fc2ブログ

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

自死遺族として、薬剤の副作用を見きわめる、余りに大きな必要性

「番組を見て、ほっとしたわ。ケイコさんが元気になって…。」
こう言われたことが、何回かあった。
おそらく、私が「薬剤パーキンソン」で、去年6月から、
とんでもない衰弱やら何やらに見舞われたことを、
とにもかくにも伝え聞いていた人たちのうちの何人かから。

おおい、違うだろう。番組はね。去年の5月までのものが99パーセントを占めている映像なんだよ。
それこそ、5月8日、ディレクターが昨年、ベロ亭を訪ねた去年では最後の日となった、
その時の映像までで。
例外は、私のクラスの映像とカラのインタビュー。
これは、もろもろの事情で今年になってから撮った。

それとは、反対に、私が薬剤パーキンソンで、
衰弱やら歩行困難やら、睡眠障害やらに苦しんでいたまさにその時、
助けに通ってきてくれた人たちの、多くはないが何人かが、
番組の感想やら、何もかもがノータッチという事にもなっていて、
不思議な感慨を抱いてもいる。
あんなに、親身になって遠方から通ってきてくれて、具体的に力になってくれた、
それも同じ性的少数者でもある人から、一切、連絡がなくなってしまった事実。

あんなに世話になったのに、ちゃんとに感謝を表明しきれていないからかなあ。
それとも、あんなに大変だったはずの私たち二人が、あんなふうに映像になったことに、
全くついてこれない、とか、そういうことなのかなあ。
本当のところは、本人に率直なところを訊かなければ判らないけれど。

あるいは。一昨日の日曜日、東京で行われた、ペルー関連の濃厚な内容のイベントに、
かつて『プエンテの会』を応援してくれた人たちを誘うために、何本も電話をかけた折のこと。

去年の秋、ベロ亭を訪ねてきてくれた、サナエと、サナエの友人たちともコンタクトのある、
鍼灸の心得もある、初老の男性は、私の久々の電話に反応して言う。
「精神的に調子が悪かったって聞いていますが、もういいんですか。」

ありゃりゃっと思う。

「そうか、そう聞いているのかもしれませんけど、
あれはね。薬害だったんですよ。
重とくな薬害である『薬剤パーキンソン』に見舞われた、
そういうことなんですよ。
それで、去年の九月十月は、睡眠障害とでもいうべきものが、
ひどくなって、かなり不安定になったことがあるんです。
そりゃあ、十分眠れなければ、人間、具合が悪くなるのは当然です。
でもね。それは、もともとは抗ウツ剤を増量されて、
ぴったり2カ月半後に発現した、副作用。
そしてそれによる二次被害、つまり、
その薬剤の中断によって生じた睡眠障害という点で、
まさに薬害だったんです。」

その男性は、鍼灸のプロだから、当然ながら、眠りに効くツボとか、
あれこれと教えてくれようとして話が続く。
どれも、もうよく知っているツボだから、
そして泣きたくなるほど、数限りなく、お灸をしたり、温灸をしたりしたツボだから、
もう聞きたくないくらいなのだけれど、黙って私は聞き続けついでに、
私の知っている別のツボも加えて言う。
あれれ、そのツボは知らなかったみたいだな。
私のほうが詳しくなっちゃったのかな。

これらのことが、語る真実とは。

これらのことが、何を語っているのか、とよくよく考えてみると。

誰もが、私が実の娘を亡くした事実のおもみと、
薬剤によって起きる副作用や、
副作用によって起きる薬剤の中断によって起きる
副作用の二次被害とでも言うべきものとを、
明らかに混同している、という事実が浮かび上がってくる。

無理もないよね。誰もが、私を身近に見ていた訳ではないんだし。

否、身近に、最も身近に診ていた女性鍼灸師の先生ですら、
あの魔の九月十月に関しては、どこか冷静な判断を欠いていて、
否、こういう言い方が不適切だとしたら、
私のダメージの大きさがあんまりだったことに、
そして、その治療ができたらもう二度と繰り返したくはない、
と思わせるほどのものになってしまっているから、
どこか記憶の軸が「狂う」んだよね。
まなざしの冷静さ、とでもいうべきものが、混線し、揺るぎ、ぐらつく。

そんなの、誰だって当たり前だ。
私はあの時、自閉症スペクトラム圏の人間の持つ、本来の特性が、
悪い意味でむきだしになっていたから、感覚過敏が大きかった。
聴覚も気温にも、とても敏感だった。

その範囲では、まあ、「不安障害」から来る、
受け入れがたいものに対する「パニック」も起きたし、
爆発させる力ももう亡くしていたから、
体ごと力が抜けるような事態になる、という、
まあそんな具合だった。
ただ、不安は不安を呼び、ちょっと強迫的になっていた側面は、今は否定しない。

あったりまえだろう。

頼っていたはずの薬剤が、私の体を歩けなくしたり、眠れなくしたり、とことん衰弱させたり、
その上で、頼るべきパートナーが大切な仕事で、手を離せなくなったり、
そういう事態に対して、不安が不安を呼ぶことになるなんて、あったりまえだろう。

こんな田舎に住んでいて、自分で車を運転することすら、
できなくなっていたんだから。


私はあの時、そう「バイバイのえルーム週間」の三月最後の週以来、
レスリンを増やされなかったら、どんな日々を送っていたか、もはや考えられもしない。
仮定は仮定でしかないからだ。
でも、少なくとも、薬剤パーキンソンは発症しなかったのだけは確かだ。
あんなに、耐えられない眠気を催す増量は、
絶対に受け入れてはならなかったのだと、今ははっきり判る増量ではあるのだが。

皆が皆、混同している。
私が娘を失った失意と、薬害で起きたことを。

あの時、増量されなければ、私は、「のえルーム」で得た活力をもとに、
戻ってきた、のえの荷物に、どこかで心痛ませながらも、
淡々と、のえについての原稿を書き、
その原稿は本とCDになって、とおに出版されていたのだろうか。

私は、のえが亡くなって、1年とちょっとの月日で、出版社と話をつけ、
のえのCDブックを出す話になっていたということを、
今、どんなふうに、これを読んでいる人は、考えているのだろうか。

なあんだ。ケイコさんの頭の中だけの話だと思っていた。そう思うのだろうか。


ひるがえって。

自死が身近な肉親に、あるいは、大切な親友に及ぼす、はかりしれないダメージは、
いつわりない事実として厳然としてあるのも事実だ。

あの、のえの急逝に、あの時、私がレスリンに頼っていなかったとしたら、
果たして乗り切れたかどうかは、本当のところは誰にも判らない。
ただ、あの時、レスリンで、どんな時でも、
確かな深く長い睡眠を確保できていたのだけは事実だ。
薬を持っていきそこねた、あの10月5日以外は。

ある自死遺族の会の事務局を担当しているという、
若い人の体験談として読んだことがある事実。

彼女は、実の母の自死によって、2年間、
床に伏せったまま立ち上がれなくなってしまったというのである。

もうひとつ。あれはテレビの放送だったなあ。

大切な、大切な、親友を自死で亡くした友である、その女性は、
以来、原因不明の体の痛みに悩まされるようになったという。
どこの神経も、飛び上がるほど痛むといった、絶え間ない症状に。

それらは、私にとって、人間に起こりうることとして、
十分に想像しうることでもあった。

そう、私の親愛なる行きつけの女性鍼灸師の先生は、言ったものだった。

「本当は、ケイコさんの体に何が起きていたのか、
私には想像を超えるものがあるのは確かです。
大切な肉親を亡くす、ということは、
人間が生まれながらに持っている『先天の気』というものを、
かなりの大きさで損なうという体験だからです。
その上で、薬害に見舞われた、ということは、
そのダメージが想像もつかないものとなる可能性は否定できないと思います。」

床から起き上がれなくなった女性も、
体中の神経的な痛みから逃れられなくなった女性も、
きっとそんなふうに『先天の気』を、
底なしに奪われるような体験をしてしまったと言えるのだろう。

だけど。だけどね。
ここのところは、踏み外してほしくはないのだ。

だから、だからこそ。

そういった、底なしの壮絶な体験をしてしまった人ほど、
薬害に見舞われやすくなっている、という事実を、
けっして忘れてはいけないということ。

そのことが、夜の闇の中に浮かび上がる、絶対的な真実のように、
燦然と浮かび上がってくるのを、私は絶対見逃してほしくないと、
とことん思うのだ。

医者も医療者も、看護師も、精神保健福祉士も、社会福祉士も、
カウンセラーもセラピストも、薬剤師も薬品会社の関係者も。

ましてや、その当人が、自閉症スペクトラム圏に属しているなら。
言いかえれば、発達障害に近い特性を持つ人なら、
その薬剤過敏性は、いやおうなく高まるのは目に見えている。

そう、現在日本中で問題になっている放射能への過敏性が、
一人一人違うのと同じように。
小さな子どもほど、過敏であるように、
小さな子どものような魂を持つ、自閉圏の人間は、とりわけ過敏な存在であるってことを。

このあいだの、日曜日。
信頼する、リベラルな異性愛者のカップルが、ベロ亭を訪ねてきて、しばしの時間を共にした。

女性のほうは、お腹が大きくて、そう妊娠八カ月で、私もヒデコも、
自身の、はるか昔の、妊娠体験やら、出産体験やらを話すことになった。
私は、当然ながら、18歳の時の、のえを出産した体験も、
26歳の時の、カラを出産した時の体験も、
まるで何事もなかったかのように、
しかし、どこか深いところでは「大盤ぶるまい」するような気持ちで、
話に話していた。

「生まれる」とか「産む」という話題に関しては、表向き、何事も支障はなかった。

ただ。
ただ、のえの音楽を聞いてもらおうとしたり、
のえが亡くなってからの、
微妙な、元子どもたちへの思いの変化に多少関わる話になったとき、
相手が一切コメントしないことに、やがて私は気づいていた。

日本人のリベラルさなんて、この程度なのか。えっ?
生きて、生きて、生き切って逝った者に対する、
哀悼の意なり、ささやかな、ほんのささやかな、
いつくしみの気持ちでも伝わってきたなら、
それはどんな小さなものでも、
私自身の、ヒデコの、はかりしれない慰めと癒しになるというのに。


なぜ、日本人は、死に対して、思考停止になるのか。
なぜ、日本人は、自死に対して、思考停止になるだけではなく、
まるで聞こえなかったことであるかのように、沈黙を守るのか。

少なくとも信頼を寄せ、友情を育みかけていた、その人との距離が、
急に大きく開いた感は否めなかった。
一言で言えば、その事実は、一挙に私を「白け」させたのである。

そう、彼女は、お腹の中の子どもの事で頭も心もいっぱい。
それで、おそらくいいのだろう。
ほとんどの人は、それで、おそらくいいのだろう。

その人の人生に、そう、何事も起こらなければ。


一方で。
自身も、ODの経験がある、アナーキーな思想を持ち、
今は薬物依存回復施設に関わる、ある人からの手紙には、
ごくごく自然と、あの番組を見た上での、のえへの思いが記されていた。

そして、のえのCDの棚に並んでいた、
シド・パレットのアルバムに、精一杯思いを寄せる文面が続いた。

なんなのだろう。
レアな生と死が、見えなくなっている日本。
本当は、次々とODで、薬物依存で、人々が救急搬送され続けている日本。

その一方で、特に心療内科で出される薬剤による薬渦は、
限りなく広がり続けている。

そこをちゃあんとに見据えて、解決していけば、
ODで亡くなる人だって、もっともっと減るはずさ。
命取りになるだけの、無駄な大量処方だってできなくなるはずさ。
私みたいに、人知れず、薬害に悩まされながら、
こころを尽くしてくれるパートーや信頼する鍼灸師すらおらず、
ついに死を選ぶしかないかもしれない人だって、きっと救われるはずさ。

そして。
そして、漢方や、鍼灸治療がどおんと見直され、
私たちの本来持てる動物としての力、エネルギーも、
きっと、もっともっと甦っていくはずなのにね。

バイバイ思考停止。
バイバイ薬害。

そして、できることなら、少しずつでも、
自死する人がいなくなることを祈りつつ、
今日の二つ目のブログをそろそろ終えようか。

聞こえている? 私が何を言いたいか。
えっ?!

ケイコ
スポンサーサイト



| 副作用ラプソディ | 19:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

脳細胞は溌溂、だけど、無期限リハビリ中

7月15日午後、昼前に越前市内の小さなJRの駅から二人で出発して、
敦賀から新快速でことこと、新大阪駅の近くの上野クリニックに、
午後一番の診察に間に合うべく向かった。
ここは、1月からひと月おきに通い始めた、
漢方で保険診療をする内科と心療内科を併設したクリニックだ。
奇数月に行き続けているから、これで4回目の診察だった。

ここでは、私は眠るための、サンソウニントウという生薬の漢方薬を、
この先生独特の見立てで、私用にアレンジしてもらったものを処方してもらえる。
元物理学者というこの先生のアレンジは、なかなか微に入り細に入りという感じで、
地元福井の自費でかかっていた、生薬を出す漢方薬局の出す、
サンソウニントウが胃にきつかったことも、この先生のアレンジであっという間に解決。
1月の初診の日以来、二日に一遍、漢方薬を煎じて飲むという行為が、
まさに体に良い兆候をもたらしている実感を、まざまざと得ることができた。
なんと、それ以前は、典型的なサンソウニントウの煎じ薬を飲むとき、
必ず西洋薬の胃薬を同時にのむという愚を、承知の上でおかしていた。

2か月に一回のペースで通っているのは、一日分の煎じ薬を半分ずつ寝る前に飲むからだ。
そして、それ以外の西洋薬、漢方薬のエキス剤は、この先生の見立ての上で、
地元福井の、例の副作用を出したクリニックから転院した先の、
女医さんのクリニックで処方してもらっている。
つまり、1月以降、私の主治医は、ファーストがこの新大阪の先生、
セカンドが地元の女医先生という感じ。
いや、セカンドはほとんど無力で、
ファーストの指示を尊重してくれることで助けられている、という感じだ。

去年の今頃は、広い所に行くときは、車椅子が必要なほど、弱っていたし、
体はこわばり、筋力もどんどん衰えていた。
重とくな副作用「薬剤パーキンソン」の発現は、体力、歩行する力、のほとんどを奪ったと言っていい。
あの時期を乗り切れたのは、他でもない、地元で行きつけだった鍼灸師の女性の、
献身的かつ専門的な治療あってこそ、
そして、パートナーの英子の、玄人も時に驚かせるような、
東洋医学的なつぼや灸の勘と知識と探究心あってこそと、私は今もひしと思っている。

そして、ちょっと前までは、その鍼灸師の先生に言わせれば、
「そうねえ、体力は一番落ち込んでいたときは二割くらいだったけれど、四割か五割戻ったかなあ。
筋力は、右足三割左足五割だったのが、六割くらい戻ったというところかな」と言われていたものだが、
最近では、体力も筋力も七割近く戻ったというところらしい。
ちなみに、最初、両足の筋力が不ぞろいに戻っていたのは、右足を昨年8月末に、捻挫したという、
リハビリ中の身には、手ひどい打撃が、割に最近まで尾を引いていたということがあるのだ。

ここまで、読んだ皆さんの中で、
自分の体力が二割に落ち込むという経験をした人なんているかなあ。
それが、どんなに頼りなく、よりどころなく、
せつなさをせつなさとして感じる余裕すらなくすものであったか、
まあ、よっぽど、死ぬほどの病気体験でもした人以外は、想像できないものだろうなあ、
と思うほどの衰弱だったことは確かだ。
ただし、鍼灸師の先生は、体力が二割まで、昨夏の一番ひどい時に落ち込んでいたことなど、
けっしてその当時は口に出さなかったけどね。

さて、気力と言えば、間違いなく、以前の私を取り戻したという、確かな実感がある。

というのも、私もまた自分の体に、真剣にとことん向き合わねばならない、この月日を経て、
もう一人のファーストオピニオン的ドクターとも言うべき、
ある方との出会いが、この春にあったことも大きい。
実は、この先生とは、個人的にメールでやりとりが続いている。
そして、最初にきっぱりと言われた「西洋薬を一種類に減らすべきだ」という助言を、
私は徐々に実行に移すことにした。

最初に、メイラックスという長時間タイプの抗不安薬を2ミリグラムから1ミリグラム、
つまり1錠にかえた。すでに1カ月以上前の、6月19日のことである。
それから、もう、5年なんてもんじゃない、長い長いつきあいの、
短時間型の抗不安剤、レキソタンを一日に最高3錠程度から、徐々に減らして、
ついに、7月9日からゼロにすることができた。

メイラックスは、昨年からの短いつきあいだから、さほどではなかったが、
長いつきあいの、それこそ「パニック発作」時に頓服としてものんできたこの薬レキソタンとの決別は、
私にとって大きな意味を持った。
漢方の煎じ薬で一晩、8時間とか9時間、通しで眠ることに成功したときには、
つまり、西洋薬は、メイラックス1錠だけになるから、
以降、頭の冴え方が全く違ってしまったと言っていい。

脳細胞のすみずみまでが、私は恵子でえす!! ってな感じで、
晴れやかに生物として甦った感覚がはっきりとあり、
その分、文章もすみずみまで、みずみずしく冴えわたり、
思考も感覚も、本来の、そう10年以上前の自分を取り戻した実感がつよい。
とはいえ、思考する私は、それ以降10年以上生きているから、
内容的にはそれ相応の年齢のものの上で、というのは言うまでもないけれど。

だが、漢方の煎じ薬、サンソウニントウアレンジで、
一晩通しで眠れる日は、そんなにコンスタントには続かない。
番組の放送以前は、そんな時もあったけれど、
世の中のこと、私自身がすべきことにアンテナを立てるようになるにつれて、
脳細胞もそれなり活性化して、短くて4時間、最低で2時間という時もあったけれど、
これは例外、だいたい5、6時間のことが多くて、
そこで、最低時間の睡眠剤、そう内科でも置いてある、
あのマイスリーをどうのむかが、私の一瞬の勘所となる。

私は8時間は眠らなければつらいな、という人だから、6時間というのはちょっとつらい。
7時間眠れていた時は、まあいいか、眠くなったら昼寝しようということで、起き上ったこともある。
ともかく、眠り足りない分、マイスリーの登場となる。
これを半分の5ミリで終えられるか、それが効かなくて、最大の10ミリグラムにするかは、
自分の眠気や、5ミリのんでみた結果で決める。
へたをすると、一端目覚めてから次に眠れるまで一時間くらいあくこともあるけれど、
最近はもう少し要領を得て、割に間をおかず寝られるようになってもいる。

マイスリーについては、かなり多くの人が知っていると思うので、付け加えておく。
この短時間型の睡眠剤。実は、メーカーは睡眠導入剤として売っている。
寝付きの悪い人のための、睡眠導入のための薬、といううたい文句で売り出されていると言うべきか。
だから、午前零時までには、のまなくてはならない、ということが注意書きにある。
これは、朝方とかにのむと、その日のある程度の時間まで、
どことなく眠気が引っ張るということがあるからだが、
私は、マイスリーの血中濃度の半減期の2時間か、すっかり血中からなくなる4時間以上は、
余り眠ったためしがないから、…それにしても、なんと我が体は薬にぴったし反応するのか!…
起きぬけの2時間から3時間、運転する時には注意する程度でクリアーしている。

以前は、零時前までにのむことを厳しく言っていた、地元のクリニックの先生も、
最近は私独自のやり方に口をはさまなくなっている。
要するに、マイスリーは、短時間タイプの最も軽い部類の睡眠剤にすぎないのだ。

はてさて、私は、7月15日の、新大阪のクリニックでの診察時、最後に先生に訊いた。
「いったい、いつになったら、私は自力で眠れるようになるのでしょうねえ??」
先生は、さらっと、なんということもないような口調でこう言った。
「そういうことは、余り考えないようにしましょう。」

そうか。そうか。
その時、忽然と、私の中に、「無期限リハビリ中」という言葉が現れた。

放っておいたら、10時間でも、へたをすると12時間でも眠れた、若い時の私が懐かしかった。
そう、子どもたちに「眠り姫」の異名をもらったくらいの、よく眠る母ちゃんだった私だからだ。
それは、他ならぬ、「自閉症スペクトラム」というか、「発達障害」というか、
そういう特性の持ち主の多くが持つ、睡眠効率の悪さゆえだったと、最近になって判明したが、
そして、自閉度の高い、施設にいるような子どもたちは、
48時間単位で生きている子もいると聞いたくらいだが、
そんな私ゆえに、薬への敏感度もかなり高いゆえに起きた、重とくな薬害によって、
「不眠症」なんて生易しい次元の問題ではなく、眠る機能をまさに奪われたという事実が、
ここまで私の人生において、尾を引くことになった事実は、
皮肉としか言いようがないと、あらためてつよく思った。

それでも。

いいや、それならそれでいい。私も、そんなことは考えない。
いつ、自力で眠れるようになるか、なんて。
一日おきに、煎じ薬を煎じ、それで必要な睡眠がとれなければ、マイスリーで補って、
ゆっくりじっくりやっていこうではないか。
我がいとしき薬剤「過敏性」と向き合って、一日一日を生きていくだけだ。
そう腹をくくった。

ただ、東北の被災地にはせさんじたい、そう思う時に、
このことがはっきりと邪魔をしていることを意識するのはつらい。
一日おきに、煎じ薬を煎じなければ、眠ることができない人間が、
被災地入りすることは、きっとハタ迷惑に違いないから、
そして、もっと眠りが不安定になるような、
ショックなことなどに対応することは避けなければならないから、
などと思うのが、かなり悔しい。

私は、娘を亡くすという、つらい体験をしているから、
そういう体験をしている人と話すことは、きっとできるだろうと、ひしひしと思う。
でも、今は、この心身と向き合って、原発銀座の福井でゆっくり生きる。
それが私に課せられた人生なのだ、と言いきかす。

そう、私は無期限リハビリ中。
レスリンという抗ウツ剤による薬剤パーキンソンの無期限リハビリ中。

体力は七割弱くらい。筋力もそんなものかな。
暑い夏が来る前は、近隣の田園風景の中をしっかり歩き続けてリハビリした。
今は、書斎の二階と、プリンターがあり、台所など生活の場がある一階との、階段での往復が、
一番の筋力回復のためのリハビリと心得て、ふみしめふみしめの階段の上り下りに余念がない。
うっかり、駆け上り駆け下りを続けたら、股関節をひどくやられたり、
右脇ウエスト部分にひずみが来てひどい痛みが出たりするから。

いいさ。たとえ、一生サンソウニントウアレンジにお世話にならなければならないとしても、
私は私に起きたことを言い伝える。
それができるそれなりの気力と、ささやかな体力だけは取り戻したのだから。

ちなみに、発達障害におけるパニックには、
漢方のエキス剤、カンバクダイソウトウがよく効く。それに、パニック発作にもね。
だから、レキソタンがやめられたんだけど。
これは、ぼちぼち文通している、例のドクターの著書から拝借した知識。

それから、やっぱり発達障害というか自閉、の人が陥りやすい、怒りの発作というか、
イライラには、ヨクカンサンが効く。
私は虚症だから、ヨクカンサンカハンゲチンピというのを使う。
余計なカタカナ部分は、胃にやさしい成分。漢字で書くと、抑肝散。
つまり、東洋医学的には、肝臓が怒りをつかさどる臓器なのである。

あとお世話になっているのは、年末頃だったかキヒトウから切り替えたジュウゼンダイホトウ。
これも、漢字で書いたほうが判りやいすだろう。
十全大補湯。十種類の生薬で、弱った心身の「気」を補う、最も代表的な補気剤。
大病を患った後、内科などでも処方される。
そして、大きくは、じっくり「気」を補って、抑うつ状態などにも、じわじわと功を奏す。

それにしても、考えられないほど強くなっちゃったね。東洋医学の知識に。

本当に、日本の医学界は、東洋医学をもっときちんと取り入れ、認めていかなければ、
ますます西洋薬の薬剤による被害を増やしていくのは必至。
まずは、心療内科、精神科において特に。

ただ、「統合失調症」については、私はまだ研究や知識が不足している。
まぎれもなく、統合失調症である場合、それは今のところ、
薬剤によって心身のコンディションを整えなければならないのは、
動かしようがないような感じだから。
そこにも、慎重に、きちんと踏みこんでみたい。
課題は大きすぎるけれど、これは私の経験のみならず、
娘ののえが、そして、息子のカラが、残してくれた課題だと常に思っているからだ。

後の人生の半分は、きっとこの事に費やすだろうなあ。
精神医療の真実をわしづかみにする、ということに。

そう、ぐわっと、わしづかみに、してやるのだ。

ケイコ

| 副作用ラプソディ | 16:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

断薬前後の日々……体の声を聞きだして、なるたけ淡々闘病記1

明日が、断薬から一年という日に、花への思いにかさねて、少し書いてみてからも早二週間くらいかな。

「副作用ラプソディ」もいよいよ「闘病記」の領域に入ろうとしています。
これはなかなか、書くほうも覚悟と意志と決意が要るものです。
でも、もう気づけば21日。時の流れにゆだねている訳にはいきません。
思い出せば、今でも涙が体中に震えが来るほどの悔しさと共に溢れるほどの体験。
それをこのブログに記すということ。

それは、二度と同じような経験をする人がいなくなることを願ってしかできない表現でもあります。

だから、読む人も、多少なりとも覚悟してくださいね。
でもね。このシリーズ、大枠は「副作用ラプソディ」、これからの中くらいの枠は、
そうですね、「体の声を聞きだして、なるたけ淡々闘病記」ということで、
少しずつ、時間と共におって行きたいと思います。
おっていける範囲だけになるかも。どこまで追っていけるか判らないかも。
でも、私が手放す訳にはいかない課題。

福島県の小学校の校庭で子どもが浴びてもいい放射線量が、
20ミリシーベルトに上げられたとき、
まるで、副作用が起きない範囲が上げられた時みたい、
と思いましたか、それと同じことをある精神科の医師が書いているのを発見しました。

その方は、なんとか漢方薬もおりまぜて、
向精神薬の罪作りな現実に一石を投じたいと奮闘している心療内科のある医師。
もしかしたら、そのうち、その先生と共同研究ができるかも。
お互い毒舌では負けないくらいのようだから、
こちらさえ、スタンスをはっきりもっていけば、可能かも。

でも、その前に、私は私の記録を綴りはじめなければ。
そのメモは、日本語教室の授業の記録がいつの間にか、
闘病記録となった2010年の大きめの手帳に記されています。
ぎっしりとその日の体調、眠りの記録、何をして何ができなかったか、
などが記されています。
断薬以降。そして、特に詳しくなっていったのは、
断薬直後の地獄の日々から少しだけ脱した、そう21日頃からだったのです。

5月9日に、番組のディレクターがベロ亭に来ました。
その日は、どうしても、ある程度の時間が来ると、体を立てて、座ったままでいることができず、
途中で横になりにいった記憶があります。
まさに始まっていた証し。副作用の現出の証し。

でも、あの4月の言い知れぬ焦燥感とか、あれこれ書き出せることも、
前述のU医師に伝えたところ、全て副作用と言われました。
私も、ある時点からそう確信するようになりました。
そして、つい最近、こういう専門の方からも後押しされたという訳です。

腎炎になったことは書きましたよね。それが意外に早く治ったのに、
クラスに復帰することすらできなかった、なぜか判らない弱りようの中、
5月19日、レスリンはとうとう100ミリグラム、つまり4錠に増量されました。
「どうせ寝ているんだったら、増やしてゆっくりしていたら…」

26日、陶芸祭直前の忙しい盛りだったのに、
背中のこわばりが取れない中、
福井市の評判のいい泌尿器科にセカンドオピニオンのつもりで、
腎炎をみてもらいに。
全快していて、背中のこわばりは関係がないとの診断。

6月2日。レスリン100ミリグラム続行。余りの眠気を訴え、
クラスのあるときは、75ミリでもいいという診断。
歩きにくさは日に日に増していくばかり。

陶芸祭に出向いていくのもやっと。これについてはすでに書いた。

2日と3日、中三の日系ブラジル人の女の子の授業をするが、とてつもない疲れ。
声もやっと出した感あり。社会科はヒデコに手伝ってもらう。

4日。夜。体中がこわばり、固まったような感じで、
どうにもならないつらさでシッテンバットウ。睡眠時75ミリに減らす。
翌5日も夜。同じように、体のこわばりで、シッテンバットウ。
ヒデコはそのたび、マッサージしたり、なでさすったり、ありとあらゆるケアを試みる。
この三日間は睡眠時75ミリ、昼25ミリとする。

7日。結局最後となったレスリン50ミリグラムを睡眠時に。
やめる訳にはいかないが、それ以上のめないと本能的に働くものあり。

8日。診察の折、上述のことなど、陶芸祭のときのこと、
買い物が途中までしか続けられないこと、
二日間シッテンバットウしたことなど、正確に淡々と全て語る。

先生、身を乗り出して、
「あなた、それは『薬剤パーキンソン』ですよ」と私の両肩を抱きかかえるようにして言う。
「じゃあ、今日は25ミリにして、明日からゼロ。いや、今日からゼロ。そう、そうしましょう。
一週間で抜けますから、1週間後に来て下さい」
診察室に入る時から、歩き方が変だと思ったと言われた。

後に、「薬剤パーキンソン」を検索などして然るべき文献などで調べていくと、
その症状が消えるのに、最低でも二ヶ月、場合によっては半年程度かかるとあった。

副作用と確定した日の帰り、10年以上前に亡くなった旧友の娘さん宅を訪ねた。
私はそこに置いてあった大きめの椅子にへばりついたまま、ほとんど動けなかった。
トイレに立つ時も、ようやくこわばった体を起き上がらせた。

途中で入ったレストランでは、ヒデコと、
「抗ウツ剤をやめた、素のままの自分がどんなものだったか、戻れるとしたらうれしいなあ。楽しみだ」と
その後の現実の厳しさ、残酷さを知らなかった私はきわめて前向きに語った。

明けて9日朝。それまでいつも眠気との戦いで、昼間から濃いコーヒーをのむようになっていた私は、
その日もコーヒーを朝というか昼兼用で飲んで、間もなく、
とてつもない動悸息切れに見舞われた。ソファに倒れこんだ。
これが、以後3ヶ月近く、私を悩ませつづけた動悸息切れの始まりとなった。

夕方、そのソファから立とうとして立てず、歩こうとして歩けず、
ヒデコ、心療内科の先生に電話。
事務の人、「点滴でもするといんいですけどねえ。」
ヒデコ、「先生と話せないんですか」
やがてヒデコは、行きつけの内科に点滴に行くように言う先生に、
「先生のほうから紹介状をファックスしてもらってください。そうでなければ、
説明しにくいじゃあないですか。」と通させる。

そうそう、この日は最初、歩きにくかったかした段階で電話したとき、
「水分をできるだけとってください」と事務の人に先生経由のことを言われたりもした。
上記のことは、その末で、実際歩けなくなったときに、訴えた末のことであった。

この日は閉院間際の行きつけの内科で点滴をしてもらう。
即席に近いもので、約20分か30分弱。少し眠れた覚えがある。

10日11日も点滴に通う。十分時間が取れるように早めに行く。約一時間ずつ。

眠りは、抗不安薬レキソタンで、ごくごく淡い眠りを何とか確保していたと思う。

10日夜、高山病のときにも経験したことのない、
今までで一番ひどい頭痛を体験。翌日、内科で一番強い鎮痛剤を処方してもらう。

この頃から、私が眠るためのお灸治療をヒデコ開始。
ひどい頭痛でのたうちまわった時も、なんとかやわらげようとあらゆる手を尽くしてくれた。

12日13日、土曜、日曜にもかかわらず、行きつけの鍼灸院で、
鍼灸治療。脾臓、肝臓、腎臓の衰弱をなんとか整える治療とのこと。
軽いパニック発作の記録もある。

15日、心療内科。一週間後。動悸息切れを訴え、体の衰弱も伝えると、
紹介状を書いてくれ、翌16日、一日がかりで、福井県立病院で精密検査。

歩く力も残っておらず、広い病院内を車椅子を五歳年上のヒデコに押してもらって移動。
大病院の待ち時間の長さがつらく、ひたすらベンチに横になったり、自衛するが耐え難い。

検査の結果は何も悪くはない。
「この人何も悪くないですよ」と人を人とも思わぬ態度で、
衰弱しきった人間を前に、体のひとつにも触れない医師の態度に愕然。
もうひとつ、時間のかかる検査を勧めれるが、断る。
空腹も含めて、疲労と衰弱は極限にあった。

県立病院のレストランで、鳥のから揚げ゛セットを平らげる。
おいしかった。飢えていた。体がまさに必要としている栄養が入っていくのが判る。

大声で、先生への不満。
「こんななのに、どこも悪くないなんて、よく言えたもんだ。
だから、西洋医学の検査なんて信じられないよ。とりあえず、
何も出てこなかったのは良かったけれど、それでもどうにかしなくちゃねえ」

不満、抗議、そういうときだけは、どんなに衰弱していても、
そこいらじゅうに響き渡る声を出せる私はそのときもいた。
まあ、唐揚げ効果は大きかったんだろうなあ。
ヒデコにそんなに大きな声出すんじゃないの、とたしなめられたくらい。

でも、そんな元気もほんのひととき。
とにかく、この検査漬けの一日のつらかったことといったら。

まあ、気休めということで、
この日も点滴をしたけれど、あれって何の意味があったのだろうか。

19日土曜、ヒデコのがくぶち屋さんでの展覧会の打ち合わせにつきあい、
福井市の漢方薬局に寄って、帰脾湯をすすめられる。
7000円台の出費は大きいが、抗ウツ剤をやめたかわりのものを、
漢方でそろそろ始めなくては、という判断があったからこそ、
車に揺られるつらさを押して、出かけたのだった。

がくぶち屋さんでのヒデコの打ち合わせを、やっとみつけた椅子に座り、
待っていたときの、背中のこわばり、体中が鉄のようになった感覚、
そう、自分の体が鉛のようになってしまったそんな状態に、
「もうすぐ私は死ぬのかなあ」とたしかに思う。
生きた心地がしない。早く終わってほしい。ひたすらヒデコの用事を待つ。

このときは、ここの和式トイレをそれでも難なく使ってはいた。
その二ヶ月ほどあとに、ここに来た時は、この和式トイレがとてもつらく、
泣きたいほどだった。なんとかつかまったり、バランスを取ったりして、
用を足した覚えがある。ただ、このときはまだそこまで、
足腰が弱っていた訳ではなく、むしろ背中のこわばりがひどかつたという訳だ。

帰脾湯のみ始める。おいしく感じることから、証しが合っているのだろうと判断。
のみ続ける。

断薬から二週間近く。小刻みな夜の眠りしかできないつらさの中、
21日月曜、心療内科へ。
漢方を処方してもらえないか、との私の申し出に、
「漢方はききませんよ」と一喝。
この日から、長時間タイプの抗不安薬メイラックスが処方されるが、
新しい薬への不安から、少しずつだけのんでみる。
そう、二錠と言われたが一錠にしたのだ。
翌朝、ものすごい頭痛。

お見舞いがてら来ていた娘のサナエに、こんにゃく湿布などでなんとかケアしてもらう。

抗不安剤が変わって、そのために増える私の中の『不安』という現実。
これが、その当時の私の紛れもない、笑い話のような現実だった。

それにしても、車で一時間揺られて、県庁所在地の福井市のそのクリニックまで、
出向くのは、それまでの日々、とにかく一回一回、
拷問のようなつらさだった。

昔、CP、すなわち脳性まひの友人を車の助手席に乗せて疾走したとき、
彼が、すまなさそうに、
「もう少し、遅く走ってくれませんか」と、
まわりきらぬ口で言った時のことが思い出されたものだった。

ケイコ          2011年6月21日夕刻記す

| 副作用ラプソディ | 18:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

話題の「このパンおいしい」シーン、のこちらと向こう……断薬一年目の今日、庭の花たちが語りかけること

kurema
hati

またまた、カテゴリーに迷う。この日記には、時折「シリーズ花」というのがあって、
なんだかややこしげな、面倒っぽい人生の課題の合間の息抜きのように、
私の大好きだった(あえてまだ今は過去形)、手抜き園芸の成果で、
この花咲いた、あの花が種もまかずに自生ぽく咲いた、
とかいう話題にことかかなかった。
特に、春から夏にかけてはね。

そんな話題が、この一年余り、ぱたっとなくなった。

それは、私が、いかにも私らしい、雑草も抜かないくらいの
ご自慢の?手抜き園芸で花を咲かすことすらできなかった、
この一年の闘病の日々と重なる。

そして、今日。
歩きにくくなったり、
体中のこわばりにシッテンバットウする二晩をへたあげく、
こまごまとそれぞれの症状を細かく診察時に語ってみれば、
「それは、薬剤パーキンソンですよ!」と
あの心療内科の医師が身を乗り出して断言した日から、
そう、今日でちょうど一年。

では、その先生に電話でもしてみるとしましょうか。
もちろん、仮想ですが。
仮想ということが、何を意味するかなんですが。

「もしもし、先生ですか。
ええ、それなりには元気にしていますよ。
気持ち的にはね。

でも、まだ足腰はとても疲れやすくて、
まるで元気な人みたいに手加減を余りしないで動くと、
そりゃあ、もう、疲れ果てて目も当てられたもんだはありませんけどね。
一週間、場合によっては二週間は伸びますネエ。

ああ、眠りですか。
そうですねえ。マイスリー以上の睡眠剤はのみたくないですから、
まずはサンソウニントウという漢方薬をアレンジして貰ったものを
今はのんでいます。先生ご存知ですか。
新大阪まで、私二ヶ月に一回出向いているんですよ。
心療内科を漢方でされている、もともとは物理学者の先生がいらして、
微妙な、本当に考えられないほど微妙なさじかげんで、
サンソウニントウアレンジも私の状態に合せて調整してくださっているんです。

これで、六時間は眠れるようになりました。
でも、眠る前に頭がさえるようなことがあると、
これが三時間とか四時間とかになることもあるんです。
で、マイスリーの登場です。
一時は2.5ミリグラムで眠れるくらいになっていたんですが、
今じゃあ、10ミリグラムでも眠れません。
そう一日の最大量を、普通なら深夜までには飲まなければならないというのに、
眠り足りないときの予備として、
しかも今はまたもとに戻って、最大の10ミリと、
サンソウニントウのエキス剤とを合せて、
朝方にのむということをして、どうにか眠りを補足しています。
だいたいは、7から8時間は睡眠を確保。
へたすると、6時間しかってときも。
これは、もう漢方だけですましてしまえ。って思うときにそうなります。
それから、うんと疲れたときとか、
六時間の漢方のあと、マイスリーの四時間で合せて10時間眠るときもありますよ。

先生は、一年前、「漢方は効きませんよ」と断言されましたが、
こういう訳で、私は西洋薬と漢方薬の併用でなんてかやっています。
一日おきに煎じ薬、ちゃあんと煎じていますよ。
この漢方薬には、眠り成分のみではなく、私のそのときそのときに必要な、
そんな成分が微調整されています。
その上で、マイスリーで補足。最低二時間しか眠れないときから、
ぴったり四時間まで、まあ、血中濃度の半減期まで二時間ですから、
まあ、私の体はいかに薬に対して正確に反応するかが、
この一年で体験済みですよ。
あとは、メイラックスとレキソタン、
これはしばらくは、余程安定感が得られたなあ、と思うまでは、
のむつもりです。抗うつ剤とは違いますから、最低限の量ならと。」

こんな話を、今も穏やかにできる先生だったら、どんなにいいでしょう。
前はいい先生だったんですよ。
だけど、去年の十月に会ったとき、
「薬剤パーキンソンってあなたなんですかあ!」って言ったんですからね。
こちらも負けませんよ。四時間くらいしか眠れない中で、
ふらふらでも、意志と気力だけで言いましたよ。
「先生がおっしゃったことじゃあないですか!!」

思えば、私の発達障害のセカンドオピニオンも認めていなかった、
そのことはどこから見ても明らか。
なんでも、「うつ」にしてしまう医者の典型だったかもしれません。

でもね。この先生、話だけはしてくれたんです。大切な節々にはね。
だから、今でも人気はあるんでしょうねえ。
重篤な副作用を出してあわてちゃったんでしょうけど
こういうときに、人間って本性をあらわしますよねえ。
医者の沽券というか、男の権力があらわに。

まあ、このくらいにしときましょう。

実は、これを書いている途中で、大きなパニック発作に襲われました。
そして、抗不安剤で一番長い間のんでいる、
レキソタン二錠をのみ、それでもおさまらなくて、
胸のうつのつぼにお灸をしました。そしたらすうっと眠れました。
またまた爆睡。疲れているなあ。
3500歩のウォーキングを暑い中したあとだったからかなあ。

さて、こんなに長い「副作用話題」のあとには、
あたたかな花シリーズに戻すことにしますね。
じゃなきゃ、私も読者もかわいそうってなもの。

実は、今日、やっと、陶芸祭の搬入の手伝いに来てくれた県内のビアンの友達からの、
鉢植えの植物の全てを植え終わりました。
長いこと、していなかったことなので、わずかに残っていた負担感をふりきって、
そうだ、あの食卓を思い出して、贈ってくれたんだと思いながら、
丹念に土を足し、鉢も選び、きれいに植えつけました。

庭には、私の世話がなくともたくましく自生しているクレマチスの花が、
紫色の大きな花びらを開かせ始めています。
つぼみもいっぱい。
大丈夫、大丈夫、世話なんかしてもらわなくとも、
私達勝手に咲き誇りますからねえってな感じ。

自生している勿忘草も地面から、あっちに青、こっちにやや赤いのと。

花壇には、雑草に混じって、薄紫色のロシアンセージが、
私たちだって負けないもんってな勢いで、咲き乱れています。

春に意を決して少しだけ植えたパンジーやらは、
もう季節が追いつかなくなってきて、ややへたり気味。
夏の到来と共に、だんだん勢いがなくなっていきますからね。

何年越しで育て守り続けていた花々、花木、
大半はこの一年の私の副作用による大病で全く世話してやれず、
ほとんど立ち枯れてしまいました。
ヒデコはもちろん、私の世話でかかりっきりでしたしね。

震災で大切な人も、何もかも流された人に比べたら、たいしたことじゃあないや。
でも、何年越しで育ててきた花々がなくなつちゃったのは、
やっぱり悲しいし、見るに忍びない。
まだ、枯れたまま鉢にあって、その周りを青々とした雑草が覆っています。

さて、皆さんが本当はお楽しみの今日のタイトル。

あの番組で「このパンおいしい」って私が言うシーン。
どうやら、かなりな率で視聴者の皆さんお笑いになったみたいですね。

あの撮影は、実は2009年の晩秋でした。十一月。
そう、あのピンクの花…ああ、名前忘れた。花の名前もよく覚えていたのになあ…
やら、ずうっと春から咲いていたのも、
食卓を飾っていて、おまけに私の顔の端で揺れていたり。

あの撮影、私のインスピレーションが急に働いて、
今でなければ撮れない、という緊迫感の中で、
今村ディレクターに駆けつけて撮ってもらったシーンです。
あと少しで冬。次の年の春くらいには放映かもしれないし、
春の花は雪国ではなかなか咲かないから今しかない、
それがそのときのささやかな「緊迫感」でした。

翌年の春、四月。確かになかなか春らしい暖かさは訪れませんでした。
そして、私の体はじわじわと副作用に侵され始めていたのです。
撮影そのものは、家族が息子カラの個展に集まった五月の初めまでです。

だから、あの食卓シーンは、実は晩秋の冷たい風に抗って撮ったシーンなのですが、
とても貴重なものとなりました。
あのとき撮りそこねていたら、あの花いっぱいの食卓シーンも、
「このパンおいしい」シーンもありえなかった、そういうことです。

冷たい風をものともしないふうにして、
母子母子家庭話題やら、まあ、あの「キッズオールライト」の食卓シーンにも負けない?
二人の楽しい会話シーンを撮れた、そこにはこんな秘話も隠されていたのです。
「キッズオールライト」のあの青空の下での、妙な家族の組み合わせの明るい食卓シーン。
そして、私達のいまや最初で最後っぽい、まじめとお笑い半分の食卓シーン。
これは、たった今、語っているから、言っている「最初で最後っぽい」なのですが。

どちらにどうおもみを感じようと、軽みを感じようと、
それは人それぞれ、私の関与するところではありませんが、
それに、ドキュメントとフィクション。
ハリウッドと日本の田舎を比べたってしょうもありませんが、
さあ、あなたはどちらの出演者と語りたくなる人なのでしょうか。

まあ、ジュリアン・ムーアとアネット・ベニング゜と私達を並べること事態が、
冗談にすぎない、愚の骨頂的なことなのでしょう。

そりゃあ、どんなに小さな番組でも、
実際に生きている、私達の誇りと尊厳、
それが、蘇った花たちと共に、ここに大いなる幸いあり、と語りかける。
しかも、新しく出会ったビアンの友人からの花の鉢も加えられたこと、
それらを心からいつくしみつつ、
本当は「シリーズ花」にしたかった今日のブログをそろそろ結ぶことにしますね。

ありがとう。
あの花々をヒデコの誕生日にプレゼントしてくれたマユミさん。
陶芸祭の花瓶の展示に使おうとして、
鉢植えだとわかって実は私はがつかりしたのです。
ああいうときって、展示のことしか頭にありませんからね。

それから、祭が終わり、ああ、いつか植えなきゃあ、と
どこか無意識に思いつつも、
今日まで私はそのことにも着手できない日々が続きました。
そして、今日やっと植えました。

そして、あのシーンが蘇ってきたのです。
あの2009年の晩秋の一日の朝、
いつもより早くかけつけた今村ディレクターのカメラの前で、
私達は彼とできはじめていた確かな信頼関係の中で、
ほとんどカメラを意識しないで、語り合いました。
パンを食べ、野菜いっぱいサラダを食べました。
あのときは、そんな食卓で、当たり前のように咲いていた花々でした。

今は、花いっぱいの庭ではありませんが、
こんなふうに、僅かずつでも小さな花の語りかけと共に、
あの晩秋には、
ここから二時間もしないところに住んでいた
ビアンの人がいたなんて、知る由もなし、
ところが、今は、マユミさんという人と、
こうやって同志のようにやさしく結ばれている、
その至福を、土をいれ、花を立たせ、
あの野外のヒデコの手作りの、やや朽ちてきたテーブルに並べたとき、
なにか不思議なものが蘇ってくるように感じていました。

もう園芸はやれないかもしれない、
そう思ったこともありました。
でも、少しずつでもやりますね。

そうして、私達の年齢なりの花を、人生の花をも、
今一度咲かせたい、そう思いもした、そんなひとときでした。

時には一輪の花を植えるにも、深い意味が伴うことがある。
そんな天からの恵みのような、贈り物に胸にしみいるものが確かにあった。

いつだったか、ターシャデューダーのことを語ってくれた友人がいました。
今では、彼女も亡き人。
それでも、きっと彼女の庭は、花と共にあった庭は、
私の記憶の中に確かな花を咲かせ続けているように思います。

ケイコ

| 副作用ラプソディ | 16:56 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

私の5.11、そして一年、今日

今日は、2011年5月12日。
どちらかといえば、私の「副作用ラプソディ」記念日は、昨日、5.11。

昨年の5月11日、私はスリランカ人一人と、
日系ブラジル人二人の個人レッスンを三つ立て続けにした。

まだ、日本語がほとんどおぼつかなかったスリランカ人の生徒の授業の準備は、
いつもこれ以上はないというほど、時間もかけて念入りにしていた。

ところが、この日は、背中のだるさがひどくて、
体をゆすってみたり、背中をぽんぽんと軽く叩いてみたり、
それでもどうにもならないので、今度は、
力任せに叩いてみたり、で、これは体調優先だな、
という感じで、ひたすらウォーミングアップに努めた。

ついには、飛び跳ねてみたり、体操を試みたり。

三人目のクラスで、今までにない何ともいい難い
体の揺らぎというか、めまいというべきか、
発熱でもしてきたかのような、そんな異和感をおぼえた。
その頃は、声もかすれ気味だった。
何人もの授業を続けてやっても、こんな経験はそれまでになかつた。

帰路の山道。くねくねと車で上りながら、今まで感じたことのないような、
妙な不審感を、くらっとするような不安な感覚の中で覚えた。
熱い。頭が。どこが。わからない。
自分の体が自分の体でなくなるような、
そんな異様な感覚。

帰宅後、私は畳につっぷしへたりこんだ。

そして、それが、昨年の連続した日本語クラスの最後の日となった。
その時は、そんなことになろうとはつゆ知らず。

ああ、あれからも、もう一年か。
今日、あの日も教えていたスリランカ人のブディカさんに教えながら、
ふと私は沈黙した。あれから一年。
この一年とは何なのだ。
誰か、答えを出せるものなら出してほしい。
でも、彼の前では、私には沈黙しかなかった。
一言、つらかった、と言ったかもしれない。
やさしい彼は、静かに頷いたかもしれない。
そして、沈黙。

それから、さっと切り替えて今日の授業を続けた。

翌日、そう丁度一年前の今日、12日。
微熱が出たので、午後思いついたように行きつけの内科に行った。
腎炎という診断だった。
そうか、ありがちな感染か、疲れか。

しかしそれは違っていた。今にして思えば。
今にして思えば、この内科の医師さえ、薬剤性の腎炎だった可能性は十分にある、
と後になっていうのに、この薬剤を処方していた心療内科の医師は、
十月に会ったとき、いとも非科学的に言い切ったものだった。
薬剤性の腎炎などありません、と。
むろん、十月にその医師に会う前に私も調べてはいた。
薬剤性の腎炎というものが存在することを。

微熱は抗生剤をのんですぐ下がった。
軽い腎炎だから、仕事も続ければいい、と内科の医師は言った。
しかし。
しかしながら、私の体はもう仕事へと復帰する力を残していなかった。

「のえルーム」を三月末に閉じるにあたって、
そういった時期はつらかろう、という心療内科の医師の見込みで、
一錠か二錠から、三錠に増量された、軽いはずの抗ウツ剤が、
すでにじわじわと私の体の許容量をこえて、
私の心身をむしばみ始めていて、
腎炎は、賢く正直な体が発していた警鐘だったのだと私は解釈している。

私は授業を続けられなくなって落ち込んだ。
しかも、ブディカさんがヒデコの個展のための写真を撮りに、
ベロ亭を訪ねてきてくれたときも、
ほとんど外に出られず寝たきりで、
なんてことなんだ、と先の見えない思いにとらわれた。
本来なら、生徒と先生という立場を抜きに
楽しむ時間になったかもしれなかったのに。

追い討ちをかけるように、ひとりの身内との小さかったはずの問題が、
私の中で解決されないまま、大きく、とどまりようがなく膨らんでいくことを、
すでに私はどうすることもできなくなっていた。
ああ、私はもうこの家族の一員であることすらできないような、
そんな状態になっている、そう自分を追いつめる、
言うに言われぬ焦燥感にかられた。

それもまた、今なら、紛れもない副作用であったと判る。

私に、想定外の重大な副作用をもたらした抗ウツ剤レスリンは、
薬剤パーキンソンだけではなく、その頃、「焦燥感」という余計なお世話の
プレゼントさえしていてくれたのである。

そんな折の診察時、私は初めてこう言った。
「こんなんじゃあ、生きている意味がない」と。
心療内科や精神科の診察時にはしっかり自分を見きわめて、
言わないようにすらしている言葉、ちらりとかすめてもけっして言わない言葉。
それを、その日は口に出さずにはいられなかつたのである。
心療内科の医師は言った。
「どうせ、腎炎で寝ているなら、もっとレスリンを増やしましょう。
そう、百ミリグラムにしてみましょう」と。

ここの叙述については、恐るべき肝心さと念入りの注意深さで、
少しでも精神医療に携わっていたり、
精神科や心療内科に通っている人なら、
読んでいただきたいところである。

ここで、彼は、つまり私の心療内科の主治医は、
「おかしいですね。それは。歩き方もおかしくなっているとか聞きますし、
副作用の可能性もありますよね」と気づかねばならなかったはずだ。
現に、つきそって行ったヒデコは、
この折にも、その前のときにも、
三月末に増量して以来の私の変化をきわめて具体的に
彼に告げ続けていたからである。

いびきが大きくなった。睡眠時無呼吸症候群では?
声が小さくなった。力がない。
それまでの「のえルーム」ではもっとしっかり話していたのに、
どこか声に力がなくなっている、そうヒデコは感じ取っていたのだ。

そして、あの5月11日。
ヒデコは、私の歩き方が奇妙になったことに気づいている。
もちろん、副作用のせいなどと思わないから、
うつが悪くなって、精のない歩き方になったせいとでも思っていたのだろう。
「なんか、妙な歩き方だけど、かわいらしい。どうしたんだろうね。」

ここに一枚の写真がある。その日、その時、撮った写真。
今となっては、紛れもない証拠写真。
薬剤パーキンソンの始まりを証すはずの。

それから。
それから、私はマーケットでの買い物を最後まで続けられなくなった。
立っていられなくなって、それまでもカートにかじりつくように、
おおいかぶさるようにやって買い物していたのだが、
それもある程度の時間しか耐えられず、
へたり込むように椅子に座り込んだ。

そんなことが何回かあった。

5月末、陶芸祭り。
あとにも先にも、はじめて、私は全面的に手伝うというか、
ヒデコと共にできない祭りとなった。
深夜、展示に手間取っているらしい様子に、
なんとか出向いて、ちょちょちょとよたつきながらも私が並べ替えると、
なんとか様になったのを見て、手伝いに来ていたヤエが、
ケイコチャンが魔法を使った、と言ったのが記憶に残っている。

わずか二十分ほどでも、その時はまだ、
「魔法」を使える力が残っていたのである。

開催機関の三日間、
私は私の様子を見に来てくれた息子と共に、
午後遅めに会場のベロ亭のテントに出向いた。

いつものように一人、二人と接客をする。
お客さんの顔の方向に回りこんで、こちらに思いを引き込むやり方で。
やろうとする。なんとか。そして、やる。何度か。

だが、その後すぐに、前の芝生に私は座り込み、
はたまた、体を横たえた。そうするしかどうしようもなかった。
思えば、あと十日ほどで、副作用と発覚する直前の日々。

息子と先に帰ってきて、
ジープだったせいもあり、つまりパワステではないので、
車の幅寄せの感覚が狂い、
隣の家の車庫にどわっーと傷をつけてしまうほどのことにもなった。
そのどさくさに息子の足を少しだが何と言うことか轢いてしまい、
そうでなくとも忙しい盛りのヒデコが、
息子を病院に連れていかねばならなくなったり。

そうそう、祭りの直前には、本当に腎炎が治ったか信じられず、
というのも、背中のこわばりが一向に取れなかったからだが、
ここから車で一時間余りの福井市の評判のいい泌尿器科にまで行って、
腎炎が完全に治っているというセカンドオピニオンを得るまでしている。

この辺りから、ヒデコは私のわけのわからぬ事態に、
翻弄される日々がどうやら幕を開けてしまった感がある。

今日のところはここいらで終わりにしよう。

もうひとつの記念日。忌まわしき記念日。
それは6月8日。
レスリンの副作用の薬剤パーキンソンと判って、
ありえないほど唐突に断薬をした日。

その頃にまた、あらためて記すとしよう。
その前後からペンを起こして。
断薬以後の、死闘の日々を。

読むほうだって、書くほうだって、耐えられる限度というものがある。

ところで、今年の陶芸祭りは、
去年の切羽詰ったようやくの開催とは打って変わって、
あの番組を通した出会いに囲まれて、
私も何とか元気になった中、
いやはやどんな展開になっていくか、
楽しみといったら、やっぱり楽しみだなあ。

神様がいるとしたら、
やっぱりいろんなプレゼントをくれるんだよね。
よいプレゼントも、時になぜ? としか問いようのないきわめつけのプレゼントも。

それでも、私はそのプレゼントの意味を問う。
一緒に問うてくれた女性鍼灸師の先生。
なんと言っても、いつもどこでも何があっても、共に乗り越えようとしてくれたヒデコ。

このテーマを手放さずに、問い続けることを止めまい。

精神医療の薬剤の功罪をとことん見きわめながら。
どんなにかレスリンが助けてくれた日々があったことも、
どんなにかその副作用が想定外の苦しみをもたらしたかも、
忘れず、必要としている人にその体験を語りたいと今も願いながら。

つづきは、そういう訳で、六月初めにもちこしです。

そうそう、結びにこれだけは記しておこう。

今日は久々の鍼灸治療。
最近は十日か二週間にいっぺんの治療になっている。
一番ひどかった日々は毎日。
それからまあひどかった時には週に三回。
それが今では、こんなに鍼灸通いも人並みとなったわけで。

鍼灸師の先生、今日おっしゃいましたよ。
体は、そう、六、七割治ってきたかな。
まあ、もう少し、バッテリーの充電は必要ね。
筋力は八、九割ってところ。
使いすぎて、よろけるような時には体を使わないでよくよく休むこと。

漢方で眠れるように、またなったなら、それでいいし。
そう、眠り成分のソンソウニンを20グラムに増やしたら、
また最近、最低限かゼロの西洋薬で、
八時間ほど眠れるようにもなっています。
まだ、数日の成果ですが。

そう、もう少し、もう少しと言いながら、
もう春も終わろうとしています。

暑い夏が来たら、いやおうなく思い出すだろうなあ。
あの、すさまじき日々のことを。
あの日々の、ヒデコの信じられないほどの優しさと共に。

ケイコ

| 副作用ラプソディ | 21:44 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT