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映画My old lady(パリ第三区の遺産相続人)が頭から離れない …繊細に人生の深淵からたちあがる物語の機微に涙が溢れつづけた… お宝映画の殿堂入り…世代をこえ秘密が人を傷つけるとき。

映画My old lady(パリ第三区の遺産相続人)が頭から離れない
繊細に人生の深淵からたちあがる物語の機微に涙が溢れつづけた
お宝映画の殿堂入り…世代をこえ秘密が人を傷つけるとき。
またもメトロ劇場へ。二人の友達はこの映画館なんだもんね。
夜のコンサートの招待チケットもゲット、急きょ気になる映画も観た訳で…。

お気に入りの映画、はい、筆頭は『チョコレートドーナツ』、ゲイとダウン症の少年の出会いの物語。いやはや、一回目の神戸は号泣したなあ。身終わって英子と抱き合った。全国でロードショーになったから観た人も多かろうな。英子は三回、私は二回観た『チョコレートドーナツ』。二人で最後に観たのは福井の映画館で、「うるさい」とか「しらける」とか、待ち伏せしてすごまれた。泣きっぱなしだったからって、そこまでするかーって、福井人、つくづく怖いって思った。「映画にすぎないだろう」って言いたげでもある。

そして、2012年の国際レズビアン&ゲイ映画祭でゲストトークをした『夕立ちの道』。
こちらは、70代のレズビアンカップルの話。全米でまだ同性婚が認められていない頃、一人が命が危うくなってからカナダに「結婚」のために出向くロードムービー。いかれたお兄ちゃんを乗せたのが運のつき、彼は二人をささえる羽目にもなる。でも、なかなかいい感じだ。元気なばあちゃんのほうは、まあ口汚いし男っぽくてさ。どうしてここまで「結婚」しないできたか、そのからみでカップルが語り合うその奥行き。若い人に一体伝わったのだろうか。こちらは爆笑と号泣同時で、めちゃくちゃ忙しかった。

なんで、今日観た映画の前にこれを記すんだろう。上の二本もきちんと映画評書かなきゃいけないおもみある映画なのにね。だってさ、今日はめちゃくちゃ異性愛者の物語だったからさ。言い訳じゃないよ。ただね、英子ちゃんは「この映画、性的マイノリティの人たちには判らないんじゃないかな。いや、恵子ちゃんみたいな人しか判らないよ。日本では。というか、日本で人の見えない裏街道をきちんと歩いている人にしか判らない」とも。

セリフの一言一言が心をさす。人生の深淵を映す。
なんといっても、My old ladyの表情がいい。なんたって92歳さ。
父親の遺した遺産であるパリのアバルトメンを売却しようとしてアメリカからやってきた初老…といってもまだ56歳…の主人公の男性が、そこに見るのは、まさに長年住んできたそのOld lady だった訳で。

とはいえ、この物語については簡単に触れられない。ネタばれになるのがいやなだけではなく、私にはここから始まる、そのアメリカから来た男と、Old ladyとその娘の物語の中身そのものが、触れられないほど痛くしみるからなのかもしれない。

誰かが誰かを「いとおしく愛する」ということ。
それを貫くということ。
それが次世代までも及ぼす、人生の大きすぎる宿題。
「秘密」にされたある事実は、良からんとそうされた事実だ。

この映画には、一人の人間の自殺も影を投げている。
その周辺が痛すぎると言うのが痛すぎるほど痛いのである。

英子に言ったものだった。福井市へと車を走らせながら。
「今日は映画らしい映画を観にいくよー。楽しみなんだあ。」
そう、まさに映画の真髄をゆく映画だったよ。
このストーリーにレズビアンマザーやらを絡ませたらどんなふうに書けるかなあ。
よくよく自分の人生にも照らしてみる。
いやはや、全ての登場人物が自分でもあるような…。
しかしやはり、英子と一致したように、まさに二人とも、
My old lady にいちばん惚れ込んだね。
あの揺るぎなさ。短い言葉で、人生の本質を語るそれだけのことで。

もう一度観たい。すべてのせりふをチェックしたい。
全部の意味を徹底的に自分の胸にたたきこみたい。
まあ、ほとんど入っているけどね。

もう一度観たかったのは「人生ここにあり!…原題・やればできる」
イタリアの精神科病棟をなくす動きから生まれたフィクション。

最近観てずっとレビューを書きたいと思いつつ温めている間に、
次から次へと自分の人生の課題に押しまくられて…。
「ふたつの名前を持つ少年」。「顔のないヒトラーたち」。
はい、どちらもナチスドイツ関連です。よかったよ。
邦画では「恋人たち」ね。それから「ある精肉店の話」。

でもね、大事な大事なこういう映画をしのいで、私は今日の映画のような映画が好き。
それは私の本質が詩人だからなのかもしれない。
それは私が希求しつづけているのが、そんな人生の機微、
壮絶な亀裂とその絶妙な和解、だからなのかもしれない。

Old lady のせりふで今晩の投稿はしめくくろうかな。

歯に衣きせない彼女の物言いに、56歳の男性。
「いい年をして言葉にオブラートも着せないのか」。
「この年になったら、オブラートを着せてなんかいられないのよ。」
その前に、彼は彼女に口のききかたを怒られたお返しだったんだけど、見事にやられたという訳だ。

もうひとつ。
やはり彼とのやりとりだったね、娘とはこんな会話ないものな。
彼の物言いで彼女が怒りにとらわれたとき。
「この年になると、怒るとからだに来るのよ」。

92歳にならないと言えないのかな。
64歳と68歳では、これは汎用性はないのかな。
いいや、これから使わせていただこうではないか。
いやいや、もう使っているよね。
ただし、後者は意外とSOTTO虹の読者はお気づきでないかもしれない。

今日の映画に欠かせなかった要素。
ユーモアとエスプリ。
やっぱ、英語で語られる…Old ladyもイギリス人だしね…のがほとんどとは言え、
ふっと肩の力が抜けるように、あちこちに散りばめられたユーモア。
パリの風景のなかで、私、実はへらへらずいぶんと笑いました。
だって、みんな、かなりせこいし、人間臭いし、ずるいし、
かわいいから。

泣きっぱなしの合間に、がはは、笑ってる後ろの「お姉さん」何者?  って思われていたかもしれませんね。
それに隣りの人は、どういう人かな、とかさ。

そのあとは、思いがけない贈り物のチケットで、
ピアノソロとピアノ弦楽五重奏を楽しみました。
初めて、福井の「ハーモニーホール」なるものに参りました。

「うたうたい のえ」とはかけ離れた音楽人生をやっている人で溢れていたわ。でもね。
チェロの女性がボーイッシュで、「彼」って言いたくなるほどの格好で、はい、終わってから話しましたよ。
ステージで見てから、英子とぶつぶつ言っていたんです。
で、演奏もものすごくカッコよくてさ。表情たっぷりの自由さ。
そして、他の演奏者にたえずアンテナを立てている素振りがうかがえる。
思わず、英子「コンサートマスターみたいでしたよ」と言ったら、「そんなー」と言いつつ、嬉しそうに笑っていました。
私は「ジャンル忘れるほどの表情と演奏でした。」
「いやあ、それじゃあ困るんだけどお」。
「こんな言い方じゃあ、褒めたことにならないのかなあ。」
「いえいえ嬉しいです。」
ははーん。

つらい日々に差した一筋の日差し。
そんな一日。

それでも、人生の宿題は忘れない。
それでも、あなたたちの「秘密」を忘れない。

のえとともに。
Our old lady!

恵子   2016年2月20日 夜3時

★アワ・オールド・レディの綴り違っているかな。
スペイン語しか書けないよ。英語綴り難しすぎ。
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| 映画・ドラマ・本より | 23:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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≪生きる意味を求めて≫フランクル著から、2章の「意味への意思」からスヌーピーの一節と、同性パートナー証明を秤にかけてみた


≪生きる意味を求めて≫フランクル著から、
2章の「意味への意思」から、
スヌーピーの一節と、同性パートナー証明を秤にかけてみた

すぐに引用。40ページより。
「日常生活の中での手段と意味の違いについては、私たちはすでによく知っている。 もし、知らなければ、スヌーピー漫画のこんなおかしさは理解できないだろう。
 スヌーピーが「人生は無意味だ。人生は空虚だ」とブツブツ文句を言っている。そこへチャーリー・ブラウンがお碗に山盛りのドッグ・フードを抱えてやってくる。即座にスヌーピーが叫ぶ。
 「ああ、意味でいっぱいだ!」
 何がおかしいのかと言えば、手段と意味を取り違えているところがおかしいのである。
つまり、確かに食物は生きていくための必要条件である、
 しかし、人生に意味を付与してくれる十分条件、無意味感や空虚感を取り除いてくれる十分条件ではないのである。
 マズローの、高次の欲求と低次の欲求を区別する考え方に欠けているのは、低次の欲求が「満たされない」時こそ、むしろ、意味への意志といった高次の欲求が差し迫ったものになることがあるにもかかわらず、そのことへの考慮がなされていない点である。

以上が、フランクルの著書(のえのコレクションより)からの引用。

さて、ドッグフードを、婚姻届や、入籍とやらや、
それからそれから、渋谷はあやしいけれど、
世田谷の同性パートナー証明、
などなどで、秤にかけてみたらどういうことになるかしらね。

私たち二人は、たとえば、のえとカラは私が産みの親、
他の三人は英子が産みの親、
ということで、実のところはいくつもの不都合をくぐりぬけ、
ぬけがけして生きてきた。
ある娘が結婚した男性の父親に、さっさと「義理の父としては」と出し抜かれて、その矢先、京都の橋の下で、地団太踏んで悔し泣きをしたこともある。
向こうは、その娘…英子の産んだ…を私の娘とは思わずにだしぬいたのである。

まだまだ、挙げればきりはない。

収入にかかわる手続きやら、いろいろな権利にかかわる事柄で、
どれだけ損をしてきたか、
単に金額では換算できないほどの損失はあろう。

ただ、人生に意味は、それこそスヌーピーのドックフードが山盛りどころか、てんこもりで溢れるばかりにあるのである。

いやはや、
最近ある若者に、
「この県には、私たちの「豊かさ」が判る人がいない」
とつぶやいた折、ただただこう繰り返された。
「ゆたかさ…ゆたかさ…ゆたかさ…」。

そんな語彙で、私たちの人生の意味を考えてみたこともなかったのか。

少し横道にそれるけれど、あるとき、のえの天性を称して、
「あの子は野性的でねえ。発達というか自閉としての特性って、
野性的なものを備えているものねえ」。
そう言ったとき、ある自閉症スペクトラムに属する青年がつぶやいた。
まるで、今回と同じように。
「やせいてき…やせいてき…やせいてき」。

私にとって言葉をたどるとは、徹底的に人生の意味をたどるということだ。
そういう点で、フランクルはけっして新しくはない。

ナチスの強制収容所体験者の記録としては、
私はプリーモ・レイビィのほうが好ましく思えている。
「アウシュビッツは終わらない」。
「いまでなければいつ」。
「周期律」。
どれも好きな作品だ。

ただ、のえの遺したこのフランクルの著書を手にしながら、
ああ、なーんだ、そうかそうかと思ったのである。

「みんな、人生の意味が判らなくなって、つかみそこねて、
入籍だのー、結婚証明だのー、
はたまた、同性パートナーシップ証明だのー、
にー、しがみつきたくなるんだなー」
と。

スヌーピーのように、
ドックフードと同じように、
ウェディングドレスへと、タキシードへと、
意味なき手段へと、
取り違えてしまうんだな、と。

こんなことはとっくに判ってはいたけれど、
すうっと、とことん判ってしまったみたいだ。

ははーん、盛り沢山のドックフードは、
意味すら落してしまいかねない、のだと。

そして、どうして、私は、のえと共に生きた、
ベロ亭とその時代を、
ひとりのうたうたいの人生を、
ここまで言葉に刻みつけてきたか、を、
一気に了解する。

今さらながらではあるものの。
もうとっくに判ってはいたものの。

スヌーピーや、
ディズニーランドが大好きな、
そんな次世代の性的マイノリティの喧噪をしり目に、
なるほど、なんて、ばかみたいに、
今さらながら、納得する。

手段よ。
手段よ。

意味をすりぬけさせませんように。
意味を落としませんように。

パートナーシップ証明をもらったとしても、
なにも人生に意味をもたらさないと気づいたら、
「死ぬ」ことだってありうるのだと。

だって、異性愛者はすでに証明しているじゃないか。

ただ、それだけのことを。

自由を標榜した学園を出た、
そんな子どもが、
生きる意味を見失って、
そんなことすら起きているじゃないか。

権利も自由も買えはしない。
手段へと替わるはずもない。

恵子

| 映画・ドラマ・本より | 18:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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自閉症裁判…レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」一気に読破! ……あいつぐ「自閉症スペクトラム」特性(障害)の持ち主からの被害のはてに……10時間後に加筆!!


自閉症裁判…レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」一気に読破!
    あいつぐ「自閉症スペクトラム」特性(障害)の持ち主からの被害のはてに……10時間後に加筆!!

 九月二十二日の宝物のような集いの報告が書けないでいるのは、参加者の事後の印象などの声が、それぞれが多忙で揃わなかったのもあるが、実は、この集いの直前と直後に、がつんと来るような衝撃を受けたのもある。
 注意深い読者には周知だろうが、二十二日の参加申し込みについては、あえてハードルを設けた。それを理解しているかと見えた一人から、集いまであと半時間というタイミングで、いかに都合が悪くて来られないか、というメールが来た。スーパーKYメールだった。本人にその気がないのは判るが、上から目線の自分の状況が派手に書かれていて、参加するどころではない、といった調子が馬鹿丁寧、慇懃無礼に綴られていた。
 集いの前に、ミニコラボをしたっていい、とひととき思ったりもした相手だったが、その人は、二度にわたる機を逃し、しかもハードルにきちんと向き合うこともなかった。わあっ、来たカー、自分のなかだけでくるくる回転してる…、こちらの立場への想像力などかけらもないと言っていい。いや、かけらくらいはあったと見なすべきか。むろん、いまだつながっていたいとも思う人である。
 一方、集いの翌日、集いの参加者の一人が発した、別件の一言が、私たち二人にまたも襲いかかった。それは離れて暮らすわが身内にも及び、解決まで時間を要した。あらぬ、あってはならない一言を発した一人のケアとフォローまでも、私と英子は続けない訳にはいかなかった。

 そのプロセスで、自閉症スペクトラム障害の倫理的課題、にかかわる文面を二度にわたって読み、そのはてに、読まない、読めないと禁忌にしていた「自閉症裁判」の本を取り寄せ、今日ユーパックで届いたその手で読み始め、そのまま読破した。最後の二十頁あたりに及んで、声をあげて泣いた。今日という日に読むべくして読んだ、と思った。

 軽度の知的障害を伴う自閉症で高等養護学校を卒業したにもかかわらず、「中卒の冷酷な通り魔」と当初、マスコミが扇情的に実名報道した、あの事件の背景を、本人の生い立ち、公判の経緯、関係者のインタビューとともに浮き彫りにした、力作ノンフィクションである。
 三年ほど頁を開けずにいた「自殺の九割は他殺である」という監察医が書いた本とは、ハードルの高さの中身が全く違う。
 おそらく、この「自閉症裁判」については、のえが生きていた頃にすでに知っていたと思う。そして、レビューのいくつかを読み、とても手に取れないと判断した。
 レビューのいくつかには、この兄を、そして同じく知的障害を持つ父を、ひたすら支え続けた妹が末期ガンになり、兄の犯罪の発覚後、ようやく支援の手が伸びて、人々に寄り添われる最後の日々に触れたものもある。そんなレビューにおける、彼女への同情は、なんともやりきれなく心をしめつけた。
 弁護団のみならず、支援者のひとりには、養護学校時代の先生も登場する。テレビでこの事件が実名報道された瞬間、頭がまっしろになり、地面がゆらいだという彼女。以後、どうしてここに至るまで、どうにもならなかったのか、という内なる問いにも、本人とのやりとりも含めて向き合っていく。
 つけ加えれば、養護学校を出た生徒たちで、行方がまったく判らなくなる生徒たちが三割ほどいるという状況すらある。

 一方、私は、今日まで、自閉症スペクトラム障害による生きづらさが、自死にまで追いやられる方向をおおきな課題として、思索の限りをつくした。
 執筆もきわめた。
 自死と犯罪という、正反対のベクトルの生きづらさには手をつけなかった。

 実は、このスペクトラムのどこかに確かに属する人たちからの被害は、去年から間をおかず続いている。今回の二人はそれなり自覚してもいる人たちだが、それでこの程度だから、自覚もしておらず、文化人やアーティスト気どりだったり、あれこれの聖職者だったり、学位が絶対基準の研究者などとなると、本人がいかに相手を傷つけたか意識できないだけに、たちが悪い。
 なまじっか、知的能力に問題がないと、本人が自分の核にある部分と四重くらいの翻訳をして、かろうじて立派な人を演じていたりもするので、実のところは、重篤な障害も、私ぐらいにしか「見えない」から、見える私としては歯ぎしりする思いにもなる。そんな思いにもなりながら、被害をふりはらいつつ、相手をもフォローし、謝らない相手にすら時に謝罪し、助け、慰留し、もはや私は疲れ果てている。
 疲れ果ててもなお、このスペクトラムに属する人たちへの、どうにもならない、いとしさのほどは変わらない。
 そのことだけは、記しておきたい。

 そのはてに手に取った「自閉症裁判」。タブーをしのいで一気読みした今日。のえの命日まであと三日で七年目という日。

 そして、私はもうひとつのスペクトラムが存在していることをもかみしめている。
 ほとんどの日本人が、死に、とりわけ自死に、そうしてノコサレタ人に、いかほどの想像力の、コミュニケーションの、社会性の障害があるかを、かみしめている。
 私を、覚悟の寛容で魂をひもとくファシリテートへと導いてくれたのは、これらの喜怒哀楽の、とてつもない温度差であり、ばかばかしいほどの立場の違いへの、あってはならないはずの無理解に、避けられようもなく数限りなくさらされたことである。
 そこには、とりわけ性的少数派の半数が、正真正銘も含む自閉症スペクトラム(的)特性ないしは、障害を、無自覚なまま歴然とひっさげて存在していることもある。

 今日、読破した本の著者、佐藤幹夫氏は、もう一冊「自閉症裁判」にかかわる本を出している。こちらも近日中に購入するだろうが、また震える思いで読むことができるだろうか。そんな思いもある。
 そして、2005年に起きた、別の事件で三人をあやめた、同じ障害を持つ青年の裁判において、犯罪をおかした自閉症スペクトラム障害を持つ者を、反省に導けない場合は、ついに「贖罪なき更生」へと道づくりをする以外にない、というところまで展開しているらしいのだ。判らないものは判らない、そのうえでどう、重大な罪を犯した者をも「生かす」のか、という立て方なのだろう。実に興味深い。
 今日読んだこの本のおもみには、書き手が、被害者の両親、祖父母、叔父叔母にも根気よく取材を求め、矛盾に満ちた立場ながらも、本心をも、なんとかして耳傾けるという態度を貫いたことも大きかろう。
 バランスに欠いてはならない、という自戒とも言うべきものが、読後にずしんと響いてくる仕上がりである。

 他者の痛み、傷、被害に必要な想像と思いを巡らすというのは、この時代においては、「自閉症スペクトラム障害」にある人だけの課題では、もはやない。
 無前提に、ヒトサマの人生に共感したり、敬意を持ち、それを表明したり、ということは、今や根こそぎ損なわれてしまった時代ではないのか。
 日本という社会そのものの存続の危機ですらある、と思う。

 罪ありき。
 そして、罪の意識の自覚へと導こうとする、支援者や弁護団の丁寧なプロセスをもムゲにする、警察、検察、裁判所、がこぞって声をひとつにする、罪ありき、ゆえに、厳罰こそありき。
 本人は、無期懲役の意味もおもみも理解していないというのにだ…。
 そして、検察の筋書きを変えうる、目撃証言がいくつかあるというのにだ。
 また、公判の後半で、彼が改悛の情ともいうべき言葉を、つたなかろうと杓子定規であろうと、言い始めた事実である。
 私はあら、ちゃんとに言っているじゃないか、とも思った。と同時に、たしかに一般には、あまりにも幼く、舌足らずでみずからの罪に向き合いきっているとは言えないと映るだろうと、読み進めるうちに了解。
 私の側が、この特性に慣れているために、甘い判断をしたとは思わない。
 が、実際どれだけ罪のおもさが判っていたとも言い難い。

 いや、もうひとつ何よりも重要なことを書かねばならないだろう。
 判決が出たあとの、肉親の反応。弁護士が訊いた時の弟の反応である。
「なにかありますか」「いいえ、なにもありません。」
 支援者たちにガンの末期状態で、温泉行きやら夢を実現させてもらっている途中に、判決前、小菅拘置所近くを通りかかったときの妹。
 「いらっしゃるんだし、寄りますか」。聞こえないふうにしてひとことの返答もなし。
 つまり、「通り魔」となった彼は、無期判決のあとも、孤独というよりも、肉親からの断絶も含む、孤絶というべき位置にいつづけているのだ。
 それが軽度の知的障害を伴う、ある自閉症の青年のあまりにも苛酷でリアルな現実なのである。


 その他のリアリティは、こころが傷んでまだ触れられない。
 文庫にもなっているから、関心のある人はぜひ手にとってほしい書物である。
 結びにひとつ。
 被害者の父親が、はじめて公判で加害者を見たときの印象を語った言葉である。加害者は、背が高く体格もいいのだが…。
 「意外でした。繊細な弱々しい印象でした…」。

  2015年10月3日   米谷恵子(文責)

| 映画・ドラマ・本より | 15:34 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ハンガリー映画『人生に乾杯』を『かないくん』と共に考えてみた

ハンガリー映画『人生に乾杯』を『かないくん』と共に再び考えてみた

昨日、『人生に乾杯』のことを、テルマ&ルイーズなんかとかさねて書いてしまった責任?を感じたりもして、再度この映画のことと、ヒデコからの誕生日のプレゼント『かないくん』(谷川俊太郎著・松本大洋絵)とかさねて書いてみることにします。

昨日のブログを書いてから、ハンガリーの歴史が急に気になってあれこれ調べてみました。えっとーっ、ハンガリー動乱は何年だったっけ?なんて具合にです。

何年か前に、日系ブラジル人の中三の女の子に、国語と社会を教えたことがあるんですが、ソ連邦があったなんて、歴史の一コマになっちゃったんだなあ、と歴史の教科書を見て感慨深かったことを思い出します。ソ連邦ってなに?って世代が出てきてるって本当らしいですね。ロシアで、ともあれオリンピックが進行している今、ありゃりゃって困り感が募ります。

もう一度『人生に乾杯』をおさらいすると、これは喪失と再生の物語でもあります。ソ連邦とドイツという大国に囲まれた小さな国はポーランドや旧チェコスロバキアのみならず、ハンガリーもそうなんですね。

そういう、かつてのあっちを向いたりこっちを向いたりの、社会主義体制や共産主義体制に、大国のはざまで翻弄された小さな国の誇りに賭けて、その「終わり」を老夫婦の淡々としたギャングぶりに託した、というのが本当のところだという気がします。

ハンガリーの歴史を読み取ろうとしても、とても一晩ては無理って感じでした。でも、ともかく、どんな国に生きていようと、人々は生きようとするんです。その時代の郷愁と拠り所でもある、シンボリックな大切なものを最後には手放せずにいる。それが、貧乏のきわみで、その貧乏も体制が変わってもたらされた貧乏なんだけれど、手放さずにはすまなくなった時、ふっと人間としてのキャパが越えるのだと思います。

80歳と70歳の老夫婦の出逢いは、1950年として描かれています。それから、一人息子を軍の車による事故で失ったのが1971年、そして、映画の舞台は2000年前後。

実は、この映画の原題は『終わり』と、なんともそっけないもの。でも、これは東欧に生きる人々にとっては、大きな意味があったのだと思います。終わらせて始める。終わりを認めて、始めようとする。

そのために、彼ら二人を追う、若い警官のカップルが登場して色々ドラマを展開します。
で、ラスト近くでは、老夫婦の終わりと、若いカップルの間に芽生えた命の兆しとが交叉します。終わっていく場所は、亡くなった息子の眠る場所のすぐ近くです。

彼らの強盗ぶりは、実に淡々としていて不器用ながらも落ち着いています。ハリウッド映画のドラマ性なんて要らないって感じで、ひょうひょうとしています。老いることってこういうことなんだよねって思います。カッコ悪いのにカッコいいの。どっかつき抜けているのです。ギャングだなんて忘れてしまいそう。
50年連れ添った、うまみがしみじみしみる会話が良かったり。

ところで、Facebook上で、『かないくん』の読後感を、この本を紹介してくれた方から聞かれて、私は応えました。
この方は、「失われたから、始るものもあるのですか」といった質問をした。私はこのブログでもかつて書いたことのある応えを書きました。
それからしばらくして、彼のこの質問、おかしいなあって思い始めました。
「失われてもなお、始まるものもある」であって、多くの人は「失われて、始まらない」人生をかみしめているのではないですか、と返しました。

昨夜、ねる前に書いて、起き出したら、この本を紹介してくれた方から、質問していて舌足らずと感じていた旨、腑に落ちた旨、書かれていてほっとしました。

『かないくん』、松本大洋くんの絵がいいですよ。文字のない絵だけの頁がのこしてくれる余韻は相当のもの。そして、私は最後の頁の女の子の表情が好き。
好きと言うより、たまらない。ぞくぞくする。スキーを踏み出した瞬間の風をきる表情。

これは喪失をたった今、知った少女が、すでに「意志」と共にそこに向き合っている、ということを思わせる表情に、私には映ります。
大切なおじいちゃんの然るべき死だから、こう表現ができるのだと思います。


然るべき死ではないと思わされるとき、人は、そういう「意志」を持つ事すら阻まれるのだと思います。

ハンガリー国民は『人生に乾杯』という『終わり』の映画に、かみしめた始まりがあったのだと思います。そう信じられる暖かい映画でした。

はてさて、62歳になった一日目がスタートしてしまっています。

ケイコ


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X県でもなく、F県でもなく福井県だよー「幸せすぎるおんなたち」出ちゃったんだあ

カテゴリーは、「映画・ドラマ・本より」にしたぞー。
本当のところはね。この地元のことをひとつのカテゴリーにして書きてえなあって思ってきた。
思ってきたなんてもんじゃあないぞ。
思い詰めて、思い詰めて、でも、考えると疲れるから、考えるのを放棄していた。
少なくともこのブログではね。

ええ、はっきり言います。
この県には、芯から芯から友達と言える人はいません。
いません。
いません。

私一人になったらどうしよ。
どうしょってのが、ものすごくコワーイ現実。リアルな現実。
ヒデコと二人で生きているから、暮らしているから、やってんだよなーって。

如才なく、周りに合わせてなんてできない私は、
日本のどこにいたってうまくなんてやれはしません。
そこで見えてきたことこそ、大事に大事にしてるんです。
殊勝にも、けなげにも…。うむふむ、うむふむ。

最近になってできつつある、県内在住の方々とのつながりに、
これでひびが入るかしらん。
いいえ、そんなことありえへん。あるわけない人しかつきあっておらんもんなあ。

訳のわからん日本語になってきました。

これは、この書物…ふふふふふ、あはははははは、
「幸せすぎるおんなたち」を知ってしまった予感と希望とおののきで震える、
そんな私の真実の表現です。
いやはや、「流星ひとつ」と同じで、読む前に小躍りしているぞー。

実は、私、けなげにも、殊勝にも、真剣にも、
誠実にも、真摯にも、ありったけの想像力と、
ありったけの自分自身の体験の客観的事実、主観的感覚を総動員して、
私めの執筆において、このX県の記述に悩み抜いているのであります。

ええいっ、なんだい。
私も書いてるんだぞー。
書いていたのに消したところなんだぞー。
なぜかって言ったら、編集者が短くしなされって言ったのもあるし、
元編集者の友達にすら、
「どうしてここまで書くんですか」って9月に、
福井県とのぎくしゃくを誠実に客観的に描いても言われたからです。


あああ、くやしい。くやしい。くやしいぞお。かなり。かなり。かなり。



おそらく、私はこの「幸せすぎるおんなたち」に驚くことはないだろうって、
予測できるだけに、予測できる自分がコワイ。コワイよー。
みんな読みながら、こわくなるみたいだけれど、
私はそんなところにはいませんから。


著者の雀野日名子さんって方が、ホラー作家ってのも、
そうなる必然性があったんではないかって妙に納得してしまう。
はい、福井県出身の方です。

昔から信じてもらえんかった。
私たちが住んでいるこの部落のことも、
この県内で起きている女性蔑視の数々も、
そう、自分のお金持っていない学校教師の女性もいましたよー。
キャラバンに来て、だから買い物ができない。

だって、家に全額お金を入れているからですよ。
これが女性の就業率日本一の現実。
これが貯蓄率日本一の現実だよん。
金は個々の楽しみのためなんかにない。
家を代々建て替え、車を買い換えるためだけにある…。

だから、いくらヒデコのやきものが気に入っても、
彼女は自分の意志で買い物ができひん。

ところが、そんなの序の口だい。
「総領娘」のあの友人は、
あの日本中を騒がせた「未婚の母」先生配転事件のさなかに倒れて、
ショウガイを持つ身になってから、
どんな親戚たちに囲まれて今も生きているのだろうか。
その直前まで、何とか家を出たいと思っていたというのにね。

いくら、人が自由を望んでも、私たちがムーブメントを渾身の力で生み出しても、
個人の力には限界があると肝に銘じた出来事だったっけナー。


ああ、あれもこれもこの土地でのことは、
考えるのがいやだから、
ベロ亭の敷地内にいる限りは忘れていることにしている。

でもねえ。
私も言われましたよ。
もはや、ホラーの世界にしてもいいわい。

「あんたが死んだからって、なんの罪もないわい。
おらんちの敷地に張った紐にひっかかって転んだんだからなあ」

耳を疑ったよね。
まあ、この話はとっくに落とし前はつけました。
区切りもついてます。だからここに書けます。
こう言ったおばあちゃんは今や天国で、
どうしてこうも自分のテリトリーにしがみついていたかも、
よくよく判ります。
私は私にこう言ったおばあちゃんのお通夜で、
唯一人号泣していた人間ですもん。はい。


上野千寿子の本だって、取り除くし、
反原発の表現の自由もしめつけてくるし、
なんだか勉強会もとりやめさせるし、なんて序の口だわい。

アマゾンの書評に今は二つ上がっている、
その二つ目にそのことが書かれていて、
そのことがまるで別世界のように書かれていて、
それそのものが目が点になるけれどさー。


そこで、ベロ亭が生きてきたんだぞって知ってんのか。
ベロ亭が何者かなんて、福井県民は本当は何もシランのですぞ。

という話を今日訪ねてきた女性二人にもしたんです。
私たちは、地元の人々の「あわれみ」の対象でした。
あわれんでもらわないといられないので、
その勘違いオーケーって、放置しておきました。

でも、どうもあわれんでいる対象ではないよーなーって、
今はお思いの方が増えてはいます。
だからって敬意ってのもないみたいだけどさー。


奇怪な県ですよ。間違いなく。
それをこのような形の書物にホラー作家がしたのは、
まあ、必然だったのでしょう。

著者はインタビューでこう言ってはります。
「この県内では、右へならえっいう空気に従わないと、血の凍る思いをする」とかなんとか。
「この県内では、右へならっていれば、なまぬるい良い思いを享受する」とかなんとか。

やっと、X県がデビューしたのね。本物に近い形で。
デフォルメしてるって声もあるけれど、
それはおそらくデフォルメじゃないと私は予感しています。

まあ、創作的デフォルメをしなければ、書けない面もあるやも。
でも、それが創作的意図的なものでなくとも、
そのまま怪奇的現実がまかりとおっているって知ってるもんね。


離婚訴訟の途中で変死した女の人の話、聞きました。
ストレスの余りの心臓発作。
葬儀では一家全員とても喜んでいたそうです。
彼女にかけた保険金は入るし、
良かった良かったでしょ。


あの池もこの池も、かつてヨメたちが飛び込んだってさ。
あの峠は、かつて「ヨメ転ばし」って呼ばれたってさ。


どっかの歴史の教科書の話でもなく、
どっかの民俗学の話でもないのですぞー。

それでも、私たちはこの部落のお葬式の、
死者の出たおうちの台所のまかないにも入ってきました。
はいってきたんですって書かないとすまない。
今度の本でも書きたい。
だって、私たちなりに必死に溶け込んできた。


そして、仲の良いおばあちゃんに、
「あんたらは、どこのフウフよりもキョウダイよりも濃いのう」と
言わしめるに至った。
そこには涙ぐましい、けなげな、でもほほえましくもあるお話もあるんです。
あるんですよ。


1980年代に私がそれこそ「80年代」って雑誌に書いたエッセイのタイトル。

「北陸トンネルはタイムトンネルか」。


あの頃、私は自分の思っていることが妄想か何かではないかと思いたいほどでした。
男中心の家社会収容所に皆さん、満足げにおさまっている。
不思議で不思議でならなかった。


あああ、こんなにここに書いて、
どうなるんだろう。明日からここで生きて行かれるかな。

うむうむ、時代は変わったんだ。
こんな本も出る時代なんだ。

よっしゃあ。
それなら、読者の方々、Yahooで検索してみてください。

おすすめは、次の二つ。

★講談社Book倶楽部「幸せすぎるおんなたち」
 これには、著者のインタビューもついているから読みであるよ。
http://bookclub.kodansha.co.jp/books/topics/happiness/

★「幸せすぎるおんなたち」あっぱれな空とてんとうむし
 これは、福井県民の女性のブログです。
 福井弁で書かれたこの本への思い。爆笑しながらぞっとしました。
http://blogs.yahoo.co.jp/shang_mei_703/10455118.html?from=relatedCat

ああ、ここまで書いて、私は明日、福井県の土地の上で、生きていられるかしらん。
生きているぞー。

そして、この書物との統一をねらって、
「明治県」から「E県」へと変更をかさねた私の執筆中の表記を、
そう、
「X県」に最終的に変更する案も検討事項に加わりました。


いやはや、一時浮上していたんです。
「X県」っていう表記がね。
でもこれってバツにも見えるんじゃないかしらんって、
控えたんですが。

私の著書は、ホラーではないし、
私はホラー作家としてやっていく気はないので、
よくよく検討しなければなりませんねえ。

また、考えることが増えた割には、興奮気味の今夜でした。


見てね。
検索してね。
私だけが勝手に興奮していると勘違いしないためにも。


で、興奮できないとしたら、
きっと、あなたはきわめて幸せな、日本を生きているってことよー。

ふふんだ。


ケイコ

| 映画・ドラマ・本より | 02:19 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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