今年は、これでこの「宣言」のモニターは終えます。
もう少し作戦を考えて、より広く深くアピールするべく、
来年へと備えます
一番、悔しかったのは、昨年、ありえない衝撃をもたらした人が、
「今年は、夫のおばあちゃんが亡くなったから、
年賀欠礼で、何も書かなくて良かった」と聞こえてきたこと。
こちらに年賀状が来ないことを、
真面目すぎるほどに「永久欠礼」を受けとめた、
そんな結果ではなかった、という拍子抜けするほどの、噂でした。
こんなところに現れる、人と人の立場の違いによる、
また優先される価値観による、喜怒哀楽の温度差のようなものも、
これからの「SOTTO虹あゆみあい塾」でも、
ゲームっぽく、ワークショップ的に模索していきたいと、
そう手ぐすねひいてアイデアを凝らしています。
今年はともかく、これで幕引きー。
少し不燃焼だけど、私も他にしなきゃーならないことあるし。
もっと賢く来年は、皆さんを驚かしますからね。
これは正当な「怒りの宣言」。
これは当たり前な「権利宣言」の第一歩なんだと、
それだけはお伝えしておきます。
二月七日コメント歓迎!期間限定で、この欄を充実させていくのにご協力を。
そう、あと1ヶ月。2月半ばまでですよー。
中間報告第2弾今から、年賀状ならぬ「2014年のご挨拶」の葉書を
一部、郵便局の出している年賀はがきで、
一部、ただのポストカードで出しに行きます。
オモテ面、英子のご挨拶。宛名書きの下半分、私の言葉です。はい。
のえの事実を知っている人で「読んだ」とだけ書いた方には
かなり思い切った文面。沈黙の扉たたいたでー。
私の名前がなかった二枚への返信には、
「私のこと、覚えているよね」とか、
「確か、40年近い伴侶だと私のことご存知ですよね」。
いえいえ、後者はそういう気持ちをこめて、
「○○恵子もよろしく。私たちは別姓です」と。
つまり、昨年私のことを省いたある人ほど、
「よける」意識がつよい人たちではないと見なしての一言。
ひとりはものすごく長いつきあいだし、
でも、ジャーニーのときの私の「のえ」にまつわる一言に、
急いで帰った余韻がすこし「悲しい」のでどうしようか、
と思いながらの一筆でした。
もうひとりは新婚さんが妻の名前を連ねて書いたけど、
ヒデコ先生しか宛名書きに思いつかなかったという、
旦那がたが、よくするパターンで。
しかも、彼は「妻」の方と、私たち二人が、
急速接近は把握していらっしゃらないようです。
丁寧な「寒中見舞い」をよこした高校時代の親友には、
少し丁寧に書きました。
どれも空欄利用ですが、空欄の狭さを感じたな。
彼女には…。夏には、年賀状の返信がないことで、
「何かあったのではないか」と心配していたし、
今回の手紙には、人の何倍も感受性のつよいケイコさん、
なんて、やっぱり友達だよなあ、という一言もあり、
すこし泣けました。
ところで「感受性」という言葉、
そろそろ死語になりつつあるんじゃないかな。
私のお腹が大きくなっていく…中には「のえ」の始まりが…
その様子を19歳の彼女が見つめていた思いも書いてくれていて。
それでも、私は年賀永久欠礼はある種の手段で、
というか、国民的な良くも悪くもある慣習にのっとった、
あるいはのっかった、
「声なき沈黙のマジョリティの人たちのなんらかの宣言」
への5年がかりくらいの覚悟の、
最初のきわめて個人的なふうを「よそおった」提言なのだ、
とさすがに書きました。ひとり、昨日届いたはがきに、
「のえにまつわる、のえが亡くなる前に見た夢」を書いてきた、
物を書くのにも慣れているはずの人が、
かなり言葉足らずで、
「これ書くなら封書にしたらー」と言いたくなりました。
自分が寝て見た夢に関しては、
ある種の前提とことわりを書いて、
その夢の内容を伝えるべきなのでは。
特にそういう内容でした。傷つくほどじゃあないのに、
なぜ、今頃言うの、多分言ってもいいんだ、
と今頃気づいて、はがきのはしっこに書き綴ったのでしょう。
最近、こういうの去年の夏くらいからたまに受け取る。
まるで、「のえさんのこと語っていい」解禁令でも出たみたい。今頃だよん。
私は箝口令なんて、一度だって出してきませんでした。
NHKの番組の感想欄では2011年には確かに、
のえのことも「のえルーム」のことも書かれませんでしたわいね。
2011年のLGBTの医療と福祉の学習会では、
私たちは沈黙の壁に囲まれました。
なにか周りが奇妙にぎくしゃくしていた。
その理由が最近、どんどん判明してきている。
その学習会では、ひと組のカップルと、あるひとりだけが、
あの映像に敬意を表してくれました。
40人あまりの人たちのなかで。
さて、「自分の見た夢」を記した文面に、
「恵子さんは知らないだろうけれど」という匂いが、
毎度のごとくたちこめるのは、
ときに、いやかなり多くのときに、
コミュニケーションギャップを今さらながら感じます。
さてさて、夜中に親しい友人に、
それもかなり社会性のある活動を仕事にしている友人に、
ふっかけリサーチ電話を入れました。
あのはがきのこと最初あまり思い出せなくて、
年賀状の悪習談義から、のえの歌詞を記憶しているかまで、
私の誘導尋問? であれこれ笑って話しながら、
最後の最後に、
「それは判っていたよー」とぬけぬけとおっしゃった。
おお、あなたはエライ!? うん、えらいよ。
という訳で、今から「水平社宣言」を確認します。
2015年1月14日 午後3時中間報告第1弾 この文面をアップして2週間近くたった1月2日に書いています。
もうかなりな年賀状を受け取っています。…「ベロ亭」家全体としては。ふふふ。
35人ほどに年賀永久欠礼葉書をお出ししました。
ブログで読んだいたけれど、葉書を受け取って紙の感触と共に、
受け取めました、という友人と朝電話で話しました。
彼女は、自分も大切な感情を封じ込めて生きているかも、
と真摯に語ってくれました。
25人は、のえの誕生日前後、10人程は年末ぎりぎりなので、
すれ違い?もあるやもしれません。
ひとり、また私を宛名に書かなかった、ものすごく親しい友人が現れました。
彼女には、葉書は出していません。うん、かなりな生きづらさを日々抱えているしなあ。
今日2日にはもうひとり。こちらは年賀永久欠礼葉書を「勘違い」してしまったかも。
ただ、読解力も執筆力もきわめてある人のはずですから、
よほど忙しいか、還暦すぎて、少し弱ってきて頭が回らないのか逆に心配しています。
のえの誕生日に出してすぐ、年内に「懺悔の手紙」をよこした親しい友人もいます。
彼女は、大切な人を病死で亡くしています。
以来「自らの人をひらく力」が痩せていったという表現が切なく残っています。
年賀状に、「やっぱり年に一度、思い出してほしくて出します」
とさわやかに書いた人も「永久欠礼」を受け取った人です。
ひとり、のえが亡くなってから、のえの事を一度も話さない友人は、
「ケイコさんからの手紙受け取りました」とメモだけありました。で、で…。
そうそう、これを書き忘れてはなるまいね。
のえのこの歌詞に感動を表明した人が二人。
そういう意識で歌っていた、のえちゃんの生まれた日だからこそ、
「誰もが生まれたことを祝えるように」
という日に制定…するのにイイって言ってくれた人、一人。
あと年賀状をくださった人の中で、永久欠礼葉書を受け取っているはずの人で、
一切触れていない人が何人も見受けられます。
これは、あらためてのお願いです。
そうでなくとも、大雪でうもれそうな気候が続く昨今、
私をどうかまた「沈黙の壁」で包囲する大作戦というか、
無意識の深層水脈合流大作戦で、
一致した行動などなさらないでくださいよね、(大笑い&号泣)
っということです。今朝はそれで久々眠れなくなりました。
この文面をちゃーんとに読んだら、判るはずですよね。
それとも、そんな感情、封じ込めるの当たり前だろう、って思っていて、
こんなのおかしいって思うなら言ってくださいな。
遠慮はいらぬ。妙な気遣いはやめてくれ。
ただし、おてやわらかに願います。
以上中間報告ー。
2015年1月2日午後5時悲しみの思索の角には、至福来たる
〔年賀状の永久欠礼宣言〕と共に
12月21日を
『誰もが生まれたことを祝えるよう祈念する日』として、
米谷恵子が発起人として起草いたします。
今年2014年元旦に届いた2通の年賀状が私をここまで導きました。1通は、私と私の娘が、娘の亡くなった姉のことで心揺れ涙ながらに電話で話しているのを、大声で無理矢理にやめさせ、その娘にも私にも多大な精神的打撃を与えた、娘の配偶者の名前を、特に考えないで事務的に連ねた賀状で、もう1通は以前岩国英子と二人仕事を親しくしてきた相手が、何の心当たりも断りもなく、不意に私の名前を省いた賀状でした。
娘「のえ」を亡くして以来、6年間、絶え間なく続いた、故人にも遺された者にも敬意を欠いた…血が逆流するような理不尽な体験のあらゆる蓄積をふまえつつ、以後1年近く、時には受け取る側にとって、困惑とも狼藉とも苦痛ともなりうる、年賀状という習慣の功罪を考え尽くしました。
年一回の交信が嬉しい友人がいるのも確かです。だから、受け取るのは拒みません。拒まないどころか、懐かしい顔を思い出したり、ユニークなデザインや文面が楽しみなのは事実です。なんだか、矛盾するようですけど、それはそれなのです。ただ、家族写真をためらいなく使うのが、孤絶に打ち震えて生きる者の深層に与える心理的負荷くらいは思っていただきたい。
私は英子と二人のツーショットを最近3年ほど賀状に堂々と使いましたが、NHKの番組出演を機に女二人のパートナーシップを誇らかに打ち出せるのを期限つきで祝したまでです。
が、2014年の賀状は、私は返信も含めて保留とし全て控えました。1月半ばには、初の失声症状も体験しました。心身の不調は世間の無理解の蓄積の果てに表れるのです。
私は形式的な「年賀欠礼葉書」が必ずしも胸に落ちません。むしろ、誰がどのような血縁や婚姻関係にあるか、無闇に知らされる感が強く、文面から故人への遺族の痛切な悼みを実感することは多くありません。
日本人ほど、深い喪失体験に立ちすくむ人への寄り添い方を知ろうともしない民族はないというのが、まさにこの国の現実なのです。
「どんな人が、どんな人に対しても、
自然に当たり前に、逃げも隠れもせずに、
どれほどの悲しみであっても、
表現できるようになる日まで…」私は、私の年賀状の永久欠礼宣言を、ひとつのムーブメントとして提案していきます。
悲嘆を心にしまう自由は、選択肢があってこそです。
たとえどんなに痛みに満ちていても、悲しみにそっと頷き合ったり、亡き人の事でしみじみと泣き笑いをしたりなど、大切な人を悼むという営みを、誰かが頭から禁じたり、恥と罪で打ちひしがれていると断じて、腫れ物のように避け、二度と交信せずに、沈黙の壁で包囲するなど、人間としてはあってはならない事。喪失の連鎖すら生み出す所以です。
それを教えてくれたのは、まさに、亡き娘「うたうたい のえ」でした。彼女は2004年11月、神戸「ビッグアップル」で、ジョン・レノンの「イマジン」の一部を、自ら自由な日本語に大幅に意訳して、ジャズ演奏をバックにカバーで歌っています。イラク開戦の頃かと思います。のえは当時、大切な友人が自死し、二週間発見されなかった事実に衝撃を受けていました。さて、「イマジン」の歌詞は以下をご覧ください。
この世界中で流れた血は全部一緒な血だ。
どんな殺され方をしようと全部一緒な血だ。
この日本で毎年三万人以上の人が自殺するのも、
そして、流れる血も全部同じだ。
どんな死に方があったか。 どんな殺され方があったか。
違いと言えば、それぐらいのこと。 日本語詞 のえ私は、娘の「うたうたい のえ」が、44年前に生まれたその日を、
「誰もが生まれたことを祝えるように祈念する日」と定める発起人として、
このムーブメントを、たった一人から、心静かに始めます。
どんな死に方があったか。 どんな殺され方があったか。
違いと言えば、それぐらいのこと。 にもかかわらず、「自ら」「いのちを断つ」という、追い詰められた末にもう明日はとても生きてはいけないと逝った者の、誰にもかわれない、かけがえのない人生が、すべてなかったものとして闇に葬り去られる、原始社会のようなこのタブーと偏見に満ちた日本社会に、私はこれを機にはっきりと、よりいっそうの NO! を突きつけたいと思っています。
のえは、この歌をこう歌ったときから「自殺者」こそが、この日本社会の、「見えない戦争」の犠牲者であると悟っていたのです。
私は魂を賭けて、それに連なろうと立ち上がります。 米谷恵子
「生と死を思う辺境の森」構想 提唱者 2014年12月21日
「うたうたい のえ」の生誕44年のその日に。
今年は冬至は22日ですが、ほぼ冬至生まれなんです。
全国規模の「ちいさな集い 悲しみにSotto虹」代表
LGBTも発達障害関連も「自死」でノコサレタ人の参加歓迎。
偶数月第二日曜午後2時から4時半に福井県鯖江市の専光寺で開催中。
奇数月はSotto虹ささえあい塾も計画中。
「ちいさな集い」のお知らせの詳細掲載の、リーフレットお届けできます。全国に広めてくださいね。
℡090-2093-1739 米谷恵子 昼以降
こんな提案はいかが?
★年賀欠礼ムーブメントに加わりませんか。広く活用できるような、ひな形となる案を募集中。近日中にブログ「ベロ亭日記」に、皆さんが活用できるひな形をPDFファイルで発表したいものです。文案作りにぜひ知恵を貸してね。
★ムーブメントとして説得力や機知に飛んだ草案にするため色々なご意見、この文面の印象、ここは抵抗を持たれるのではないか、とか、より理解を深めるようにするにはこうしたら…など伺えれば嬉しいです。
★ふくらませて、幅広く応用の効く、めちゃ面白いひな形にしたい。「「忘年会」と「おめでとう」で、すべて悪政もリセットしてなかったことにする…。そういう社会と繋がっている現実」という指摘も興味深いです。
★たとえば、「年賀永久欠礼」はなかなか無理でも、「12月21日を『誰もが生まれたことを祝えるよう祈念する日』」として広めるだけなら、ОKもありかな、とか。人間の感情として「悲しみはあってもいいもの」として、お互いに認め合い、心にかけ、各々の喜怒哀楽の温度差に、少しでも想像力を働かせられるようになるのが芯からの目的です。★この文面を書き上げたのは、2014年12月17日の深夜のことです。
パキスタンで、武装勢力に学校が襲われ、140人余りの子どもたちが、
犠牲になった記事が、朝、新聞の一面をおおっていました。
襲う側も襲われる側も、なぜ、という理不尽な問いから、
出発しなければならない現実が世界中にあることを見据えながら、
この私のささやかな宣言が、日本の現実を動かしていくことを祈りつつ…。