引き。

「「人ができるのはただ、なんであれ、自分のいだいている意見を、自分はどのようにして、いだくようになったのかをつまびらかにすることだけである。」

自分の議論の舞台裏をさらけだすことは、ウルフによると、いきなり真実をしゃべることとは異なる行為である。おまけに、ことが男女の問題になると、結論を出そうものなら、かならず論争になってしまう。そこで、「聴衆のひとひとりのためにも、聴衆に、語り手の限界や、語り手がいだく偏見や個人的嗜好をとくと観察してもらうのだ。

戦術としてみると、これはもちろん武装解除であり、みせたくもない個人を展開するということによって、自分の話題にふさわしいとっかかりをウルフはてにいれることになった。彼女は、決定的な言葉をもたらす独断的な予言者としてしゃべるのではなく、知識人として、女性という忘れられた「弱き性」を女性にみあった言葉で表象するのだから。

こうして、『自分自身の部屋』は、ウルフが家父長制と呼ぶものの言語と権力と一線を画す新たな感性によって、従属的であると同時に、ふつうは思考されることなく隠されているもの、すなわち女性の場に光をあてようとする。

かくして、このような手つづきを踏んだうえで、ジェイン・オースティンについて、なぜ彼女が自分の原稿を隠したかについて、あるいはシャーロット・ブロンテをさいなんだ潜在的な怒りについてすばらしい考察がうまれ、さらにもっと印象的な、男性的つまりは支配的な価値と、女性的つまりは二次的で排除された価値との関係をめぐる考察もうまれたのである。

女性がペンをとって書こうとすると、男性的価値がすでにいすわってじゃまをするとウルフは語るのだが、このとき彼女は、個々の知識人が語ったり書こうとするときに直面する問題をいみじくもいいあてている。いつも権力構造や影響構造が、でんといすわっている。(中略) そしてまた、知識人にとってはもっとも重要なもの、すなわち、既成の価値観や観念によって押しつぶされたものが存在する。
                   70頁から71頁  平凡社ライブラリー


「語るサイード」には、
こんな、クラシックという分野のピアノ演奏に関する刺激的な展開がいきなり目に入った。

「ねらうところは、そのひとにぎりの楽曲群を鮮やかに弾ける人になること。それで終わり。即興という考え方、つまりその場で楽譜が読めて、さまざまな種類の音楽と戯れることはありていにいって…

消滅した。二、三の例外を除いて。グールドだけはその例外だね。グレン・グールドは、音楽におけるどんなことでもやってのけられた最後の人物だと思う。彼は音楽について語ることができた。演奏ができた。どんな種類の音楽も演奏できた。どんなモードでも、どんなスタイルでも自家薬籠中のものにした。

しかもいつだって、そのめくるめく強烈な個性を、コンサートだけではとてもおさまりきらない個性を失うことなくね。忘れないでほしい。演奏するピアニストたち、おおやけの場で演奏する彼らは、発言などしないことをね。彼らはただ座って演奏するだけ。グールドはその殻を破ったわけだ。テレビに出る、ラジオに出る、物を書く、といったぐあいに。


そろそろ、引用は終わりにしましょう。
これらの引用が、最近このブログで書いてきたこととも響き合うのは当然かもしれません。

亡命しても亡命しても、私たちの亡命は受理されないようです。
亡命の必要性すら誰にも見えない、届かない、伝わらない。

ええ、周縁部を生きています。都市出身者が周縁に位置するということ…
それがほぼ誰にも伝わらない、不思議で奇妙なニッポンです。

ええ、私は私の限界をさらしながら、武装解除しながら、語り合っています。
むろん、執筆作業もかさねています。
だからといって、赤裸々に書いているのとは違う。
なにがまんなかにすとんとあるのか、を探している。


グールドは私もしてやられたんです。
YouTubeに上がっていたのが、
まさに、ショパンを、モーツァルトを「愚弄」しているとも言える演奏でした。
ショパンのバラードの一番に関して言えば、
多くの演奏家たちは、おおよそ8分程度の時間を要して演奏します。
よりによって、私ははじめに彼のYouTubeを聴いてしまったのです。
12分ほどの、まったり、もたもただったなあ。
これでいいんだ、なんて妙に納得したあとに、
「正しい演奏家」たちの「華麗なる演奏」に、私にはできませーん、となった次第です。
モーツアルトは、あるものすごく簡単な曲をまたまた、ずっこけるような演奏で笑わせます。
やっぱり、はっきり言えば「愚弄」しているのかな。


ウルフはともかく、グールドについては、
いろいろと毀誉褒貶(きよほうへん)もありそうです。

まっ、一日の始まりのちょっとした「知のレッスン」。

ただし、これは知的疎外を生みだしたいというようなものとは違います。
私たちは、偶然必然の時間と空間をつみかさねてここで生きています。

そして、その網の目をぬって、ある訪問が昨夜ありました。
私のブログへの「なぐりがき」が少しでも届いている人が存在しているとすれば、
私も存在する意味があるようにも思います。

ヒデコには、ブログを書くケイコの人格がいったい何人いるのかと、
まあ、パートナーだから冗談半分言われていますが、
今日のような私にもまた、よろしければおつきあい願いたいと思います。

ケイコ

追記

やばいな。通常の本になった文章って、翻訳であれ、日本語に直接書かれたものであれ、
ひらがなに起こした表記がやたら多いな、とあらためて、気づいた次第です。
いったい、どれだけの表記の訂正が待ちかまえているのでしょうか。

| 知のレッスン | 13:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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まことに残念ですが不朽の名作への「不採用通知」から、気晴らしで引用!

まことに残念ですが不朽の名作への「不採用通知」から、気晴らしで引用!

白い女神 1948年 ロバート・グレイブス
  正直なところ、小生の理解を超え、いささかの興味も惹かれなかったといわねばなるまい…。編集者が己の能力以上のもの、すなわち個人的趣向や学識を超える本を出版することはままあるが、それでも著者が何を意図しているかは多少は感じとり、それを出版する根拠くらいはわきまえているものである。この作品には興味を誘うものがあまりにも乏しく、不明瞭に思える。この本に必要なのは、おとなしく権威の前にひれ伏すような編集者である



さてはて、私の編集者氏は、前者か後者か、私にはまだ判断できない。
少しは、私の価値を見出しているだろうし、でも、根拠をわきまえているかは判らない。

私は別の編集者にも、文体や文章の完璧さを印象として語られたことはあるけれど、
それだけはいつもあるが、
それ以外のことを、私の編集者氏ははたして言ったろうか。



テス  1891年  トーマス・ハーディ
…不穏当なほど露骨だ。



こう言っていたでしょ。こう言っていたのに、「いいと思います」という変わり様は、
大変革なのであるから、説明を要しましょう。
違うんですか。ははははは、ハーディがこう言われたとは。確かにね。



水源  1942年 アイン・ランド
駄作。主人公にも共鳴できず。
もう一歩で天才的な作品。表現に迫力のある点で「天才的」、あまりにも辛辣という意味で「もう一歩」。私としては、この種の本を好む読者がいることを望んでやまないが、いるはずもない。売れないだろう。
小説にしては知的すぎる。



案外誰か、思っていたりしたら面白い話。この翻訳されていない小説を読みたくなったなあ。ケイコの気晴らしにつきあってくれてスマンスマン。

ケイコ

| 知のレッスン | 21:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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言葉の奥行きを想像できる人間は、どこにいるのか

読まない方が、書いた時点ではいいから、と読まなかったヒデコのこの前のブログ読破。
はいはい、ヒデコちゃんのことは、誰も、その言葉の奥行きも感じなかったんだよね。
おそらく、それなりの言葉は使ったんじゃろね。
黙って、我慢していただけではないんだろうね。
神様みたいに、あの子がこんなふうに喜んでいたとか、色々言っていたけれどね。

今、ホントのホントの仕上げに入った、我が大仕事。
その途上で、まさに言葉に賭ける、我が仕事の途上で、
突然悲しみが突き上げてくる。言葉を失いそうになる。
はい、昨日も2時間ほど失っていました。
自分の思考と感覚を総動員した作業と、現実の余りの浅さが、
あるいは、現実の余りに差し迫った別のリアリティがかみあわないんです。
単にかみあわないのではなく、衝突するのです。
すると、言葉を失う。失語する。

私はあの番組の冒頭に使われた私のメッセージで、
「既成事実にしてきた」という言葉である深い真実を表現していました。

それって、おそらく今、日本で生きている人間には、
ほとんど通じないのではないか、と思うに至りました。

つまり「レズビアン」とか「ハッタツ障がい」とか、
はたまた「自死でノコサレシ者」と言ったって、
その内実の全て、一人一人の生きているリアリティ、
そんなものを「表現」として語れる、書ける人間なんているわけないんだな、
というような、ものすごくさびしいさびしい発見とは言えない、
あらためての念押しみたいな、再確認なのです。

ハッタツ障がいを持つ人、
特に「自閉症スペクトラム」度の高い人には、
「字義通りの解釈」という側面がつよくあり、
時に、メタファーやたとえが通じない、という大きな問題があります。

でも、これって、こういう人たちに特定されることなの??
という疑問が、あらためて大きく大きくもたげてきています。
日本人って皆、自閉症度ものすごく高いよね。
レッテルが大好きってことは、まさに字義通りの解釈で、
政治も文化もそれで埋まっていやしないかい?

セクシャルマイマテノリティと言おうと、
ハッタツ障がいと言おうと、
この日本語は「翻訳」にすぎません。
その翻訳の意味、
その向こうの奥行きすら知らない人たちに向けた入門編に過ぎません。

私が向き合っているのは、そんな入門編ではありません。

生と死の問題は、
人類、というか、人間の究極の課題だからね。

この究極の課題に、レッテルが大好きな特にセクマイの人たちが、
どれほど無様に反応し、結果、私をどれほど傷つけたかの記憶から、
私は逃れたいと思いませんし、忘れたいとも思いません。
これは彼らの生きづらさの裏返しとも言えるけれど、
あいまいな甘えの証しでもあるのです。

『セクマイの事は急くまい』というのが、とりあえず私のそれ以来の墓碑銘です。
一旦、その事実を葬ったので、座右の銘ではなく墓碑銘なんです。
生きづらさに甘えた人たちの墓碑銘ね。
墓碑ではなく墓碑銘。
私が勝手に作った墓碑銘ですから、
そこには誰も埋まってなんかいませんからね。
ふふん。


私はだからといって、
ハッタツ障がい当事者にも甘えさせられません。
ハッタツ障がい当事者としても甘えられません。

それでも、彼らのほうがかなり通じるのです。
コミュニケーションする気にさえなれば、
きちんと言葉を積み上げて、人間として出会えるところまでいきます。
自覚的な当事者と言うべき人たちのことですが…。

言葉というものは、こみいって豊かな、
単純にしてかなわない、よりによってどうにもならない、
ありとあらゆる矛盾を、これぞと伝えるらせんのような表現の素としてあります。

それが、皆さん、
レッテルか記号のようにしか使えない時代になっている。
少し使えれば、本など出せるし、講演などなさって金にしている。

あほな時代じゃないですか。
成功している人は疑います。
時代に届く言葉というのは、時代に迎合しなければ届かない場合が多い、
それはそれで真実なので、一旦は疑います。
どんなに優れた書き手であれ、担い手であれ私は疑います。
ポジティブに疑います。
それは、どこをどうあいまいにした結果かを確認するという意味です。

人間の営みは、複雑にして単純、
一筋縄でいかないかと思うとするりと通るときは通る。

一人の人間の生き死に向き合って足かけ4年。

日本というものがあるとしたら日本は、
その間も歴史の時間を動いてきたのだと思います。

でも、私は一歩も引き下がらないところで、
2008年10月5日に人としての営みを仕上げた、ある一人の人間に向き合ってきた。
仕上げたんだから、仕上げたことが伝わるようにしたいと思った。


一体、どこで仕上げている人がいるんだ。
一体、どこで言葉をその一人一人の息づかいと共に、
きちんと届けている人がいるんだ。



今日のカテゴリー、無理矢理、「知のレッスン」にしました。


みんな、ホントにきちんとコミュニケーションしているのかな。
大事な人を置いてきぼりしてなんかいないのかな。


「豊かさの中の孤独」の深さ大きさを知っているのかな。

「モモ」を読んで以来、これは私の課題。


豊かさゆえに、精神的な大きさゆえに、深さゆえに、
人は生きていられなくなることもあるのですよ。

それを分かち合えなければ、生かしあえなければ、
生きていられなくなることもあるのですよ。


精神的に行き詰まったからでもない。
単に孤独だった訳ではない。

大きすぎる人生に見合わない世の中は、
見捨てたほうが良くもあるほど…時代は世界は、病んでいます。


何か、生まれたときから、皆さん、
キャッチフレーズや、こうあるべきということや、
この世の道を外れないための狭い狭い世界で生きることや、
そんなことばかりを身につけて、
ほんとうの直感とか、然るべき本能とか見失って、
久しいのだと思います。


語るべき相手がいないなら、
こんな世界、もう、捨てるも拾うも惜しくないわ、と思うこともあるこの頃です。


ただ、私には言葉を刻む仕事があるから、
生かされているというだけです。



こんなに見えて感じて、判って思って、
しかも刻みつづける言葉の向こうに、
きっとあるものも、ないものも、
どこに行こうと、どこであろうと。



私はレッテルづけの世界からは、
きっと、ずうっとおさらばしつづけることでしょう。



ただ、私は言葉に刻んで、
私の見たことを、
私たちの歩き着いたところを、
示す使命がのこされているから生きているだけです。


そんなもの捨てちまえればいいのにって、
かすめたりもするけれど、
おそらく自分から捨てはしないでしょう。


突然、悲しみを通りこして、憤りが走る。


生きている奴らの言うことなんかきかないが…♪♪



そんな歌詞もありましたよね。


ケイコ

| 知のレッスン | 20:22 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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次々と「読む」「目を通す」本もまた、今や私のサポーター!! そう、「本は読まれるためにあるー!」

次々と「読む」「目を通す」本もまた、今や私のサポーター!! そう、「本は読まれるためにあるー!」

今日もポストならぬ、玄関の二重扉の中の蔦の編んだ状差しに、ばさっと他の郵便と一緒に本が数冊。届いた、届いた、ふむ、あのやや、きわどいけれど、面白い批評家と言うべきか、なんと言うべきか、今のところ保留の人の文庫もまた二冊。こんなの、もしかしたら福井の本屋にもあるのかもね。

それと同時に、この間、かけがえのない言葉の行き来のあった古本屋さんからも一冊。余りに梱包が丁寧な事に、涙が出そう。出てきたのは、まるで古文書のような一冊の私が生まれたより先に発刊された、よれよれながらも、由緒ある趣きがその紙臭さとかからすらにじみ出る本というより、綴じられた紙の束。
うーむ、私はここに私の本質、人間の本質、を探すぞ、と心を決めている。

あと、2冊来たのは、昨日来た人と同じ。売れまくってるかも。でも、この期に及んで、読んでおく必要に迫られた感がある。

そこから、おとといのある方との三時間の電話での瞬間とかさなる叙述をあっという間に見いだした。

彼女は言った。
「ご自身のためにも、ヒデコさんのためにも、執筆を仕上げられることを願っています。」
即座に私は返していた。おいおい、それ、言うのねって内心。
「えっ、それってもう終わっています。自分のために、ヒデコちゃんのためにという事は抜きにはできないけれど、そのためになんて事はとっくに終わっています。」
沈黙。それから。
「そうですよね…」だったか、
「そうですか…」だったか。


それにかさなる叙述に出逢った。ずしんと来たよ。今さら感もあるけれど、こんな簡単な事が皆、判っちゃいないのか。と、言いたくもなる。うむ。
引用いたしまする。この方、引用大歓迎、コピー大歓迎のセンセー。
これだけ、書いたら判っちゃう人多いかもね。

「この申し出を断るためには、「本を買う人」のためではなく、「本を読む人」のために私は本を書いていると即座に断言できなければなりません。この申し出を前に、一瞬でも逡巡するような人間には物を書く資格はないと僕は思います。少なくとも僕は、その問いを前にして、一瞬でも判断に迷うような人間を「物書き」とは認めません。というのは、本を書くというのは本質的には「贈与」だと僕が思っているからです。読者に対する贈り物である、と。」

ある本の第六講「読者はどこにいるのか」からです。
ふふ、筆者は内田樹。知ったばかりにしては、親しみと反感が入り交じる書き手だな。
反感、というのは違うかも。考えの立て方というか、筋道というか、人と人の折り合いの付け方とか、うむ、経済や社会を論じる時の少し届かない感じとか、含めて、この人、カンペキに「自閉症スペクラム」圏ではないと断言できる事、私の知見がもしかしたら、経済や社会、労働において、この「隔離」されたようなドドド田舎で、追いついていなかったり、少し無知である事もあったり、あるいはそんな事は飛び越えて、「違う」だけだからかも。
否、それでもこの人、面白いんだよな。

舌鋒の鋭さ、そそられる。
よっしゃあ、私ももう少し、愛に満ちた部分も含めて、いえいえ、愛をこそこめて、どんどん毒舌とイケズーで行きましょうか、とも思う。
まあ、今までと変わらずで、十分かな。
それに「愛」って簡単に言えない「自閉圏」である事、大事ーですからね。
愛の根源、見極めますぜー!


時々、ドンピシャアと当てはまる想いと、うむ、ふむ、ありゃりゃ、の間を行き来するのは、
私が定形外の自閉症スペクトラムだからだけではありません。
昨晩寝る間際に、朗読してヒデコも知って、
ふむ、それあれ、ふむね、うーむ、なんて言ってましたからね。

そして、彼はハッタツ的には「定型」の人だと思うけど、
別の意味で、というか、
ハッタツ的にではなく、「定型」を求める社会にありとあらゆる、ある種、うがった物言いも含めて、なんだか色々、このセンセーおっしゃているんですよね。

古文書とこの人の三冊含めて、タイトルなんて記しませんーだ!!
私の今の研究課題、こっそり、やりたくこそあれ、です。

でも、上記の引用に関しては、まさにーと合致いたしましたので…。
発表!!

そうよ。
冗談じゃあないよ。単なる遺稿集ばかにしちゃいけないけれど、
単なる「自己満足」の遺稿集とか、思い出をふりかえってみた的な、
そんなもん書いてるんと違いますからね。


すとんと、この社会の現実の渦中に「落とす」以上。


ただし、この引用の手前には、「本を買う」人ではなく「読む人」との対比として、
その本全部買い上げるからと言われた時、さてどうするって出てくるのよね。
金ほしさに、のえのストーリー、私のストーリー、ベロ亭のストーリー売りかねないほど、貧乏やってるけど、まず売らんな。絶対売らんな。

すぐに「読む」人がどう広がり、「買う」人がどう広がりなんて考えないもん。
いや、すごーく考えるよ。でも、考えないモン。

さて、さて…。

今、私はとても大切な本を、大切な若い二人に貸しています。
ある種、「本を読む人」を増やす実践です。
私はそんな「贈与」をされた事はめったにない、といつも思います。
ある、とても買えない分厚い高い、とっても読みたい本を、ある医者の妻でもある、当時、少なくとも「友人」だったはずの人に、「貸していただけたら…」と丁寧に言って、見事に断られました。もちろん、本は買って、そばに置いておきたい、そういう大事な本がある事は痛いほど判ります。でもね、医者の奥方だよん。

身を切る想いで、手元から離したくない本を貸して、読んだ後も返してもらえなくて、
返してもらった記憶はまだ新しいな。
本なんか、近くの図書館、古書店でいっぱい手に入るはずの人たちが、
なんで家の書棚から、本持って行って、忘れてんだよーって、やはり思うさ。

福井の本屋はクズしか置いとらんもんなあ。
これについて論ずるには、本とは何か、から始めないとな。


私は、人に貸して返ってこなかったたくさんの、大切な、重要な、私の人生を変えたくらいの本が何冊かあります。この30年間くらいの間に。
最近、そういう本を何冊か、古本でアマゾンで少しだけ安く購入し直したりもしています。



うむ、実は、私も借りっぱなしの本あるの。その方の住所が判らなくなってね。
何度も調べたけど、力尽きた。ザンゲします。お許しくださいませ。

金よりも、何よりも、本やCD、音楽とか、天下の回り物であるべきです。
まっ、音楽はかなりなものは、YouTubeで聞けるしな。
いや、金も回らなきゃ困るよ。絶対困るよ。本を拾って歩かなきゃならなくなるし。


誰か、私から返してもらってない本、ある人言ってください。
私から借りた本、返してない人、今からでも返してー!!



本は読みたい人に読まれるためにあるの。
音楽は聴きたい人に聴かれるためにあるの。

そして、今日は今から、私はしゅくしゅくと…まるでエセ政治家だな…
執筆活動に復帰いたしまする所存でございます。

ケイコ

追記 サナエ、何冊か書棚から持ってきたままで、すまん。
   タンポちゃん、突然の電話で「返して」などと言って、驚かしたかな。
   あれ、大事な本なもんで、「Nobody Nowhere」!!

| 知のレッスン | 16:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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