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必要としているのは「魂の法廷」。きっと弁護士さんも、ご遺族も、そこの位置からけっして動くことなく、動かないからこそ、ついに手にした判決


友人の山下弁護士さん、また、いい判決出しました。なかなか言えないことかもしれませんが。

こういう判決ひとつひとつに至るまでの、遺族の通ってきた渓や峠を思うにつけ、どれほどのおもみのある判決かとひしひしと思います。ブラック企業が我に返る、そんな契機、そんな前例となっていくことを祈ります。

と同時に、「労災」というふうにもくくれない、あるいは労災では全くない「自殺」について、私は思います。私たちレズビアンマザー二人の暮らしは、娘を亡くしてからよりいっそう逼迫しています。もしも、公平でニュートラルで揺るがぬ軸をもった心と眼差しのある、「魂の法廷」のようなものがあるとしたら、と思います。
亡くなる直前まで、独特の特性をもって唄をうたい、両刃の剣のような特性を伴った生きづらさに、座礁するように逝ったものの人生の法廷はいったいどこにあるのでしょうか。

「私は告発しない。自分の位置に立つ。」と書いたのは、石原吉郎。シベリアに12年抑留されたあとの詩人としての表現のはざまで導き出された言葉です。
なにかとてつもない体験、とてつもない被害。それはたしかにお金に換算されないかもしれない。多くの抑留者が国を相手にたたかった時代のなかでのことでした。

私もまた、娘のことも、息子のことも、たたかえるものならたたかいたい相手ははっきりと具体的にいくつも存在します。

しかし…と思います。私たちが必要としているのは「魂の法廷」。
きっと弁護士さんも、ご遺族も、そこの位置からけっして動くことなく、動かないからこそ、ついに手にした判決であったろうと察するばかりです。

恵子
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| 自死へのタブーを見抜く | 22:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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《詩》こころがあるなら痛みで疼くその胸に手をあてよう……… 睨みをきかすのは、「敵」だからではない。 私たち自身のなかに「敵」がいるからだ。


《詩》こころがあるなら痛みで疼くその胸に手をあてよう

何往復かの何人かとのやり取りの果てに、
生死にもかかわる課題として
「もう生きていたくない」、
そこに直結する根深さをも見つめながら、
互いの、
粘り強くも柔軟な意志に育てるという道づくりとは、と問う。


今はこの人里離れた地で、
よりいっそう生きた人とのやりとりが命綱だ。
たとえどれほどちいさな対話でも
ささやかな慰めや救いになるのだから。

私は肉声を電話線を介しても聞きたい。
私はその人の表情を沈黙と静けさのなかでも、
そっとたしかに見ていたい。
記号のような文字だけではなく、
肉筆の、その人を表す線や勢いを見てみたい。
人の筆跡がいのちだった時代は終わったのか。

本当にそれは時代のせいにしていい、架空性なのか。

子ども5人が保育園やら小学生だった頃、
児童扶養手当改悪反対運動で、
全国のシングルマザーとともに改悪を止めた1984年。
メールなんかない時代ご飯食べさせながら、
自分ももぐもぐやりながら、
肉声の電話を縦横に行き来させて
国会請願やら全国的な連携で食い止めた改悪。

その後には互いをねぎらうように、
ベロ亭のすぐ近くのキャンプ場で
「全国シングルマザー合宿」をした。

娘を亡くしたことは胸におさめた。

それでも、冷酷な現実に遭遇すると、
悲嘆がこころを粉々にしてしまう。

むろん悲しみは私の人生から消えるはずもない。
誰からも消すことを要求されたくもない。
それは、愉快な思い出とも、
かけがえのない楽しい記憶とも切り離せない。
むろん、天分溢れる、直球のあの歌声とも。

誰からともなく応援の声があり、
似通った苦悩を生きる人々に支えられた。
人間の鎖ならぬ人間の防波堤ができて、
今日も心の決壊を食い止めた私がいる。

知っているからだ。
それは、私たちの営みを判らないのではない、ことを。
判りたくはない、判るわけにはいかない、
そんな後ろ姿をいくつも見てきたからだ。

人間誰しも、これほど困難な宿題には、
簡単に良心を継続しては持てない愚かさを
自分のなかにも見てきたからだ。

それを、余裕のなさを言い訳に、
ぶつけるいしつぶてにするな。

汚濁を、
苦悩とは言いがたい愚かな不満を、
山のように見聞きしてきたそれらを、
私もいしつぶてにはしたくはない。

バラバラなひとりひとりが
なにをかなそうとするとき避けられない、
そんなこと。

そして、これほど自他を許せない、
許そうとしない世間。
マイノリティ村社会、ネット村八分。

これ以上、傷つくのも、
傷つけるのも避けたい。
誰であれ、それを耐えるのは違うからだ。

少なくとも後ろ姿を見せて逃げ出していく人たちでないのなら。

あの大阪の展覧会場で、
私の口をおのずと突いた、私の歌声。
そこには赤ちゃんを抱いた
しんと静まる存在感の人がいた。

今日は倒れた旅人たちも生まれ変わって歩き出すよ~♪
今日は倒れた旅人たちも生まれ変わって歩き出すよ~♪

私は感じる、心の芯に感じるぶれないもの。

それを拠り所にそれを信頼する、私の魂の囁きに頷く。

リーチ数の多さに比べて、
反応がきわめて少なく、
しかも言葉のやりとりには表れない地下水。

時に慄然としながらも、聞き耳を立てることは怠れない。

それが自死のつめあとが残した
巨大なる日本の沈黙の壁だからだ。
甚大なるこの社会の宿題だからだ。

もう生きていたくはない、という人が現れれば、
おのずと心身が反応して手を打つ。
私でなければならない、それはようやく替わってもきた。
フォローしあう人影が見える。
漣が泡立つのを悟る。

アラサーの危うさ。
とりわけマイノリティの青さに、
またも、どうなるのかと心身の限界も感じる。

のえの命日に、もたらされた花束。
それっきりの、志しなら、もう要らないともふっと思う。
それっきりの勘違いであるなら…。

テーマの数々はまだまだ危うくしか受け止められない。

だから勇気と
決断と
ユーモアが必要なのだ。

誰もがあれもこれも、
背負わされている時代だ。
架空の空虚さも、
耐えられない痛苦であれ、
誰も彼も、まともなら死にそうな日本だ。

三度目になれば、
「自死に向き合うこの営み」への排他性にも、
賢明にもなる。
睨みをきかすのは、「敵」だからではない。
私たち自身のなかに「敵」がいるからだ。
愚かさという名の。
見栄という名の。

どんなささやかなやりとりも貴重だ。

それでも私には
私たちには
このバーチャルな円卓しかないのだ。

それをリアルな議論
穏やかな対話へと成長させるのは、
互いが見えること、
見えるものにすることから始まる。

また沈黙の壁で
幽閉しないでください。
あなた自身を、
私を、私たちを。

自死でノコサレシ者が
言うべきことを言う。

それだけのこともできない。
それだけのこともねぎらえない。
それだけのこともささえられない。

いや、それすらもさせない。

それでも私たちは佇む。
それでも私たちは生きる。

はるかなる意志を
持続する覚悟を
なんとか凍てつかせない。

そんなあなたの声と、
メールと、
電話と、
面と向かっての対話なんかもあったりで、
フェイスブックのやりとりもしたりで、
人間の鎖ならぬ、
人間の防波堤を
たんねんにひとつひとつ かさねながら、

はるかなる希いを
和解へとつなげる。

互いのぬくもりに感じる。

感じることを手放さずに、
忘れなければ、
離さなければ、

温められるものを大事に大事に
何度も、
何度でも温めなおしては、
ひとつひとつ結び合いながら。

2016年2月20日    SOTTO虹主宰・米谷恵子

★「詩人」としては、未完成ながら、急ぎ投稿とします。

| 自死へのタブーを見抜く | 23:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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異様、夜中の2時に往復2時間の、県庁所在地の郵便局に車で走り抜ける、それもヒデコひとりで


異様、夜中の2時に往復2時間の、県庁所在地の郵便局に車で走り抜ける、それもヒデコひとりで

そもそも、SOTTO虹、のリーフレットは、2ヶ月近く前にできていた。その完成の前後にも、あれこれ、いやがらせや遠まわしの忌避はあった。それでもその時期になんとか仕上げる必要はあった。そして大口の四ヶ所を送付したあと、私は一切、この発送ができなくなってしまった。

受けた傷は、何度同じようなことが起きても小さくはならない。むしろ累積赤字が大きくなるように、なんどもなんどもひらいては治りきらない傷口のようにうずくのだ。


彼らはあたかも強姦の加害者のようだ。痛くもかゆくもなく、パレードの列に意気揚々と並んていたりもする。
彼らはあたかも戦場の兵士のようだ。人を殺した自分にすっかり麻痺してしまって、自分の愚かさにはけっして気づかない。
彼らはあたかも遠まわしな答弁で、責任を回避する国会議員のセンセーがたのようだ。まるでそのことには関わり合いのないようなふりをして、何事もなかったふうに装うのだけは長けている。

それらの全てを私は見た。2011年の放送以来、数十回は目の当たりにした。

私たちの家で、番組を見たカップルがいた。のえの死と「のえルーム」を描いたシーンで、怒鳴りまくり、呪われたような言葉を言い続け、品位を欠いたひどい言動を吐き散らした。

彼女は当事者だったのだと思う。自死でノコサレタ家族だったのだと思う。そして、それを恥だと、罪だと、別の家族や親戚からたたきこまれたのだと思う。

むろん、彼女は泥酔していた。大阪に帰ると言い出した。
「どうぞ」と私は言った。運転できる訳もなかったけれど。
私はまずいなと、大人になって、なにか持ち直す方向付けをしたのだけは覚えている。
あるLマザーの二人と終わった日のことである。
そりゃあ、終わるしかないよねえ。

こんなことが何度も何度も繰り返されていて、精神衛生に良い訳もない。

のえの尊厳のみならず、私たちベロ亭の二人の尊厳は、数十回あまり、どかどかと踏みにじられてもいる。
いや、数えられないくらい、そこここの空気に満ち満ちているような体験だ。

LGBTであれ、フェミニストであれ、脱原発派であれ、「自死」に目を背けるような人のほうが、日本では一般的なのかもしれない。これはきわめて恐ろしいことだ。人が追い詰められていったそのことそのものから逃げようとする人たち。

逃げなければ生きていけない場合もある。
人は様々な地雷原を抱えて生きているから。
そして、そういう人こそ、追い詰められる側になりえたりする。

でも…。

ようやくのこと、十数通の郵便の束をもって、24時間受け付けている往復2時間の県内でいちばん大きい郵便局にヒデコが車を出してから、いやおうなく許しがたい思いがつきあげる。

なぜ、こんなにも、どでかいテーマを二人して抱えているのだ。
抱きしめていたはずのものが、営みとして動かそうとすると、抱えてしまうという結果になる。手に余るほどのものを。

ねえ、ここに来て、リーフレットを持って行ってよ。
あの日、羊のやきものを購入に来て、20部持って行ってくれた大阪の彼女みたいに。

ねえ、そして配布してよ。黙っていても、私がまいっていても、そっと助けておくれよ。

もう私たちには限界だ。とっくに限界をこえて、自分の本来の仕事をも犠牲にすらしている。それしかないという選択のもととはいえ、異常な状況であるのは紛れもない事実だ。

表向きだけは元気な顔をして、世の中にはLGBTというマイノリティしか存在しないかのように、ふるまう人々と触れ合うのは金輪際ごめんだという気がする。

どんな少数派も弱者もいる、と本能的に判っていたのが、ハーベイ・ミルクだった。そして、マイノリティであるということは、他のマイノリティの生きづらさも瞬時に判ろうとするものだと、私はいつまでかは忘れたが、そう思っていた。

わずかな人はそうであるかもしれない。

私はむしろ夢見る。あらゆる少数派も弱者も、多数派も少し困った強がりも、渾然一体となってパレードするそんな風景を。

鳥肌と悪寒が走る。

68歳のおばあさんを深夜の往復2時間のドライブに走らせた「無自覚きわまりない状況」に対して、鳥肌と悪寒が走る。

ケイコ

| 自死へのタブーを見抜く | 02:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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悲しみの思索の角には、至福来たる 〔最新2015年2月7日・冒頭から2番目に、12月半ばから一月末まで毎年固定

今年は、これでこの「宣言」のモニターは終えます。

もう少し作戦を考えて、より広く深くアピールするべく、
来年へと備えます
一番、悔しかったのは、昨年、ありえない衝撃をもたらした人が、
「今年は、夫のおばあちゃんが亡くなったから、
年賀欠礼で、何も書かなくて良かった」と聞こえてきたこと。

こちらに年賀状が来ないことを、
真面目すぎるほどに「永久欠礼」を受けとめた、
そんな結果ではなかった、という拍子抜けするほどの、噂でした。

こんなところに現れる、人と人の立場の違いによる、
また優先される価値観による、喜怒哀楽の温度差のようなものも、
これからの「SOTTO虹あゆみあい塾」でも、
ゲームっぽく、ワークショップ的に模索していきたいと、
そう手ぐすねひいてアイデアを凝らしています。
今年はともかく、これで幕引きー。
少し不燃焼だけど、私も他にしなきゃーならないことあるし。
もっと賢く来年は、皆さんを驚かしますからね。

これは正当な「怒りの宣言」。
これは当たり前な「権利宣言」の第一歩なんだと、
それだけはお伝えしておきます。

二月七日
コメント歓迎!
期間限定で、この欄を充実させていくのにご協力を。
そう、あと1ヶ月。2月半ばまでですよー。

中間報告第2弾
今から、年賀状ならぬ「2014年のご挨拶」の葉書を
一部、郵便局の出している年賀はがきで、
一部、ただのポストカードで出しに行きます。

オモテ面、英子のご挨拶。宛名書きの下半分、私の言葉です。はい。
のえの事実を知っている人で「読んだ」とだけ書いた方には
かなり思い切った文面。沈黙の扉たたいたでー。

私の名前がなかった二枚への返信には、
「私のこと、覚えているよね」とか、
「確か、40年近い伴侶だと私のことご存知ですよね」。
いえいえ、後者はそういう気持ちをこめて、
「○○恵子もよろしく。私たちは別姓です」と。

つまり、昨年私のことを省いたある人ほど、
「よける」意識がつよい人たちではないと見なしての一言。

ひとりはものすごく長いつきあいだし、
でも、ジャーニーのときの私の「のえ」にまつわる一言に、
急いで帰った余韻がすこし「悲しい」のでどうしようか、
と思いながらの一筆でした。
もうひとりは新婚さんが妻の名前を連ねて書いたけど、
ヒデコ先生しか宛名書きに思いつかなかったという、
旦那がたが、よくするパターンで。
しかも、彼は「妻」の方と、私たち二人が、
急速接近は把握していらっしゃらないようです。

丁寧な「寒中見舞い」をよこした高校時代の親友には、
少し丁寧に書きました。
どれも空欄利用ですが、空欄の狭さを感じたな。
彼女には…。夏には、年賀状の返信がないことで、
「何かあったのではないか」と心配していたし、
今回の手紙には、人の何倍も感受性のつよいケイコさん、
なんて、やっぱり友達だよなあ、という一言もあり、
すこし泣けました。
ところで「感受性」という言葉、
そろそろ死語になりつつあるんじゃないかな。

私のお腹が大きくなっていく…中には「のえ」の始まりが…
その様子を19歳の彼女が見つめていた思いも書いてくれていて。
それでも、私は年賀永久欠礼はある種の手段で、
というか、国民的な良くも悪くもある慣習にのっとった、
あるいはのっかった、
「声なき沈黙のマジョリティの人たちのなんらかの宣言」
への5年がかりくらいの覚悟の、
最初のきわめて個人的なふうを「よそおった」提言なのだ、
とさすがに書きました。


ひとり、昨日届いたはがきに、
「のえにまつわる、のえが亡くなる前に見た夢」を書いてきた、
物を書くのにも慣れているはずの人が、
かなり言葉足らずで、
「これ書くなら封書にしたらー」と言いたくなりました。
自分が寝て見た夢に関しては、
ある種の前提とことわりを書いて、
その夢の内容を伝えるべきなのでは。
特にそういう内容でした。傷つくほどじゃあないのに、
なぜ、今頃言うの、多分言ってもいいんだ、
と今頃気づいて、はがきのはしっこに書き綴ったのでしょう。
最近、こういうの去年の夏くらいからたまに受け取る。

まるで、「のえさんのこと語っていい」解禁令でも出たみたい。
今頃だよん。
私は箝口令なんて、一度だって出してきませんでした。
NHKの番組の感想欄では2011年には確かに、
のえのことも「のえルーム」のことも書かれませんでしたわいね。

2011年のLGBTの医療と福祉の学習会では、
私たちは沈黙の壁に囲まれました。
なにか周りが奇妙にぎくしゃくしていた。
その理由が最近、どんどん判明してきている。
その学習会では、ひと組のカップルと、あるひとりだけが、
あの映像に敬意を表してくれました。
40人あまりの人たちのなかで。

さて、「自分の見た夢」を記した文面に、
「恵子さんは知らないだろうけれど」という匂いが、
毎度のごとくたちこめるのは、
ときに、いやかなり多くのときに、
コミュニケーションギャップを今さらながら感じます。

さてさて、夜中に親しい友人に、
それもかなり社会性のある活動を仕事にしている友人に、
ふっかけリサーチ電話を入れました。
あのはがきのこと最初あまり思い出せなくて、
年賀状の悪習談義から、のえの歌詞を記憶しているかまで、
私の誘導尋問? であれこれ笑って話しながら、
最後の最後に、
「それは判っていたよー」とぬけぬけとおっしゃった。
おお、あなたはエライ!? うん、えらいよ。
という訳で、今から「水平社宣言」を確認します。
 2015年1月14日 午後3時


中間報告第1弾 
この文面をアップして2週間近くたった1月2日に書いています。
もうかなりな年賀状を受け取っています。…「ベロ亭」家全体としては。ふふふ。

35人ほどに年賀永久欠礼葉書をお出ししました。
ブログで読んだいたけれど、葉書を受け取って紙の感触と共に、
受け取めました、という友人と朝電話で話しました。
彼女は、自分も大切な感情を封じ込めて生きているかも、
と真摯に語ってくれました。

25人は、のえの誕生日前後、10人程は年末ぎりぎりなので、
すれ違い?もあるやもしれません。


ひとり、また私を宛名に書かなかった、ものすごく親しい友人が現れました。
彼女には、葉書は出していません。うん、かなりな生きづらさを日々抱えているしなあ。
今日2日にはもうひとり。こちらは年賀永久欠礼葉書を「勘違い」してしまったかも。
ただ、読解力も執筆力もきわめてある人のはずですから、
よほど忙しいか、還暦すぎて、少し弱ってきて頭が回らないのか逆に心配しています。

のえの誕生日に出してすぐ、年内に「懺悔の手紙」をよこした親しい友人もいます。
彼女は、大切な人を病死で亡くしています。
以来「自らの人をひらく力」が痩せていったという表現が切なく残っています。

年賀状に、「やっぱり年に一度、思い出してほしくて出します」
とさわやかに書いた人も「永久欠礼」を受け取った人です。

ひとり、のえが亡くなってから、のえの事を一度も話さない友人は、
「ケイコさんからの手紙受け取りました」とメモだけありました。で、で…。

そうそう、これを書き忘れてはなるまいね。
のえのこの歌詞に感動を表明した人が二人。
そういう意識で歌っていた、のえちゃんの生まれた日だからこそ、
「誰もが生まれたことを祝えるように」
という日に制定
…するのにイイって言ってくれた人、一人。

あと年賀状をくださった人の中で、永久欠礼葉書を受け取っているはずの人で、
一切触れていない人が何人も見受けられます。

これは、あらためてのお願いです。
そうでなくとも、大雪でうもれそうな気候が続く昨今、
私をどうかまた「沈黙の壁」で包囲する大作戦というか、
無意識の深層水脈合流大作戦で、
一致した行動などなさらないでくださいよね、(大笑い&号泣)
っということです。

今朝はそれで久々眠れなくなりました。

この文面をちゃーんとに読んだら、判るはずですよね。
それとも、そんな感情、封じ込めるの当たり前だろう、って思っていて、
こんなのおかしいって思うなら言ってくださいな。
遠慮はいらぬ。妙な気遣いはやめてくれ。
ただし、おてやわらかに願います。

以上中間報告ー。2015年1月2日午後5時




悲しみの思索の角には、至福来たる

〔年賀状の永久欠礼宣言〕と共に

12月21日を
『誰もが生まれたことを祝えるよう祈念する日』
として、
米谷恵子が発起人として起草いたします。


足マーク16p


今年2014年元旦に届いた2通の年賀状が私をここまで導きました。1通は、私と私の娘が、娘の亡くなった姉のことで心揺れ涙ながらに電話で話しているのを、大声で無理矢理にやめさせ、その娘にも私にも多大な精神的打撃を与えた、娘の配偶者の名前を、特に考えないで事務的に連ねた賀状で、もう1通は以前岩国英子と二人仕事を親しくしてきた相手が、何の心当たりも断りもなく、不意に私の名前を省いた賀状でした。

娘「のえ」を亡くして以来、6年間、絶え間なく続いた、故人にも遺された者にも敬意を欠いた…血が逆流するような理不尽な体験のあらゆる蓄積をふまえつつ、以後1年近く、時には受け取る側にとって、困惑とも狼藉とも苦痛ともなりうる、年賀状という習慣の功罪を考え尽くしました。

年一回の交信が嬉しい友人がいるのも確かです。だから、受け取るのは拒みません。拒まないどころか、懐かしい顔を思い出したり、ユニークなデザインや文面が楽しみなのは事実です。なんだか、矛盾するようですけど、それはそれなのです。
ただ、家族写真をためらいなく使うのが、孤絶に打ち震えて生きる者の深層に与える心理的負荷くらいは思っていただきたい。
私は英子と二人のツーショットを最近3年ほど賀状に堂々と使いましたが、NHKの番組出演を機に女二人のパートナーシップを誇らかに打ち出せるのを期限つきで祝したまでです。

が、2014年の賀状は、私は返信も含めて保留とし全て控えました。1月半ばには、初の失声症状も体験しました。心身の不調は世間の無理解の蓄積の果てに表れるのです。


私は形式的な「年賀欠礼葉書」が必ずしも胸に落ちません。むしろ、誰がどのような血縁や婚姻関係にあるか、無闇に知らされる感が強く、文面から故人への遺族の痛切な悼みを実感することは多くありません。

日本人ほど、深い喪失体験に立ちすくむ人への寄り添い方を知ろうともしない民族はないというのが、まさにこの国の現実なのです。
「どんな人が、どんな人に対しても、
自然に当たり前に、逃げも隠れもせずに、
どれほどの悲しみであっても、
表現できるようになる日まで…」

私は、私の年賀状の永久欠礼宣言を、ひとつのムーブメントとして提案していきます。
悲嘆を心にしまう自由は、選択肢があってこそです。

たとえどんなに痛みに満ちていても、悲しみにそっと頷き合ったり、亡き人の事でしみじみと泣き笑いをしたりなど、大切な人を悼むという営みを、誰かが頭から禁じたり、恥と罪で打ちひしがれていると断じて、腫れ物のように避け、二度と交信せずに、沈黙の壁で包囲するなど、人間としてはあってはならない事。喪失の連鎖すら生み出す所以です。


それを教えてくれたのは、まさに、亡き娘「うたうたい のえ」でした。
彼女は2004年11月、神戸「ビッグアップル」で、ジョン・レノンの「イマジン」の一部を、自ら自由な日本語に大幅に意訳して、ジャズ演奏をバックにカバーで歌っています。イラク開戦の頃かと思います。のえは当時、大切な友人が自死し、二週間発見されなかった事実に衝撃を受けていました。さて、「イマジン」の歌詞は以下をご覧ください。




この世界中で流れた血は全部一緒な血だ。
どんな殺され方をしようと全部一緒な血だ。
この日本で毎年三万人以上の人が自殺するのも、
そして、流れる血も全部同じだ。
どんな死に方があったか。 どんな殺され方があったか。
違いと言えば、それぐらいのこと。     日本語詞 のえ


私は、娘の「うたうたい のえ」が、44年前に生まれたその日を、
「誰もが生まれたことを祝えるように祈念する日」と定める発起人として、
このムーブメントを、たった一人から、心静かに始めます。

どんな死に方があったか。 どんな殺され方があったか。
違いと言えば、それぐらいのこと。


 にもかかわらず、「自ら」「いのちを断つ」という、追い詰められた末にもう明日はとても生きてはいけないと逝った者の、誰にもかわれない、かけがえのない人生が、すべてなかったものとして闇に葬り去られる、原始社会のようなこのタブーと偏見に満ちた日本社会に、私はこれを機にはっきりと、よりいっそうの NO! を突きつけたいと思っています。

のえは、この歌をこう歌ったときから「自殺者」こそが、この日本社会の、「見えない戦争」の犠牲者であると悟っていたのです。
私は魂を賭けて、それに連なろうと立ち上がります。  米谷恵子

 「生と死を思う辺境の森」構想 提唱者  2014年12月21日
    「うたうたい のえ」の生誕44年のその日に。
    今年は冬至は22日ですが、ほぼ冬至生まれなんです。

全国規模の「ちいさな集い 悲しみにSotto虹」代表
LGBTも発達障害関連も「自死」でノコサレタ人の参加歓迎。
偶数月第二日曜午後2時から4時半に福井県鯖江市の専光寺で開催中。
奇数月はSotto虹ささえあい塾も計画中。
「ちいさな集い」のお知らせの詳細掲載の、リーフレットお届けできます。全国に広めてくださいね。

 
 ℡090-2093-1739 米谷恵子 昼以降
     
こんな提案はいかが? 
★年賀欠礼ムーブメントに加わりませんか。広く活用できるような、ひな形となる案を募集中。近日中にブログ「ベロ亭日記」に、皆さんが活用できるひな形をPDFファイルで発表したいものです。文案作りにぜひ知恵を貸してね。
★ムーブメントとして説得力や機知に飛んだ草案にするため色々なご意見、この文面の印象、ここは抵抗を持たれるのではないか、とか、より理解を深めるようにするにはこうしたら…など伺えれば嬉しいです。
★ふくらませて、幅広く応用の効く、めちゃ面白いひな形にしたい。「「忘年会」と「おめでとう」で、すべて悪政もリセットしてなかったことにする…。そういう社会と繋がっている現実」という指摘も興味深いです。
★たとえば、「年賀永久欠礼」はなかなか無理でも、「12月21日を『誰もが生まれたことを祝えるよう祈念する日』」として広めるだけなら、ОKもありかな、とか。人間の感情として「悲しみはあってもいいもの」として、お互いに認め合い、心にかけ、各々の喜怒哀楽の温度差に、少しでも想像力を働かせられるようになるのが芯からの目的です。



★この文面を書き上げたのは、2014年12月17日の深夜のことです。
 パキスタンで、武装勢力に学校が襲われ、140人余りの子どもたちが、
 犠牲になった記事が、朝、新聞の一面をおおっていました。
 襲う側も襲われる側も、なぜ、という理不尽な問いから、
 出発しなければならない現実が世界中にあることを見据えながら、
 この私のささやかな宣言が、日本の現実を動かしていくことを祈りつつ…。

| 自死へのタブーを見抜く | 00:44 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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2日間の結果的「自主企画」スタディツアーとDJのピンチヒッターの隙間を吹く風(翌日加筆)

コメント欄に素直な思いの書き込み歓

興味深く? 読んだ証しの拍手も歓迎


タイトルの末尾は「隙間を吹く風」。

でも、この日々と並行して、それこそ、その前日の福井市行きから、
風ならぬ、ヒデコの風邪は長引いて、いまだにつらがっています。
本当に今まで動きに動いてきたのだと思います。
孫が帰った日に陶芸教室、そしてそのまま住職と私が話して帰宅深夜。
その頃から、彼女は限界だったんだとあらためて思います。
何もかも、ついでに済ましてしまおう、という、
時間的空間的ビンボー根性は捨てないと、私たち二人の心身は、
いや、ヒデコの心身はもはや持たないのかも。

で、昨日だって夜遅く帰宅早々、山の洗い物をしたりご飯を作ったり、
皆様にメールで「やさしくしなくちゃ」と書いたので、
「やさしくして」コールが五人からありましたしね。

今朝は今朝で、ぎりぎりまで判断を伸ばすと言っていたDJをすでに断ったあと、
ゲストも決まっているし、ヒデコちゃんがそこそこ最低限出るのを埋めるくらいなら、
とも思っていたので、いっそ私がやりきろうとピンチヒッターを決めました。
間もなく、1月13日1時15分から2時半まで再放送、
それから日曜日18日は、午後二時半からまた再放送、
四曲のラテンアメリカの曲とともに、キーワードは「旅」と「森」。
まあ人生を託した言葉です。
後半は大サービスといつも本番でリハーサルの朗読二つもありますよー。


前置き長くなったなあ。

風邪のヒデコは今寝ようとしていて、私はなんとも言えないすきま風を、
それもこころに吹くすきま風を相手になにやら書きつけようとしています。

おととい、神戸、アートビレッジシアター。
映画「わたしたちに許された特別な時間の終わり」。

昨日は、朝早く神戸を出て大阪の北の千里中央で、
あゆみあいネットがしたエンカウンターグループの形で持たれた、
「自死を語り合い聞き合う場」というのに、
午前十時前から夕方5時まで参加しました。

神戸では、監督のトークも聞けたし、終了後の語り合いの場にも参加しました。
それなり以上に話せました。実りやら発見もありました。
大阪の北では、本来のファシリテーターのあるべき姿を見たような、
そんな気がするОさんの存在が大きかったようにも思います。
立場をこえて、このテーマを語り合い聴き合う場には欠かせない存在。
しかもこの課題ですから、一人一人の立場になって、
方向付けをいい意味で促す、けっしてそれ以上でもなく以下でもない、
というのはなかなか人間力もある種の技術も必要だなあとも思いました。
でも、このかんの、のえの本の執筆、その前段階の取材できたえたことと、
かなりかさなる事実に面白い発見もありました。
本の登場人物の誰もかもと等距離にはなれないけれど、
できる限り均衡を保つノンフィクションのありかたを探ってきたことと、
かさなる部分なども、若干43歳の…はっきり言って十歳は上に見える…
彼と、帰路も含めて偶然話せる結果になったのは良かったことでした。



しかしながら、良い成果もありながらも、
私の中では風が吹くのです。

さっき神戸の映画の監督と少し話して、
なんとも言えない感覚を味わったのも働いていると判っているつもりです。

と、ここまで記したら、珍しく私宛の電話あり、一時間、
この映画のことで話しました。
「わたしたちに許された…」は、
三人の若者たちの物語です。
途中でミュージシャンの一人が自死したために、
虚実ないまぜた造りをせざるをえない要素がつよくなったようにも見えます。

カラと今、話せたおかげでずいぶんとあの映画についての視点を確認できた気がします。
つまり…。
彼らが男の子三人のグループだったことはやむないとして、
やはり「男の子」の視点を離れられない、そんなことに集約する確認でした。

ヒデコがまだ見ていないのでネタバレにならないようにしなくちゃならないし、
何はともあれ、自死した親友のミュージシャンの映画を最後まで作り上げることを、
まっとうした、おそらくまだ二十代だろう監督に、
私は監督のトークの席で、まず「敬意」を表しました。
ねぎらうべきテーマを扱っていることをつよく意識したからです。
ただ、友達の立場だからこうなんだとか、
これができるんだ、と思うことはやや複雑というか微妙でした。

が、これ以上書くのはやめようかな。

監督を囲んだ語り合いには、
ある年配のミュージシャンがいて、
そのミュージシャンを素材にして書こうとしている、
かつて一度だけ会っている物書きの男の人もいて、
彼らが、真摯に「自死に向き合って」いる訳ではない様子に、
苛立ちました。これ最初の風かも。
映画の内容もあるけれど、表現されたものはテーマがテーマだから、
いろいろ言えることもあるけれど、とりあえず風にはなりません。

場をとっていた年配のミュージシャンを切り上げさせたのは私でした。
それから、監督が「仕上げる」という苦悩に向き合ったシーンにはもう一度、
敬意というか、だから敬意を表明できるんだということを告げました。

ところがです。
その態度のでかいミュージシャンの男性は、
「君が映画を撮っていたとかそういうせいでは全くないから、
そんなことを気にすることはないよー」みたいな感じで、
監督にどーんと言ったのは、私は「違う」と思いました。

「やむなかった」と至るまでに、彼だって作品完成の中で苦悩しています。
そこの部分を言わずして、どこからお前ものを言っているんだ、
そう思います。
でも、さっきの電話では、あの言い方は抵抗あったのでは、
という私の言い方に、「その辺は克服していますから」と返ってきて、
少しかみあわない感じ、
その上、あのミュージシャンにそう言われて嬉しかったとも言ったのです。
「嬉しい」気持ちも私は判るのです。
でもね。そんなのその人は忘れるよ。
彼がもっぱら場をとってのたまわっているのは、
どうも同じ年配のある芸人の自死のようでした。
でも、なんか違うんだな。
男はサー。向き合うのへたなこと多いよ。
ハッタリとか、弱みを見せないとか、色々「奴隷状態」だから大変なんだ。
これはカラがさっき言った言葉です。
映画の内容絡みなので今はここまでだけ書いておきます。


のえ亡き後の章立て数章を、一章にしぼった話は、
物書きという男は全くわからなかったね。
「亡くなってからが大事なんじゃないですか」。
ばっかやろう。
大事なことは大事だけれど、まだ世の中そこまで成熟していない、
単に字数の問題なんかじゃないんだよ。
それに、のえの生きた事実、その上での生き死に、
そこに込めればいいってことなんでわからないんだよー。

ミュージシャンはもっと無神経。というかおばかさん。
お、と、さん、をつけるのがもったいないような物言い。
「ところで、何を書かれているんですか」とのたまわった。
答えるのもバカバカしい、
人は一人で生まれる訳でも、たった一人で消えるだけではないことも、
彼は判っていないんだと確信しました。
「確かお母さんという人が、一体なにすんの」って発想ですよ。
まあ、まだあまり説明していない時だったけれど、
これ聞けて、世間の男の、しかもミュージシャンという危ない人たちの、
程度、レベルよくわかりました。
「お母さんっていうの、やめてくんないかな。
子どもたちも言わないし、誰のことか自分でも判らないし」
と私はばしっと待ったをかけた瞬間もありました。

それから、このミュージシャンの一人がたりになったときは、
やむなく、のえが新宿の路上ミュージシャンとして二番手だったことを、
きちんと伝えて、黙らせました。
私は、映画とかみあわせながら、のえのことも少し話しました。


さて、昨日のエンカウンターグループ。

こころに吹く風だけ書くにとどめますね。
ファシリテーターはなかなかの人だったし、
まあ謎もあったけれど、いろいろ最後まで話せたし、
それはそれ。

だけれど、不審な感じが残ったことがいくつかあります。

電話相談員という女性。
私が最初語りだしたとき、
「よく聞こえない」と何度か言いました。
語り始めは、私の声は低い。
低い声でなければ語れないこともある。
だから、椅子を近づけました。

それから、黙っている彼女にやがて私は、
私のことをそれだけ聞こうとしたあなたが気にかかる、
と言いました。
なぜ、相談員をしているか、私が次々と訪ねて、
彼女がある友人に相談にのってもらえて、
助けられた事実まで行き着きました。
そのさりげない詰め方がファシリテーターの目にとまったようでした。

昼休みに、「あれ、やってください」って言われましたから。

でも、この相談員の女性はほぼあとはしゃべらなかった。

国際ビーフレンダーズのことで、私が語ったことが、
「そこまで言ったらデフォルメだ」と言った。
その理由を聞いたけれど、これは私語で終わり、
答えは答えになっていなかった。
昨夜、帰って西原由記子さんの本で確認したくらいです。

なにか、私に敵意ほとではないけれど、
好感は最後までもってくれなかったと思います。

もうひとり、ファシリテーターがОさんだという理由だけで来たアラフォーの男性。
うむ、困りましたな。
「のえルーム」の意味あいなど説明したあとにまた説明させられた。
「のえ」ってなんですか、と言われた。何度か説明したあと。
「誰かキャッチしていませんか」に誰もキャッチしていないのか、
なぜか答えてくれなかった。
こういうの、繰り返すのはいやなんだな。
デリカシーないよなー、って表情をわずかに見せて、
突き放した答え方をしました。

それから、
午後になって、私以外に「自死」でノコサレタ立場の女性が二人いると判ったこと。
これもやや出し抜き。
午前中に一人一人の立場くらいは知っておきたかった。
自由にあるがままに話しあうったって、
人を「ああ、私だけがそういう立場なんだ」と不安にさせちゃあいけないじゃないか。
覚悟までしたんだぜ。


それからそれから。

父親に死なれた母親の取り扱いに困り果てている話と、
自死とは関わりないけれど、
エンカウンターが好きだから来たという高齢者のおばちゃんが、
自分がどれほど母親に人生を奪われたか話が続いたときはまいりました。

かなり腹はくくってましたよ。
なにしろ平たいエンカウンターの場。

でもね。高齢者のおばちゃんの垂れ流し的言動が限界にきて、
今日のこのグループについた
「自死について語り合い聴き合う」はどういうことなんですか。
家族のことばっかり言うことになっちゃいませんか。
三年前にお母さんが亡くなったから、母の問題はもういいといいながら、
じゃあどういうことなんですか。
私は壁際に撤退していましたが、そこからはっきりと物申しました。

それから、
このタイトルゆえに、特急料金をジパングではらって、
いくらいくらかけてエネルギーも使ってここまで来たんですよ、
とも言いました。

その高齢者のおばちゃん、そのあとにへっこんで、
ファシリテーターと私で最後の最後には、
介抱して、私は抱擁して、まあ立ち直っていただいたのですが。


この、私が「この会の目的は」とやや明確化を求めたとき、
「こうは言っていても、誰が自死とどう関わっているかわからないかもしれないし」
というファシリテーターの語りは、確かにそうだけれど、
私はあれはあれでそう言わずにはすまなかった。

母親問題ばかりに集中しているのも耐えられなかったから、
家族のことに集約ばかりしてー、とも言った。

これについて、
Оさんの作る場だから来たという男性は、
もう少し時間がたってから、
「じゃあ、どうして家族の問題ばっかりでは困るのか言ってくれなければ判らない。
問われるだけでは判りません。説明してくれなければ」
と言ったんですよ。
私はすかさず答えました。
「ええっ、問われることってないんですか。問われて考えることってないんですか」。

あとから思いました。
あああ、私、ずいぶん説明責任を負ってきたよなあって。
本を仕上げるプロセスでも、
この数年あまり、どれだけ説明に説明をかさねてきたか、
問いかけでは足りず、皆様、ゼロから説明しないと考えられない。

でも、これを言った男性はもしかしたら四十代半ばくらい。

終わってから言いました。彼にね。笑いながら。
「問いかけだけされるって経験を初めてした人に、私も初めて会いましたよ」。
痛烈な内心の「ばっかやろう」。


これで私の中の風はほぼ吹きすぎたと見なしてもいいかもしれません。

あとは、内容となって話され、消化されたり、
対象化されたり、吟味されたり、俎上にあがったりしたので、
それはそれでまた書ければ書きます。


最初に私が自戒して皆の前で言ったこと。
「今日は場を取らないようにしようと決心して来たんです。」

最初に私が皆に望んだこと。
「お願いですから、自死に向き合っている人間の語りを、
上から押しつぶしたり、かぶせたりする別の語りをとりあえず、
控えていただきたいと思います。もう語りたくなくなりますから」

前者は、ファシリテーターのたくみな「技術」と人間力みたいなもので、
私が迷路に踏み込みそうになると、
さりげない「待った」がかかりました。
けっしていやな感じではないのが不思議。
あれは身につけたいなあ。

でも、あのあとに私が言いたいことがすぐあったのに、
という数回も含まれています。

地元で自殺対策から締め出された一歩手前の体験しか話せなかった。
もう一つなんかあったけな。

そうだ、もうひとつは、
大学の講演とか、トークショーのときに、
性的少数派の課題とセットでする時間のなさ、
それから講演後の質疑や、お茶の時間で出た、
「ねぎらわれる」のと反対の疲れ果て、
ときに傷つけられる対応について、
まったく話せなかったんだっけ。

それから、
家族フォビアのこと、後半私は性的少数派が奪われているものがある前提で、
話したのですが、
長居の野宿者のテント村の仲間だった若い連中の中で、
「のえルーム」に反対する人たちがいたという意味が伝わらなくて往生しました。

彼らは擬似家族を絶対化したかった。

例の男の人は言いました。明瞭でいいけれど、それでもそうは言われたくないこと。
「つまり、親として皆さんから信用されていなかったんですね」。
「いいえ、彼らは親のすべて、既成の家族のすべてを否定していましたから」
この人、よほど、家族とのあつれきがないのかしらん、と、
ヒデコに話したら言っていました。

いっそニューヨークの野宿者のテント村だったら、
のえも認知の歪みをより激しくしないですんだかも、
という話もなかなか伝わらなかった。

そんなの当たり前でしょう。
野宿者のなかにもゲイもレズビアンも当たり前にいるんですから。

そう答えました。

ある種、小出しと言えば小出しだけれど、
ずいぶんと語ったと言えば語りましたね。

そして、今晩のところは、
良いことはさしおいて、心に残るやや冷たい風を吹き飛ばす作業を済ませました。


ケイコ

| 自死へのタブーを見抜く | 00:30 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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