
二人で外仕事して、宿題メールからハッタツ系若者の顔ぶれが次々と
二人で今日は外仕事を午後から夕方にかけて、三時間ほどぶっつづけでしました。
ヒデコは、新しく、「老後対策」のために、迎え入れるお窯さんのために、窯場の床というか、土間を掘り返すという、あの年にしては、しかも女としては、本当は考えられないほどの重労働。でも、人にしてもらわなくてはどうしてもできないという仕事以外は、彼女は地道にこつこつ、大変な割には爽快な顔をして、やるのです。明日、あさってと、どんな疲労を訴えることやら…。
私は私で、今日はクレマチスの根元のところがずっと前から植木鉢がこわれた状態で、植木鉢の破片やら、木ぎれやらでおおっていたところに、もう半年以上前から買い置きしておいた花壇用の弧を描く煉瓦かブロックもどきで囲って、せっせせっせと、新しい花壇の創出に励みました。その結果、あっちの苗をこっちに移し、そっちの花をこっちに統合しなどなどの果てしない作業が続きます。もちろん、花壇には新たに土を入れなければならないしで、よいこらしょって土を一輪車で運んだりもして、相当動きました。
せっせっせっせ。
ヒデコは窯場。私はマイプライベートガーデン。
あれ、今日、イシカワよりの県内からはるばる来るって言っていたおっちゃん、来ないでないかー。えっ、そういう事情で来なかったのかって、二人して、もうやめようやめようと、切り上げる頃に届いたメールの事情が事情で笑い転げた。
ここのところ、私ケイコは、人と会うのが続いたり、以前だったら当たり前なのに、選択的引きこもり生活の私には、ちょっとまれなる日々が連続している。
今日は本当は、あるメールを決心して書いて、自分の仕事の、大きなステップを踏まなきゃーっていう気持ちは固まっていたというのに、ホームセンターに材料を買いに行くヒデコに同行するあたりから、流れが決まってしまっていた。
花壇を作るのは、数ヶ月、いや一年近く前からの懸案事項だったから、春めいた日差しを浴びると、避けられない作業。花が開き、芽が吹くみたいに、自分も動き出すのは止められない。お前なあ、書斎で仕事するぎりぎり限度でないのか-。あのメール書かないとやばいよー…という声はじき消えていた。
せっせせっせせっせ。
二人のやっている作業を見たら、二人の年齢は考えてはいけないかもー。
まあ、私もすごい動いたね。ヒデコは間違いなく重労働。それでも、やったねーって達成感は大きい。あるネットにアップすると、「いいね」が続々。
一人、「近くだったらなあ」。
いや、明日、もっと大変な作業には、助けに来てくれる人はいるんです。
何もかも二人でやってきた。
私たちの応用範囲はかなり広い。
こういう具体的な作業でも、人のこころの問題でも。
実は、朝、これは執筆の仕事とは別に、携帯メールで個人的に長いメールをもらってもいた。夜になってから、どうやって応えようかと少し考えた。短い返信も書く。もう一度、来たメールを読んで、これはつくづくしみるなあ、と思う。心痛いと言い換えてもいい。
新しい「カテゴリー」を創ろうかなあって思う。
「人生のエキスパート当事者目線のハッタツ系若者研究」とかなんとか。
でも、今日のところはやめておきますわ。
約8名、次々とハッタツ系若者の顔ぶれがフラッシュみたいに浮かびます。
明らかにそういう傾向を持つ、こんなにも多彩な顔ぶれと、このカンに、こんなにもつきあってきたんだなあ、と溜息が出る思い。これで一冊の本が書けるほど、「熟練当事者による途上の当事者研究」が進んでいる実感が溢れます。
いや、でも私は痛いんだ。
どの顔が浮かんでも痛いんだ。
そして、とりわけ、年末のあのとき、ある若者にその「母上」から電話がかかってきた時の彼の動揺を眼前にした後の、私の動揺がフラッシュバックするみたいになって、結局、彼らの親子関係を目の当たりにするのは、私の心の琴線に触れすぎるんだというのを思っていたのです。
あの年末、地元在住と、遠方から来た若者二人の前で、私は珍しく号泣一歩手前。
実際は、号泣までできなかったけれど、する訳にいかなかったけれど、かなり溢れるものを止めようがなかった。その涙のハッタツ的早トチリのおまけつきで。それは、きちんと説明しながら、怒りましたけどね。若者ったって、8人のうち、2人は40代なんだから。
おいおい残酷だよ。判るわけないだろ。
同時に、子の側の気持ちも、親の側の気持ちも痛いほど判ってしまうってことが、どれほどのことかー。
いやあ、その「母上」は私なんかと、全然違います。そんなこと、数分の電話で判りました。
なんたたって、私の出身地と同じ都市在住だから、一瞬にして、どういうマナーと、どういう志向とを身につけているか、そのずうっと前に交わした会話で判ってしまうのです。
それだけにねー。
それだけにー。
親なんてねえ。本気で向き合わなきゃならないってことを知っていても、あきらめることもある。
本気で向き合えないかわりに、世話になっている…らしい…人に、へえっ、お中元とお歳暮来るわけーって体験までさせていただいたりー。
もう、これお断りしたけどね。
まあ、本気で向き合わなきゃならないってことを知っていても、親は親の人生の限界を見ている場合もあるの。それぞれがそれぞれの限界を抱えてもいる。
一度はね。その若者の親御さんからの贈り物を、お世話している若者たちを代表する贈り物って思おうとしたこともある。
でも、これじゃあ、ダメだ、この個別にして具体的な若者との関係が始まらないって思った。彼は彼で成長していくためには、お中元、お歳暮、困りますって訳で。
こういった私たちの、私の側の「選択」の背景に何があるか、判るわけないよね。
判ったら、あんな本は書かないよね。
のえは、それもこれもあれも、どれもこれも、丸ごと持って旅だっていったよね。
ひっちらかした宿題のままに、8人の若者たちの顔ぶれが泡立つ。私の中で、私の悲しみの海で、波立つんだ。
ええっ、そのまっとうさで迫ってくるわけー。
ははっ、その正直さで応えてくるわけー。
でもね。
悲しみはいとしさでもあると私は知っているから、
その8人を抱きしめもするの。
いっぱいいっぱい、黙ったまま、その人その人に必要な言葉だけを選んで言いもするの。
「お母さん」もつらいんだよ。
息子や娘がよそ様に世話になっているのを認めるのは、つらいのよ。
あるいは、判りたくないのよ。
判らせる必要がない場合だってあるのよ。
なおさら、その親御さんが、ハッタツ系を秘めていながら、
自分のことではない、って思い込んでいたらね。
子どもの事への思いの大きさと裏腹に、自分だって生きるのが大変なんだよ。
そんな簡単なことが、
「子ども」のまんまの若者たちには、なんで判らないんだろう。
判らないままですんでいるってだけなの?
そうして、私は、私たちは、またもや矛盾にさらされる。
さて、念押し。
自分はハッタツ系ではないと信じているこのブログの読者氏、
あなたもきっとそうですよ。
そして、この矛盾をきわめる役回りをまたまたしてくれるんだと、
そう腹を決めています。
日本人的ハッタツ、フクイ的ハッタツ。
優等生的ハッタツ、天才的ハッタツ、なんでもござれー、よ。
逃げない、避けない、
私のライフワークですから。
親と子どもとの間で起きる相克、
それにハッタツがどう絡んでくるか、
これもライフワークですから、
ねっ。
ケイコ