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誰が駒鳥を殺したか    長田弘 …実は、これは「マザーグース」のブラックユーモア的解題 …引き裂くように胸が激しく痛む日曜の夕刻に


誰が駒鳥を殺したか    長田弘
…実は、これは「マザーグース」のブラックユーモア的解題
…引き裂くように胸が激しく痛む日曜の夕刻に
写経のように打ち込んでみる。…改行など若干変えました!


誰が駒鳥殺したか

ある日、一羽の駒鳥が殺された。

誰が殺した、駒鳥を?
「ぼくじゃない」雀はいった。
「殺したやつだ、殺されたやつを殺したのは」

では、誰がみた、駒鳥が殺されるのを?
「ぼくじゃない」蝉はいった。
「殺したやつだ。誰もみてない殺しをみたのは」

では、誰がみつけた、殺された駒鳥を?
「ぼくじゃない」魚はいった。
「殺したやつだ、まっさきに殺された駒鳥をみたのは」

では、誰が希った、駒鳥が殺されるのを?
「ぼくじゃない」甲虫がいった。
「殺したやつだ。殺されたやつの死を希ったのは」

では、誰が掘った、殺された駒鳥の墓穴を?
「ぼくじゃない」梟はいった。
「殺したやつだ。墓穴の正しい大きさを知っていたのは」

では、誰が説教した、殺された駒鳥に?
「ぼくじゃない」鳥はいった。
「殺したやつだ、殺されたやつに観念しろといったのは」

では、誰が祈った、殺された駒鳥のために?
「ぼくじゃない」雲雀はいった。
「殺したやつだ、殺されたやつの完璧な死を祈ったのは」

では、誰が悲しんだ、駒鳥の死を?
「ぼくじゃない」紅雀はいった。
「殺したやつだ、殺したらもう殺せないと悲しんだのは」

では、誰が用意した、殺された駒鳥のためのその棺を?
「ぼくじゃない」鳩はいった。
「殺したやつだ、殺されたやつにぴったりの棺を用意したのは」

では、誰が参列した、殺された駒鳥の葬儀に?
「ぼくじゃない」鳶はいった。
「殺したやつだ、予め葬儀の日どりを知っていたのは」

では、誰が覆った、駒鳥の棺を白布で?
「ぼくじゃない」みそさざいがいった。
「殺したやつだ、事実を白々しく覆いかくしたのは」

では、誰が歌った、駒鳥のために弔いうたを?
「ぼくじゃない」鶫はいった。
「殺したやつだ、葬送行進曲の好きなのは」

では、誰が鳴らした、駒鳥のための弔鐘を?
「ぼくじゃない」牛がいった。
「殺したやつだ、鐘つきながら息ついているんだ」

では、ここにいる誰でもなかった、
殺された駒鳥を殺したやつは。

それでおしまい。
問われたものは、殺さなかった。
問うものは、問われなかった。
殺されたものは、忘れさられた。

なんとありふれた殺し、
なんとありふれた裁き、
なんとありふれた日々、
ぼくたちの。

告示
殺されたものは
殺したものによって殺されたが
殺したものがいないのであれば
殺されたものもまたいないであろう
きみが殺されるまで      (おしまい)

はてさて、もともとの「マザーグース」をご存じない読者もいるだろう。
どぎつい表現、意表をつく誇大妄想、そんなもので溢れるこの伝承、
ところが、「だれがこまどり ころしたの?」は珍しく慈愛に満ちた逸品である。
ころしたものはすぐに白状するし、見たものもお墓を掘ったものも、みーんな、しみじみと自分がなした役割を漏らす。結びは、
「かわいそうな こまどりのため なりわたるかねを きいたとき そらのことりは  いちわのこらず ためいきついて すすりないた」
となっています。
1975年刊行第3集 谷川俊太郎訳 堀内誠一イラスト
よねたにのえ、の幼児期の絵本コレクションより

長田弘さんが、思わず他のマザーグースのどぎつさに並べて、
毒舌的リアリティを謳ってみたくなった真情がふっと浮かぶ。
しかしながら、これがまさに日本の今の、
いえ世界中の今の現実、そう思うとぞっとします。

ええい、誰が誰を殺したの。
ええい、誰が「ぼくじゃない」と言い続けているのだ。
激しい悲嘆の嵐が襲う夕刻には、マザーグースらしく仕立て直された、長田弘氏の、いよいよマザーグースらしい言葉の連なりで荒療治です。

2015年3月20日午後7時  米谷恵子

雀→すずめ
蝉→せみ
梟→ふくろう
鳥→からす
雲雀→ひばり
紅雀→べにすずめ
鳶→とんび 
以上は、のえコレクションから参考にしました。
長田弘さんの作品は、鳥の種類を読み切れませんわ。
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| 詩の世界から | 13:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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久々のラティノとの無礼講フェスタが思い出させた詩「壁が透けていく」このキトのアパートではレズビアンであることなど当たり前。

久々のラティノとの無礼講フェスタが思い出させた詩「壁が透けていく」
英子はエクアドルのやきものの村巡りを始めた頃。
このキトのアパートではレズビアンであることなど当たり前。
このアパートでの共同生活から絞りでた恵子の詩。詳細は詩のあとに。

壁が透けていく

もしも 私たちに
どんな偏見も距離も違いもないのなら
味噌汁と キューバのソンのリズムと ドイツの黒パンの
遠いそれぞれの国について
つば飛ばし 耳澄ましてたがいに語る必要もない

もしも 溢れるほどこの国の言葉を身につけているのなら
とりとめのない会話の折々に
何回もカナリアのように喉をふさいで
静けさに沈む必要もない

もしも 鍋のフタまで
真夜中に無防備に踊らなかったなら
翌日の午後の一時間半を費やして
台所の米の一粒一粒ごとに
そのフェスタの馬鹿騒ぎの底へと戻る必要もない

もしも ジュズつなぎの友情と胃袋が
とどまることない世界への生きた意思がなかったら
余分な鍋のいくつかも
禁じられた本の中のなまなましいフレーズも必要ない

もしも 閉ざされたあの東洋の島国の人々の中に
たった今つらなる船出の声を聞かなかったなら
スペイン語のリズムが国境を越えてつらなる国々の
人々の奔放さの中に潜む底深い絶望と
思いがけない狭さに土曜の午後
ゆっくり立ち止まる必要もない

もしも バスの中の人々の逆光のシルエットに
日曜の公園からくりだす
肩くんだ家族連れの見覚えのあるつらなりに
色とりどりの通りの看板のアルファベッドの洪水に
遠い記憶が瞬時に重なっては
透けに透けていく世界のシルエットがなかったら
どこに生きていても私は同時にうれしく
同時に悲しいと言う必要もない

もしも私が私でなかったら
人々が人々でなかったら
世界が世界でなかったら

壁の向こうへとくりだす
痛みもよろこびも
必要ない

1998年10月  米谷恵子

エクアドルの共同生活のエピソードより     2003年3月 米谷恵子

 ここでエクアドルの最高にハッピーな2ヶ月の共同生活の最初に味わった、予想外のぶ厚い壁への私の体当りから生まれた詩を紹介したい。
 さてその共同生活は、きわめて面白くなりそうな予感を孕んでいた。
 にもかかわらず、私たちが住むことになった部屋に、ずうっと以前に住んでいた日本人女性がもたらした先入観、すなわち「共同の台所で自分が所有する卵の一つ一つに名前を書くような日本人の習性」へのキューバ人女性の警戒心から、最初は実に気まずい滑り出しとなった。
 一緒に住む以前から、共同生活へのワクワクした気持ちを起こさせたそのキューバ人女性の名はリディセという。大柄でよく通る声の持ち主の彼女と結んだ友情は、今も揺るぎないものとして続いているが、そこに至るまでには谷や峠をいくつか越える必要があった。
 そんな険しい峠をのぼりつめる一歩手前の、リディセとの私の会話のただなかでのことだ。
 彼女は「私もラテンアメリカ人だから…」と思いがけずもらして、ちゃんとにやるべきことをやり過ごし、生き抜くためだからと、ただ計算高くなってしまうような自分のいい加減さを、はっきりと認める。一方、私は私で「私も日本人だから…」と口をついてしまい、妙に融通のきかない大まじめな自分の一部分を認めてしまう…といったコミュニケーションのある段階まで達した。
 ラテンアメリカ人らしさや日本人らしさの向こう側まで歩こうとしている、とらわれないそれぞれの気性やプライドや人生の幅や深みがあったからこそ、普遍的とも、一見ステレオタイプとも言える自身の一部分を、思いがけずあっさりと認めて、その先へと歩けたようだった。
 そうして、私たちは峠を越え、山を下り、広い野原へとたどり着いた。
 実は、共同生活初期に味わったこの予想外の大きな壁に頭を悩ました私は、彼女たちと以前暮らしていた別の日本人女性に相談を持ちかけたのだった。若い彼女はこう忠告した。
 「私はリディセたちを同じ人間だとは思っていないわ。フェスタの騒ぎ方だって常軌を逸しているし、日本人と同じ人間だと思っていたら、やってられないのよ。」
 スペイン語の習得が目的で首都のキトに滞在していた彼女は、とてもスペイン語が達者だった。キューバ人たちと一緒に踊る時は実に楽しそうにしていたし、おしゃべりも早口のスペイン語でまくしたて、リディセたちにどんな違和感も感じさせていないようだった。
 にもかかわらす、「同じ人間と思っていない」とは一体何なのだろう。ここから私の思考はスタートした。
 共同生活には、リディセの踊り仲間とも言うべきドイツ人女性シモーネもいた。彼女のスペイン語は私たちよりよほど達者だった。

「ストライキ」から生まれた詩

 共同生活を始めた当初、リディセたちとの出会いの始まりを楽しみにしていた私たちだが、そのチャンスは幾度もそのチャンスの方からすり抜け逃れていくようにさえ感じられた。踊りに行くにもけっして私たちは誘われず、もぬけの殻のアパートの居間で、共同生活を始めた甲斐のなさに英子と二人、さびしさをかみしめた。私たちはリディセにとって、空いた部屋の家賃をちゃんとに払ってつないでくれる、大事な金づるの日本人にすぎない、と思いたくはなかった。
 やがて私は「ストライキ」を起こした。そつなく距離を保ち、私たちを相手にしない共同生活の相手をこちらも相手にしない、という選択だ。自室への「引きこもり」とだんまり戦術を行使した。
 そのプロセスで、またまたラテンアメリカ人が大好きなフェスタもあった。リディセに惚れていたアマゾン地方出身の肌の浅黒いエクアドル人男性が深夜、台所で圧力鍋を使って料理をして、その使い方を心得ず、フタがぶっとぶ事故もあった。高価な圧力鍋は高地だけで使われていた。
台所に散らばったご飯粒を翌日の午後、一粒一粒拾って掃除したのは私だった。
 上記の詩は、そんな共同生活の最初の一週間の谷間とも言うべきエピソードから生まれた。そもそもはスペイン語の文型練習の副産物。「…でなければ…であろう」といった文型。
 エクアドルを発つ間際に持たれたお別れフェスタでは、この詩のスペイン語訳をリディセと共に試みて、日本語とスペイン語で交互に、私とリディセが朗読するという挑戦もした。だから、二つの言語になったこの詩の存在そのものが、詩も書くリディセとの友情の賜物であると言ってよい。
 そのフェスタでの朗読をあたらめてテープで聞くと、なつかしいリディセの深く通る声が響いて、朗読後に、
「この詩は恵子のストライキから生まれたのよ!」
と大笑いする彼女の様子に触れることができる。フェスタに集まったエクアドル人の聞き手が、「ストライキって何?」と訊くや、「この家の秘密よ」とくすくす笑いが止まらない彼女も、ストライキの時には真っ青だったものだ。
 ちなみに、リディセが「経済難民」としてキューバを脱出し、南米で一番物価が安く暮らしやすいというエクアドルに、何のあてもなく住みついて、通りの物売りなどの職を転々としたあげく、スペイン語教師になるまでの物語を、私は共同生活の後半にインタビューして聞き出すことができた。
 中国の文化大革命を描いた小説「ワイルドスワン」のスペイン語訳の読後感も、キューバ人にとってのゲバラ像との重なりなど含めて、聡明なリディセらしく興味深く語ってくれた。この貴重なインタビューを約束通り生かすべく、どこかに発表したい。
 なお、リディセには、お別れの時、キューバでは発禁になっているキューバ人女性作家の高価な本を2冊思い切ってプレゼントした。キューバの外でなら読めるこういった本の存在の重みは、キューバ人が集まるキトのライブハウスでの、キューバの国民的歌手、シルビオ・ロドリゲスの「あなたに贈る唄…Te doy una cancion」の自然発生的大合唱の迫力とも重なって、エクアドルのキトにおける出稼ぎキューバ人の状況をなまなましく映し出して、強烈な印象を私たちに残したものだった。
        2003年3月15日

2003年春発行『クスコからの手紙4号』
「なぜベロ亭の二人がするのか…パラドックスの二つ目」より
ああ、行きたくなった。ペルーの隣りのエクアドル。
赤道直下だけれど、標高2000メートルゆえに、寒暖の差が一日のうちで著しく、朝が春、昼が夏、夕方が秋、夜が冬の、あの穏やかな人々が端正に生きるラテンアメリカでは、まれなるやさしく美しい国へと。
2016年3月3日午前零時を過ぎて書き写し終える。
困ったな、ワープロ時代のものは。
Soul free facilitater 米谷恵子

| 詩の世界から | 02:03 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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船が蹴たてている白い長い泡立ち それは無窮の海と云うものの一番めざめている部分だ


★船が蹴たてている 
永瀬清子さんの短章集「蝶のめいてい」より

船が蹴たてている白い長い泡立ち
それは無窮の海と云うものの一番めざめている部分だ
私の中の苦しみが
私をゆすりさますと同じに。
この時、船が海を裁ちすすむことを祝った。

★魂の眠りを       
永瀬清子さんの短章集「彩りの雲」より

魂の眠りをよびさます言葉
昔から心の底に沈んでいて、しかもじっと眠っていた盲亀を
かき立て誘いだす生きた言葉
ああ、私は今まで眠っていたのだ。
いまこそゆすりさまされ、ひっぱたかれた、
昔から知っていたのだ本当は、と感じさす詩。
心の表面へ歓喜をもって浮かびあがっていく時の
水泡と痛いその擦過。

本日は我が師、永瀬清子さんの短章集から2篇をここに挙げて、
私自身への鼓舞と叱咤激励を、読者とともに、うるわしい果実のように、共有していだけたらとねがいました。

女性詩人としては最高峰をゆくかたなのに、意外にも知られていないのは不思議な気がします。ご自分にはたとえようもなく厳しく、他者にはたとえようもなく優しかったかた。

そろそろ、我が師、と言わせてください。永瀬さん。
人生そのものが表現へと結実する、その絶妙な言葉の際から私はどれだけ励まされ、立ち直したことでしょう。

けっして忘れることはありません。
「詩はね。ほんの何人かの人に聴いていただければいいの。
それだけで。あなたの言葉が伝われば…それで」。

そして、私は十数年、自作詩の朗読をも続けてきました。
岡山のご自宅に
キャラバンの途中でお寄りしたのが最後でしたね。
私の悩みなんて、ほんのちっぽけなものかもしれない。
それでも、どうか見守っていてください。
こんなところにも、
永瀬さんの詩の言葉の一字一句をささえに、
抱きしめるように、ゆたかな果実のように、
慈しみ、生きる私がいることを。

あなたのあのご実家の蝋梅の花の咲き始めた庭。
お墓参りに行かせていただいたとき、
本当にどんなところで永瀬さんが息をし、
人生の長い峯と峠をのぼり渡りしてこられたか
わずかに垣間見た
そんな感覚が交わっていくのを覚えました。

私はあなたの言葉をささえに、明日をも見つめてみます。
たとえ、明日がどれほど狭められていようと、
はるかな広がりと深まりを手放すことはありませんから。

2016年2月25日  午前2時半   米谷恵子

| 詩の世界から | 02:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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《詩》 若さ かなしさ  永瀬清子 その時瀕死の力をこめて私を呼んでいたのに そして波のように私にぶつかりなぐさめられたかったのに……


《詩》 若さ かなしさ       永瀬清子

東京の小さい宿に私がいた時
あの人は電話をかけてきて下さった
あの人は病気で私に会いに来れないので
それで電話で話したかったのだ

かわいそうにあの人はもう立てない病気
それでどんにか私に会いたかったのだ
こんどはどうしても会えないよと
とても悲しそうに彼は云った

あの人は私よりずっと年上だし
学識のあるちゃんとした物判りのいい紳士
そんなに悲しい筈はないと若い私は思っていたのだ

過ぎゆく人間の悲しさを
私は思いもせずに
長く長く電話で話す彼に当惑さえしていた
そして片手の鉛筆で
何か線や波形を描いていた

枯れ葉のように人間は過ぎていく
その時瀕死の力をこめて私を呼んでいたのに
そして波のように私にぶつかりなぐさめられたかったのに……
「人間ってそんなものよ」「病気ってそんなものよ」

私はああ、恐ろしいほどのつめたさ
若さ、思いやりのなさ
そそり立つ岩さながら……

私を遠くからいつもみつめていたそのさびしい瞳に
それきりおお 私は二度と会うことはなかったのだ

永瀬清子さんの最後の詩集…と思われる…「あけがたにくる人よ」所収
1987年刊行  思潮社刊

2016年2月25日 午後7時にここに掲載  恵子

| 詩の世界から | 02:31 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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詩》  ある施設の仮予約を取り消した

詩》  ある施設の仮予約を取り消した

ある施設の仮予約を取り消した、メモには1か月前の10月16日。
「希望」をゆだねたリアルな刻一刻の証のような日付


丁寧に断り、丁寧な返事が返ってきた。
電話を切った、涙が止まらない、号泣した、半時間。

その前に、大阪のある方に電話した。
「希望」のおもみと意味合いを、
もう一度じっくりと練り直すための第一歩。
最近はお笑い調で話すようになっていたけれど、
今日はマジだった。
当たり前だ。

渋谷がなんだ、世田谷がなんだー。
それはそれで、日本という国が刻んだ一歩かもしれない。
しかしだ。誰も、誰一人も切り捨てない、そういう歩みの一歩か。
お手並み拝見とはいえ、
こちらの道筋も手順も見えるようにしなければ。

それには、急いてはむしろならない、と肝に銘じる。
肝に銘じたぶん、腹に来る。
「断腸の思い」がまさにあふれ出るように、
私の涙は止まらない。
ひとりで泣く。叫ぶ。
号泣する。

「リメンバー のえ ルーム」に入る。

「のえ、もう恵子ちゃん、疲れたよー。疲れたー」。

のえが静かに笑っていた。

「こいつ、ちゃんと生きているかなあ」。
のえの隣にいる、最初の、
のえのオリジナル楽曲の誕生にたちあった写真の人影に向って、
私は、のえに訊く。
「そうか、そうか、地上でもう終わった関係なんだから、
うちが知るわけないってそりゃあ、言うよなー」。

「そっちにまだ行ってたりしなきゃ、いいんだよ。
まあ、どっちでもしょうないかあ」。

希望がなくては生きていけない。
ハーヴェイ・ミルクはそう語りかけた。

私もそう語りかけ続けている。

希望がなくては…。
希望がなくては…。

ひとつの仮予約という「希望」を別の希望に切り替える。

切り替える、ということはこんなにも力の要ることなのだ。
もはや…。

もうひとつの予約のキャンセルは明日かあさってにしよう。
でなければ、私は倒れてしまいそうだ。

何もかもが遅すぎる?

いいや、そんなことはないさ。
いいや、そんなことはない。

…もう、うちのことはいいんだからさ。
 まあ、二人もうちがいなくなって7年もたって、
 すっかり年くっちゃったけどさ。
 うちはもういいんだからさ。
 遅すぎるってことはないんだからさ。…

のえの声がした。
したか。
本当にしたか。

何もかもが遅すぎる、と思わないためには、
多大なエネルギーがまたもや要る。
要る。
要る。

人々の戸惑いや畏れ、
予定や優先事項?
くるくる変わる、
心情や思いに可能な限りは添ってきたつもりだ。
可能な限りは…。

ああ、でも、遅すぎない、と思うためには、
思うためには、
遅すぎないという「希望」を持つためには…。

そうして、
私はまた今日という日の夕刻を知る。
夕刻をかみしめる。

1日が暮れていく。
また1日が。

のえ亡きあと、7年と1か月と2週間。

誰にも痛くもかゆくもない月日。
誰でも忘れても生きていかれる月日。

いや、かみしめている、
人知れずかみしめている、そんな人もいるか。

天から降りて来い。
希望よ。
希望よ。

そうして、私をまた立ち上がらせてくれ。

2015年11月13日午後4時

米谷恵子

| 詩の世界から | 02:37 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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