ベロ亭の暮らしが「共同性」をもって輝きはじめた…息子の出産を支えた助っ人の女たち
タイトルについて、ちょっと考えた。
ベロ亭がコンミューン的いろどりで輝いていたころ、
そんなタイトルが最初浮かんできた。
私の中で同じように行きかい、だいたい同じ意味をなして、浮かんだ二つの言葉。
コンミューン。
共同性。
コンミューン的いろどり
共同性をもって。
どちらも、今の時代には、色あせてしまった言葉かもしれない。
かつてそんなことがあったの? ありえたの?
そんな感覚と思考で迎えられる、昔々のお話かもしれない。
そう、昔々、あるところに、「ベロ亭」という輝ける、
無償の共同性を帯びた、二人の女をはさんだコンミューンがありましたとさ。
そんなふうに語り始めたほうが、すでに良い時代に入っているのかもしれない。
しかし、だからこそ、今、女たちのムーブメントの歴史の陰で、
私達が語らねば、そんな時代があったことすら忘れ去られそうな、
そんな危機感と、けっして過剰にはしたくはないノスタルジーもこめて、
そんな時代があったことを語る必要が、ぐっと生じてきた、
それは、ベロ亭が二人きりになって久しい今、
ある意味で暁光ともいうべき事柄なのかもしれない。
なぜなら、それが、新しい出会いの中で、何らかの形で、
語り継ぎ、伝承し、その意味のひとかけらでも、生かされればいい、
そんなふうに浮上してきたことが、私には限りなくいとおしいからだ。
むろん、私は「ベロ亭」の暮らしの歴史を、はたまた、キャラバンの歴史を、
語り始めなければならない、語り始めたいという、
おおいなる欲求と必要性に、すでに駆られ始めてもいた。
そんな折に、そこに、耳傾けてくれる相手を得たことで、
よりいっそう、明白に照射されることがあるとしたら、
それは、かつてない、かけがえのなさを帯びるからだ。
あれあれ、またまたケイコさんの文章、前置きが長いなあ。
読み手の苦笑か、共感の笑いかは判らないけれど、聞こえてきそう。
ベロ亭がベロ亭になる前、そう草創期と言ってもいい頃、
関東から二人して飛び出し、半年ほどの旅をへて、
私達はタケフ市の、今ほど山深くない、
市街地と田園地帯の間位の地域に住み始めた。
実は、その家で、一番下の息子のカラは誕生した。
当時足しげく交流のあった京都のシャンバラという、
女たちの活動拠点ともなっていたスペース。
そこに、私達はある日、貼り紙をした。
出産前後を支える助っ人求む、と。
出産前後二カ月余りの間に、実に女たちが次々と、その家に通ってきた。
彼女たちは、一緒にご飯を作り、一緒にご飯を食べ、
すでにいた四人の子どもたちと遊び、またたく間に、
そこでの暮らしは、輝ける? コンミューン的色彩を帯びた「共同性」の只中にいた。
貸し借りなんてなかった。皆、必死で私達を支えようとして、
来てくれていたと思う。私達が、じり貧の中でも、
必死で子どもを育て、そして、また新しい命を迎えようと、
生きていた、そのことに、当たり前のようにこたえてくれていたのだ。
その一人一人とのその頃と、何年もを経たその後を思うと、
胸にじーんとくるものもある。が、とりあえず、今日は、
その時だけのことを記す。
最初に現れたKは、赤ちゃんを丸ごと入れられるようにできている、
当時はやり始めていて、私達が真っ先に取り入れようとしていた、
大きくて柔らかいかご状の入れ物を下げて来てくれた。
タケフ駅に迎えにいった時の、Kの満面の笑みを忘れない。
女たちは、次々とローテーションを組んで来た。
中にはレズビアンの女たちもいた。それは何の抵抗もないことで、
私達のパートナーシップもそれはそれで暗黙の了解を得ていたと思う。
次々と人が来る中で、私もスーパーを駆けずりまわって買い物した。
大きなお腹を抱えていることなど忘れそうになるくらい。
そんな翌日、息子のカラは生まれた。
もちろん、自宅出産だった。調べて探し当てた助産婦さんの介添えで。
見守ってくれたのは、その時の助っ人だったMさん。
それから、タケフに住むきっかけとなった隣家の友人夫婦の妻のほう。
それから、もちろんヒデコ。
子どもたちもいてもらっても良かったのだが、
助産婦さんは、子どもにはちょっと…という人だったから、
今にして思えば、命の誕生に触れる良い体験になったに違いないのだが、
四人の子どもたちは保育園や小学校に行っていて、立ち会ってはいない。
出産後のことのほうが、私はよく覚えている。
なぜなら、出産という大事業をなし、授乳という引き続きの
生物学的なお仕事を続けている私は、
ともかくいつも腹が減り、飢えていたからだ。
その割には、ほとんどがシングルだった女たちの料理は、
私にはとても十分とはいえなかったからだ。
そりゃあそうだ。四人の子どもたちに触れ合うのも、
その飲み食いに関わるのだって皆、初体験。
産婦が人の二倍くらいはカロリーを取らなければ追いつかない、
なんて誰も知らなかったし、ヒデコも皆への対応に追われていたのだと思う。
ある時、幼児一人ずつを連れて、二人の女たちが助っ人に来た。
おかげで、ベロ亭は7人の子どもでごったがえし、
もともとあったばか騒ぎ的喧騒はますます大きくなったけれど、
出産経験のある二人は、たっぷりとした食事を私に作ってくれた。
その時の満足感、ああ、これがほしかったんだよなあ、
という、充足感も、昨日のことのように思い出される。
夜も授乳で起こされる日々。そろそろ、私もまとまった睡眠をとりたい。
そう願って、生まれて二週間くらいはたっていた赤ん坊のカラと、
はなれて寝たことがある。その時の助っ人の女が隣に寝てくれた。
深夜、カラの泣き声で目覚めた。二階から、助っ人とカラの寝る、
一階の部屋に下りた。なんのことはない。
けっこう大きな声で泣いているカラの隣で、
助っ人の女は、グーグー寝息を立てて、寝入っていて笑ってしまった。
ああ、思いだしているだけでも、涙が出そうな懐かしさに駆られる。
ガルシア・マルケスの新聞記者時代の記事を集めた著書に、
『幸せな無名時代』というのがあり、私も愛読したことがある。
言うなれば、この出産助っ人であふれた時期は、
ベロ亭がベロ亭になる前の草創期、そんな幸せな時代の始まりだったとも言える。
キャラバンにいつも置いていた、ベロ亭の暮らしを伝えるアルバムがある。
ちなみに、アルバムは活動を伝えるもの、キャラバンの歴史を伝えるもの、
あわせて三冊あるけれど、そのうちの一冊が暮らしを伝えるそれなのだ。
そのなかに、カラの赤ちゃん時代の写真、から始まって、
十年くらい前までの写真が掲載されているページがある。
もちろん、他の四人の写真も載っていたりもする。
そろそろ、このやんちゃすぎる写真は外してほしいと、
双子の娘ヤエとハナに言われ、写真を取り換えようとして、結局取り替えなかったこともある。
大人になって、まあ年頃の娘さんとしては困るよ、という写真だったからだが、
やがて、本人たちも気にならなくなってしまったようだ。
ともあれ、そのカラが中心のページにこんな言葉を私は添えている。
「カラくんと共にベロ亭は育った」。
まさに。
まさに、そんなふうな始まりだった。
ありとあらゆる苦悩と貧しさを踏み越えて、夢も希望も追及していた時代。
そこに五人の子どもたちがいた。
サナエ、のえ、ヤエ、ハナ、カラ。そして、私ケイコとパートナーのヒデコ。
それは偽らざる、と同時にかけがえがない、私達二人の草創期でもあった。
ああ、このブログ、のえも読んでいるかい。
生きている時に読んでほしかったなあ。
ともかく。
今日から私は、また別枠のカテゴリーを作る。
それは、
「面白くもおかしくも『共同性』があった頃」。
次は、廃屋化していた家を、ベロ亭にすべく皆で改装するの巻。
そう、カラがちょうど一歳の時の、ベロ亭へのお引っ越しの話です。
時々、折を見て、断続的に記しますね。ヒデコと共に。
あらあら、「来し方」をふりかえるって、こんなにいとしいことなのね。
誰もが輝いていた時代。輝いて見えた時代。
それが、あしたの痛みだとしても、希望に向かって歩み出していた時代。
「行く末」が見え始めたからこそ、語り始めるぜ。
次回もお楽しみにね。
突然口をつく。あの歌が。
鳥を飛ばせ。鳥を飛ばせ。赤い鳥を。
それが、あしたの痛みでも…。それが小さな希望でも…。
そう、あの番組は、「行く末」が見え始めた私達が飛ばした、
私達の人生をぎっしり、だけどコンパクトに「カゾク」としてつめこんだ、珠玉の鳥。
それが飛んで飛んで、今、手元に舞い戻って来たかのよう。
より大きな、より深い、本当の姿を垣間見せんとして、
今、まさに、
この私のてのひらに。
ケイコ
追伸 『核をめぐる対話』についての拙文は、できれば大幅に書き直して、ゆっくり時間をとって、いずれアップしたいと願っています。余りにも大きな、宿題となった感じで大切にしたいのです。
ベロ亭がコンミューン的いろどりで輝いていたころ、
そんなタイトルが最初浮かんできた。
私の中で同じように行きかい、だいたい同じ意味をなして、浮かんだ二つの言葉。
コンミューン。
共同性。
コンミューン的いろどり
共同性をもって。
どちらも、今の時代には、色あせてしまった言葉かもしれない。
かつてそんなことがあったの? ありえたの?
そんな感覚と思考で迎えられる、昔々のお話かもしれない。
そう、昔々、あるところに、「ベロ亭」という輝ける、
無償の共同性を帯びた、二人の女をはさんだコンミューンがありましたとさ。
そんなふうに語り始めたほうが、すでに良い時代に入っているのかもしれない。
しかし、だからこそ、今、女たちのムーブメントの歴史の陰で、
私達が語らねば、そんな時代があったことすら忘れ去られそうな、
そんな危機感と、けっして過剰にはしたくはないノスタルジーもこめて、
そんな時代があったことを語る必要が、ぐっと生じてきた、
それは、ベロ亭が二人きりになって久しい今、
ある意味で暁光ともいうべき事柄なのかもしれない。
なぜなら、それが、新しい出会いの中で、何らかの形で、
語り継ぎ、伝承し、その意味のひとかけらでも、生かされればいい、
そんなふうに浮上してきたことが、私には限りなくいとおしいからだ。
むろん、私は「ベロ亭」の暮らしの歴史を、はたまた、キャラバンの歴史を、
語り始めなければならない、語り始めたいという、
おおいなる欲求と必要性に、すでに駆られ始めてもいた。
そんな折に、そこに、耳傾けてくれる相手を得たことで、
よりいっそう、明白に照射されることがあるとしたら、
それは、かつてない、かけがえのなさを帯びるからだ。
あれあれ、またまたケイコさんの文章、前置きが長いなあ。
読み手の苦笑か、共感の笑いかは判らないけれど、聞こえてきそう。
ベロ亭がベロ亭になる前、そう草創期と言ってもいい頃、
関東から二人して飛び出し、半年ほどの旅をへて、
私達はタケフ市の、今ほど山深くない、
市街地と田園地帯の間位の地域に住み始めた。
実は、その家で、一番下の息子のカラは誕生した。
当時足しげく交流のあった京都のシャンバラという、
女たちの活動拠点ともなっていたスペース。
そこに、私達はある日、貼り紙をした。
出産前後を支える助っ人求む、と。
出産前後二カ月余りの間に、実に女たちが次々と、その家に通ってきた。
彼女たちは、一緒にご飯を作り、一緒にご飯を食べ、
すでにいた四人の子どもたちと遊び、またたく間に、
そこでの暮らしは、輝ける? コンミューン的色彩を帯びた「共同性」の只中にいた。
貸し借りなんてなかった。皆、必死で私達を支えようとして、
来てくれていたと思う。私達が、じり貧の中でも、
必死で子どもを育て、そして、また新しい命を迎えようと、
生きていた、そのことに、当たり前のようにこたえてくれていたのだ。
その一人一人とのその頃と、何年もを経たその後を思うと、
胸にじーんとくるものもある。が、とりあえず、今日は、
その時だけのことを記す。
最初に現れたKは、赤ちゃんを丸ごと入れられるようにできている、
当時はやり始めていて、私達が真っ先に取り入れようとしていた、
大きくて柔らかいかご状の入れ物を下げて来てくれた。
タケフ駅に迎えにいった時の、Kの満面の笑みを忘れない。
女たちは、次々とローテーションを組んで来た。
中にはレズビアンの女たちもいた。それは何の抵抗もないことで、
私達のパートナーシップもそれはそれで暗黙の了解を得ていたと思う。
次々と人が来る中で、私もスーパーを駆けずりまわって買い物した。
大きなお腹を抱えていることなど忘れそうになるくらい。
そんな翌日、息子のカラは生まれた。
もちろん、自宅出産だった。調べて探し当てた助産婦さんの介添えで。
見守ってくれたのは、その時の助っ人だったMさん。
それから、タケフに住むきっかけとなった隣家の友人夫婦の妻のほう。
それから、もちろんヒデコ。
子どもたちもいてもらっても良かったのだが、
助産婦さんは、子どもにはちょっと…という人だったから、
今にして思えば、命の誕生に触れる良い体験になったに違いないのだが、
四人の子どもたちは保育園や小学校に行っていて、立ち会ってはいない。
出産後のことのほうが、私はよく覚えている。
なぜなら、出産という大事業をなし、授乳という引き続きの
生物学的なお仕事を続けている私は、
ともかくいつも腹が減り、飢えていたからだ。
その割には、ほとんどがシングルだった女たちの料理は、
私にはとても十分とはいえなかったからだ。
そりゃあそうだ。四人の子どもたちに触れ合うのも、
その飲み食いに関わるのだって皆、初体験。
産婦が人の二倍くらいはカロリーを取らなければ追いつかない、
なんて誰も知らなかったし、ヒデコも皆への対応に追われていたのだと思う。
ある時、幼児一人ずつを連れて、二人の女たちが助っ人に来た。
おかげで、ベロ亭は7人の子どもでごったがえし、
もともとあったばか騒ぎ的喧騒はますます大きくなったけれど、
出産経験のある二人は、たっぷりとした食事を私に作ってくれた。
その時の満足感、ああ、これがほしかったんだよなあ、
という、充足感も、昨日のことのように思い出される。
夜も授乳で起こされる日々。そろそろ、私もまとまった睡眠をとりたい。
そう願って、生まれて二週間くらいはたっていた赤ん坊のカラと、
はなれて寝たことがある。その時の助っ人の女が隣に寝てくれた。
深夜、カラの泣き声で目覚めた。二階から、助っ人とカラの寝る、
一階の部屋に下りた。なんのことはない。
けっこう大きな声で泣いているカラの隣で、
助っ人の女は、グーグー寝息を立てて、寝入っていて笑ってしまった。
ああ、思いだしているだけでも、涙が出そうな懐かしさに駆られる。
ガルシア・マルケスの新聞記者時代の記事を集めた著書に、
『幸せな無名時代』というのがあり、私も愛読したことがある。
言うなれば、この出産助っ人であふれた時期は、
ベロ亭がベロ亭になる前の草創期、そんな幸せな時代の始まりだったとも言える。
キャラバンにいつも置いていた、ベロ亭の暮らしを伝えるアルバムがある。
ちなみに、アルバムは活動を伝えるもの、キャラバンの歴史を伝えるもの、
あわせて三冊あるけれど、そのうちの一冊が暮らしを伝えるそれなのだ。
そのなかに、カラの赤ちゃん時代の写真、から始まって、
十年くらい前までの写真が掲載されているページがある。
もちろん、他の四人の写真も載っていたりもする。
そろそろ、このやんちゃすぎる写真は外してほしいと、
双子の娘ヤエとハナに言われ、写真を取り換えようとして、結局取り替えなかったこともある。
大人になって、まあ年頃の娘さんとしては困るよ、という写真だったからだが、
やがて、本人たちも気にならなくなってしまったようだ。
ともあれ、そのカラが中心のページにこんな言葉を私は添えている。
「カラくんと共にベロ亭は育った」。
まさに。
まさに、そんなふうな始まりだった。
ありとあらゆる苦悩と貧しさを踏み越えて、夢も希望も追及していた時代。
そこに五人の子どもたちがいた。
サナエ、のえ、ヤエ、ハナ、カラ。そして、私ケイコとパートナーのヒデコ。
それは偽らざる、と同時にかけがえがない、私達二人の草創期でもあった。
ああ、このブログ、のえも読んでいるかい。
生きている時に読んでほしかったなあ。
ともかく。
今日から私は、また別枠のカテゴリーを作る。
それは、
「面白くもおかしくも『共同性』があった頃」。
次は、廃屋化していた家を、ベロ亭にすべく皆で改装するの巻。
そう、カラがちょうど一歳の時の、ベロ亭へのお引っ越しの話です。
時々、折を見て、断続的に記しますね。ヒデコと共に。
あらあら、「来し方」をふりかえるって、こんなにいとしいことなのね。
誰もが輝いていた時代。輝いて見えた時代。
それが、あしたの痛みだとしても、希望に向かって歩み出していた時代。
「行く末」が見え始めたからこそ、語り始めるぜ。
次回もお楽しみにね。
突然口をつく。あの歌が。
鳥を飛ばせ。鳥を飛ばせ。赤い鳥を。
それが、あしたの痛みでも…。それが小さな希望でも…。
そう、あの番組は、「行く末」が見え始めた私達が飛ばした、
私達の人生をぎっしり、だけどコンパクトに「カゾク」としてつめこんだ、珠玉の鳥。
それが飛んで飛んで、今、手元に舞い戻って来たかのよう。
より大きな、より深い、本当の姿を垣間見せんとして、
今、まさに、
この私のてのひらに。
ケイコ
追伸 『核をめぐる対話』についての拙文は、できれば大幅に書き直して、ゆっくり時間をとって、いずれアップしたいと願っています。余りにも大きな、宿題となった感じで大切にしたいのです。
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