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胸ふさぐ・胸つぶれる・胸がすく・胸がつかえる

カテゴリーは、「ケイコの言葉遊び」にしたけれど、
言葉の実感を得るのって、遊びながらという感覚は私にはあるにしても、
その言葉によっては、命がけです。

昨年2013年の一年間を思い出すと、どれだけ「胸つぶれる」出来事があったことか。
満員電車には乗らないから、
文字通りの「胸つぶれる」ではなくて、
胸がつぶれるような、苦悩に満ちた無理解や齟齬などなどにさらされるという出来事での、
実感をさして言っているんですけどね。

昨日、鍼灸院で「あっ、胸がとおった」なんて言って、
「日本語ってすごいですよね」と続けて、
「胸ふさぐ」状態から脱した治療中の実感を伝えたりもしました。

年末からずっと、胸ふさいでいました。
ふさいで、つぶれるのを防いでいたような感じかな。

今日は、この一週間の課題を、
ある方と、それなり、必要なだけ話して、一応の「解決」を見ました。

「解決」に近い進行形のリアリティを確認するだけでも、
こんなにくたくたになり、こんなにもへとへとになり、
ああ、もう胸がおかしいって感じだけれど、
胸がすく、というよりも、へとへとへとへと、座り込んでしまいそう。

でも話せたという実感は、
去年のあの課題も、その課題も、どの課題も、
もしかしたら「解決」があったかもしれない、と思わせる。

胸がすく、とまでは行かなくとも、
胸つぶれたり、胸がふさぐ状態は、
やはり自分だけのせいなんかじゃないって頭だけではなく、
人と人の関係の中で実現しなきゃだめなんだってとことん実感。

もう出る涙もないんだな、こういうときは。


この課題を持ち越していたら、
生きていられなかったかもしれないよ。冗談抜きに。
だから、必要な話ができて良かった。


そして、生きていられないような課題を、
幾つも昨年から持ち越していることをあらためて意識する。


人から人へと思いを伝えること。
人から人へと考えを広めること。
人から人へと世界観を深めること。

どれも避けられがちだよね。

でも、そんなことなしには、
世の中、生きやすくなんてならないよね。


なんだか、
今日一日の疲れもあるけれど、
この一週間の疲れもあるけれど、
年末から持ち越しのいろんな疲れがどっと来たみたい。

どっと来ながらも、
胸がつかえてもいるけれど、
ふかーい胸のところが、すいたかもしれない。
あいたかもしれない。
必要な余裕があいたかもしれない。


そうだ。
昨日、鍼灸師の先生と話したのは、
「胸のつかえ」の話でした。

みんなみんな、胸のつかえをごまかしごまかし、
生きているんだろうな。

胸のつかえがたまんなくなったら、
麻痺させて、
ふさいだものも無理矢理通して、
胸の中、すっからかんの空洞にして、
なにも考えたり感じなくなったりしないのかな。


なんとも言えない「解決」の後の実感。


あああああああ、つかれたあ。

齟齬を気遣ってくれる相手ではあったけれど、
やっぱり、相手のことも心配したりしていたなあ。

だって、やっぱり感じることは感じてしまうから。
見えたことを見えないとは言えないから。


そうして…、
ああああああああああ、
つかれたあ。


よくやったぜ。
お互いさまと言いたいけれど、どうなんだろ。


ああ、少しめまいする感じ。
そして、どっかがめちゃ虚しい。

だって、ゼロに戻っただけじゃん。
マイナスでなくなすために、
どうしてここまでエネルギー使わなくちゃならないんだ。

なけなしの、歳と共に限界を感じる、
余分にはなかなか当てられない力を、
結局何に使ったことになるんだろ。


こわれなかったってかみしめるだけ。

ディオスミーオ!


ケイコ

| ケイコの言葉遊び | 01:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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境遇・境涯・境界・境地、そして境の奥行き

私は大学の行き方がいい加減だったせいかどうか、
よく判らないのですが、
正直に白状すると、
たまに間違えた読み方をしている慣用句とかがあります。

悪口雑言のこと、今日、よく調べたら判りました。
これ、あっこうぞうげん、って読むんですね。

日本語教師らしく、きちんと勉強しなくちゃね。
いやいや、物書きですから、これから精進しないとね。
いよいよ、ますます。

で、気になった言葉、ヒントになった言葉、
うむうむ、引っかかったな、なんでー??って言葉を
検索したり調べたりして、ここに発表することにいたしました。

今日も「ケイコの言葉遊び」シリーズです。


最近、私たちのことを「境遇」と称して語る、
とっても人権感覚のあるはずの方に会いました。
しかしながら、この言葉を発したことで、
この方の人権感覚は、
「境遇」を調べないとすまないような「境地」に私を至らしめました。
ふふふ。


似たような言葉あります、



出てくる、出てくる。
似ているのは、むしろ「身の上」とか、「身空」とかでしょうか。
この向こう側には、幸不幸とか、苦労したしないとか、
そんな運命論的な気配が濃厚にただよいます。
逃れられないものとしてあるような、そんなものとして…。


ふりかかってきた様々な壁を崩してきた人間としては、
うーむ、違うわいな、と思える言葉です。



恵まれた境遇。

若い身空で苦労して。

不幸な身の上。

とかね。

これ、誰のことよ、ねえ。


辞書を引くと、ほとんど受け身の動詞で説明されています。


境遇。

その人が置かれた家庭環境。経済状態。
人間関係の状況。身の上。

辞書を引くと、同じような言葉のぐるぐるまわりをさせられるのは、
国語の辞書の不備に他なりません。
ここは「日本語の辞典」が必要です。
外国人に使い分けが説明できなければいけませんから…。


誇り高き、選びに選んだ私たちの人生が、
福井県内で妙に、不当に、低く評価されるのは、
こういう価値観がいまだはびこっている社会だからでしょう。



もちろん、経済状態は悪い。それは「置かれた環境」の一つかなあ。
でも、努力しました。他のことは受け身でしてきた訳ではない。

なのに、「金がない」とはなかなか「言わせてくれない」
そんな福井県内の空気ってありますよ。

言わせる。言わせて。
使役形ぷらす「くれる」。その否定形。
言わせてくれない。
フーム、含蓄あるなあ。

身の上
と引くと、「人間の運命」とあって、
それこそもう選べないのよねって感じの説明。

ところが、境涯、境界、境地となると変わってきます。

境涯。
生きていく上で置かれた立場。
「置かれた」の受身形はまだ健在。
偉そうに健在だなあ。

境界。
ここいらから精神や宗教の領域にも入ります。
★精神、感覚の動きによりもたらされる状態、境地。
 また、ぐるぐるまわりの言葉あり。いやだな。国語辞典は。
★善悪の報いによって各人が受ける境遇。
 また、ぐるぐるまわり、ありますね。これは仏教用語。
★力の及ぶ範囲
 わかりやすすぎー。


境地。
いよいよ哲学的な領域に入ります。



それから、
境。

★場所、土地、心の状態などいろいろ。
で、まあ「無我の境地」も「無我の境」もありますね。
★仏教用語としては、色、声、香、蝕、などの六境という考え方があるみたい。
 うむ、六つ揃えられないけれど気にしませんね。


ケイコは言葉への使命感と共に心から頼みます。

人権意識は、日本語の使い方ひとつで異なって届いてきます。
その事を意識する事から始めてください。

私が言葉にこまかいせいではありません。

日本語が、人権意識というより、
人間個々人が構築する自己とか、個の世界を、
ないがしろにしてきたから、
だから、こんなふうにむやみと無自覚に使われてしまうのです。

断っておけば、上の文章の主語は、「日本語」。
私たちが無意識に使っている言葉を主体として、
主語として動かしていく、そんな意識ができないのはなぜか、
心の底から危惧し、暗澹とします。


そして、
誇りと尊厳に満ちた生き方をしている、
そんな人様の人生すら、
知らぬ間におとしめる表現をしているのです。

それが、使う人自身の知性や、
個性、尊厳すらもおとしめている、
そのことに気づいていただけたら、
日本語教師としても、
物書きとしても、
詩人としても、
今日のブログ書きはひとまず一見落着。


今日、と書こうとして、
何度も、境、と出てきて笑ってしまいました。

コンピューターって頭かたいですよね。
ではでは。

ケイコの言葉遊び、
兼、
ことばの豊かな使い方講座でした。


ことば狩りの時代が来る前に、
あれこれ確立させていかれればと思います。

ことば狩りってホントにあるんですよ。
真実を言うことができなくなる時代が到来したら…。


たかがことば、されどことば。
たかが沈黙、されど沈黙。

たかが一人、されど一人。
たかが人生、されど人生。

たかが日本、されど日本。
たかが福井、されど福井。

誰も怒っていませんか。

遊ぶ余裕を持ってくださいね。
遊んでみて、かみしめてみてくださいね。


ASI ES LA VIDA!!!

アシーエスラビーダ!!

それが人生というもの!!


ケイコ

| ケイコの言葉遊び | 23:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「狂言」は人間の愚かさを劇的にならないレベルで描いたという…

http://www.newstokyo.jp/index.php?id=109


今日は、ヒデコを見送ってから、
北海道の友人とサナエと、電話で話してから、
淡々と、のえの原稿を昨日の晩に引き続いて書き続けた。

推敲の段階のものは、
もうこの章はこれでよしという感じで、立ち上がってくるから、
それはそれで、ぞくっとするような達成感と、
背筋をただすような緊張感と共に、
ピュアな、浄化されたような感覚もわきたってくる。


これでいいんだな。
少しずつ仕上げていこう。

北海道の友人とも、
サナエとも、本当に良い話ができたはずだと思う。

遅すぎる夕飯を作って、食べながら急に「狂言」という言葉の由来や、
芸能としての「狂言」について調べたくなってやってみた。


面白いのが出てきたので、これ挙げておきます。

…人間の愚かさを劇的にならないレベルで描いた…
これって、すごいですよね。


この間に、大阪の西成で越冬の野宿者たちを守る活動をしている、
かつて、のえのPAとかしてくれて、とことん、のえの唄を支えてくれた、
ある方からのメールもきました。
ある唄を聞いてくれたというメールです。

私の今書いている、のえのノンフィクションは、
やっぱり、どこまでいっても、のえの事を描いてもいるので、
ある種、劇的なレベルで人間というものを描いてもいる…。



「狂言」という芸能の成り立ちを調べてみて、
つくづく、伝統的な芸能の奥の深さも思いました。
観たいな、と本気で思いました。
還暦になると、こんなにどんどんいろんな事に興味がわくんだなあ、と。


「狂言」には、
もっといやーな、まさに人間の愚かさの極限を言い当てるような、
そんな意味合いもありますが、
そういうものは今日は考えないことにしました。
だって、この狂言についてのブログが余りに面白かったから…。


言い訳とか釈明とか、
狂言とか、詐欺とか、
人間が自分をつくろう段階にはいろいろな表現があります。


そこのところを、うまくついて、
劇的にならないレベルで描いて、
そして人ごとではないという感覚を持たせるって、
すごいと思いませんか。

まさに、庶民の知恵です。
庶民の芸の極致ですよね。

私の執筆もそんな領域に入る時もあります。

とっても真剣な事を書いているのに、
とってもユーモアがあったりもする事が増えています。

それは人肌のあたたかさのようなもの…。
それはきっと、のえがこの世のよりどころとして、
ふれつづけた、ぬくもりのようなもの…。

笑おうね。
忘れようね。

そして、しっかり覚えておこうね。
大丈夫。
誰も、あなたを追い詰めたりはしない。

ただし、自覚してちょうだいね。


人間の愚かさを劇的なレベルにならない程度に、
そう余裕をもって処理する…
そんな、本当の「狂言」の心髄のように。

狂言も言い訳も釈明も遠くはなれて、
私はしばし、日本の伝統の奥深さにいやされます。

こんな夜もあるのですね。

ケイコ


つけたし

今、電子辞書であくまでも字義として調べたら、
言い訳とか釈明は、きわめて肯定的な言葉。
まあ、これは権利とセットで使える言葉。
「言い訳にすぎないけど…」は常套句だけどね。

ただ、芸能を離れた、狂言や詐欺はちがいます。
詐欺のところで、瑕疵という言葉にも出逢いました。
なかなか日本語は奥が深い。
知らない言葉をどんどん増やそう。
この言葉読み当てた人にプレゼントしますよー。
うーむ、何がいいかな。

| ケイコの言葉遊び | 00:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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うらやましい・すごい・うれしい…感情形容詞の罠

最初に言っておくけど、これはケイコの言葉遊びだよん。
心が疲れきった時には、私はこういう言葉遊びに救われてきた。
遊びのわりには、それなり考えるところもある。
でも、心を砕くのと、言葉について考えるのは、どうも脳細胞の違うところを使っているというのは、よく実感できる。皆さん、脳細胞のどこを、その瞬間使っているか、自覚できるのかな。私にはふつうのことなんだけど。これも自閉の特性?

10月5日の、のえの命日をどう通過するか、で、今年は、外界に向けて、とことん力を尽くした。ここまで、人に、のえの生と死を意識させた(ここでは、あえて「してもらった」とは書かない。やっぱ、意識させた、だ。)のは、のえのことが、映像という誰の目にも見える「虚構」の世界に乗ってしまったからだった。おい、そこに何をあんた達は見たの? と問わざるをえない、そこまで私は「追いつめられていたからだ」。

やたら、書きながら、「」をつけるのは、その事に距離を取りたかったり、そこをつっぱねたい思いが高じている証拠。

私は10月5日の、のえが逝った時刻を過ぎてから、間もなく、倒れるように力を失った。
すとーんと力が抜けたと言ってもいい。
それまでは、おどろくほど落ち着いていたというのに。

もろもろあって、昨日は、とうとうある人と話そうと決心して、
電話をするがつながらない。
別のネット情報によると、忙しくて電話に出られない、というその人の告知が、
ヒデコが留守電を入れてすぐに広まった。
それまで、特に忙しそうな様子はなかったと聞いているのにな。

夜、遅く、ある別の人と、3時間余り話をした。信頼関係を築きつづけてきた人。

4日には、エミさんと話した。
「うらやましい」という形容詞を巡って。

そして、昨晩は、長話をした人と、「すごい」という形容詞を巡って話した。
「すごい」と呼応して「うれしい」という形容詞についても話題になった。

今、日本語教室にいないから、日本語の形容詞に二種類あって、感情形容詞と、えっと、もうひとつ物の動かしがたい性質を言うタイプの形容詞があるんだけど、なんて呼ぶかは、忘れてしまった。文法の中身さえ判っていれば、日本語でも、どんな語学でも教えられるから、文法用語なんて問題じゃないのよね。

ただ、感情形容詞…えつと、この言いかたで良いかどうかはともかくとして、とにかく、感情を言い表す形容詞のことだけど…というのは、日本語では、きわめてきびしく、一人称か、それ以外の人称かが使い分けられていることが面白い。

つまり、
私はうらやましい。私はベロ亭がうらやましい。
は成り立っても、
エミさんは、ベロ亭の親子関係をうらやましがっている。
としか、三人称では言えないということがあるのだ。

4日にエミさんと話した時、エミさんの「うらやましい」が、次の段階の表現に行き着いたことを、私は指摘した。「うらやましい」は私に、あるいは長年、ベロ亭にのしかかりつづけた形容詞で、これを言わせたままでは、けっして関係が長続きしないことを、私は本能的かつ意識的に、彼女との誠意あるやり取りの中で発見してしまったというべきだろうか。

日本語の感情形容詞は、実にエゴイスティックな一人称を、明確に使い分けることで、その意味を際立たせる効果を持っている。

うらやましい、は一人称でしか使えない。それ以外では、「がっている」とつけなければ機能しないという仕組みの面白さ。

さて、昨晩話した人とは、「すごい」を巡って、ちょっとしたやりとりがあった。
その人は、ある時、その人らしくもなくある種「不用意に」もらした、「お二人はすごい方たちですから」という言葉が、私にとっておさめどころのない言葉だと指摘される前から、
それを言われるだろうと、意識していたと昨晩言った。

ただ、「すごい」は感情形容詞の側面を持つには持つが、ある種、評価の基準のような要素が入っているから、「がっている」という表現にはならない。

それはすごい。
と言って、一人称の感情と共に、ある種の評価を伴う感情の濃さを表しているとでも言おうか。だから、
すごがっている、とはならず、
その人は、ベロ亭の二人のことを、すごいと思っている、となる。

ふふ。日本語教師に完全に戻っちゃったかな。
でも、これは私達が人と共に生きていこうとする時、けっして避けて通れない課題でもあるんです。その事、意識している人、意識できる人、どんだけいるのかな。

その人は、「すごい」という感情と評価を伴う形容詞を、ふとある瞬間、珍しく使ってしまったことを意識していて、そのことを言葉を尽くして伝えてくれた。
私はその「すごい」がこぼれてしまった瞬間をキャッチしていたから、キャッチした瞬間に感じたことも、結局話した。

私達について、大切なことを伝えた後、その大切なことに触れているのが「嬉しい」ということを、その人は言ってくれた。
その後の会話の中で、ふと、私はごく気軽に、「ああ、そうか、それが嬉しいわけね。」とか何とか言った。「嬉しい」の安易さを、安易に使ってみた。気軽さと言ってもいいけど。
もちろん、ものすごく大きな「嬉しい」も、おもい「嬉しい」もあるけどね。

その人は、「すごい」と「うれしい」が、丁度、そのこぼれ方において、相対する、というか、好対照というべきか、そんな二つの形容詞だということを示してくれた。
なんだか、おかしかった。

私は知っている。
私達二人をうらやましい、と思っている人が、近づいてきては、去っていった、おびただしい、私達の人間関係の歴史を。
うらやましい、はけっして、互いの人間関係としては蓄積に至らない、という点を。

すごい、は、もう少し、評価といってもいいニュアンスが含まれるけれど、それもまた、気を付けなければならないということも。評価が、適切に機能している時はいいけれど、それを相手にあらわにしても意味がないことが多いということを、私は肝に銘じているからである。つまり、めったに、相手に対して使うべきではないかもしれないことを。あるいは、その人の、仕上げた成果とか、そういったものには、選ばれて使われて然るべきかもしれないとしても、それはそう簡単に使わないほうがいいということも。

まあね。初雪がどかっと降っていて、「わあ、すごい雪だあ」とか、「すげえ人混み」とかいう使い方の時は、全く違う意味合いを帯びてくるのは別のことだけどね。

とにかく、私は、時にエゴイスティックなその人の感情を押し付けてくる感情形容詞について、この間に、不思議な学びをもった。

それは、のえの、「うらやましい」ほどの宝物のような音源に残る歌の数々の中に秘めた「すごさ」を、まさに命日という当日聞いていた中で、もたらされた発見でもあった。
これは、一応言っておくけど、こじつけ的表現で、のえのことをそんなふうに思っていつも聞いている訳じゃあないんですけどね。

しみじみ聞いていて、こいつすげえ、とか、うん、思うことはあるよ。

ならば、のえの人生はうらやましいと言えるのか。
ならば、私達の人生は、うらやましいと言えるのか。
ならば、私達の親子関係は、すごいと言えるのか。
ならば、私達がつくった家族は、すごいと言えるのか。

一瞬の感情の表出として、その事を言われることには、もちろんやぶさかではない。

ただ、その感情の表出が、その人の動かしがたい、叫びのような、葛藤のような、出口を失った感情の表出として、このての感情形容詞が使われることには、要注意だということを、私は単に言葉のプロとしてだけではなく、自身が生きてきた人生の投影として知ってしまったことを、今回、激しく自覚してしまった、ということかな。

ありゃりゃ。今、使った「激しく」はなんなんだ。
うん、これは、一回性の「激しい」という度合いを表す形容詞の副詞形。
私の、感覚と知恵と知識の度合いが凝縮した急速さを、表している副詞句という訳だ。
はは、こりゃあ、うれしい発見だ。

ケイコ

| ケイコの言葉遊び | 02:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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