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♪階段を昇りーつめたら、今夜、飛び込んでみようかあー♬ のえの唄声のオンエアと共に

♪階段を昇りーつめたら、今夜、飛び込んでみようかあー♬ 
のえの唄声のオンエアと共に。

毎週、手伝いに来る剛くんが、日曜のその時間には、作業の手をぴたりと止めて、ラジオ放送に聞き入った。私は種をまきながら、英子の話をはじめて感心しながら聞き(生放送の時は、自分のタイムテーブル作りに集中していた…)、やがて自ら語ったラジオの声に集中するほかなかった。春の陽射しの中、ベロ亭の花も樹も耳傾けただろう「Sotto虹の時間」。剛くんは、庭の椅子に座って、空を仰ぐような姿勢で集中する。
英子が凸凹陶芸教室に注ぐ思いを語ったあとは、私の声が続く。リアルタイムに耳傾ける人の表情が、はじめて眼前にある。庭に急きょ持ち出した古いラジカセを少し高い所に置き周波数を合わせると、ガアガアいう雑音を少しでもなくすべく、剛くんと英子が、当然のようにアンテナを伸ばした先から線をつなぎ木の枝にひっかけ受信状態を改善する。
あたかも、少しでも自分たちが発信したものが、空中に拡散し、二度とキャッチできなくならないように。親しい眼前の視聴者が、ごく自然になにものかをキャッチするように。

2時半から3時45分の午後としては大切な時間の、放送による中断で、その日の作業が遅まり、そうやって彼が聴き取ったものを、ようやく夜遅く帰宅しようとする彼をしばし引きとめて訊いてみた。パソコンには北の友から、「ききました」とメール。どうやら、聴いたあとだろう時間に一人、「いいね」が加わった。そんなひとつひとつを、胸のつかえをほどくように、かみしめる私がいた。生放送の直後も半日ほど、そしてこの日も、作業にすぐ戻った二人からは、「おやつの時間」まで素朴な感想すら聞けず、自分の発信したもろもろが自分にずしんと返ってきて、胸がつかえどうにもならない状態に陥っていた。

2時間たたないうちの「おやつの時間」。コーヒーを飲みながら、3人で話した。
「早口で聞きとれないところがあったかもだけど、ちゃんとに話していた」と私。続けて、「でも、うっとなって泣きそうになったところとかは判らないよね」と自信ありげに私。
即座に、剛くんも英子も「それは判りましたよ」「判った判ったよ、音声聴いていたら判るよ」と返ってくる。「えっ、そうなんだ」。きっと私の中の内圧の高さと、声という表象となって顕われるものとのギャップが、私にとっては「なんだこの程度なんだ」と感じたものが、彼らの耳にはそう届いた、そんな落差なのかもしれない。内圧は誰にも届かないが、そのわずかな顕われは、音声となっていたと了解するべきなのか。
「なんだか、こんなローカルFМではなくて、深夜の全国的なラジオ放送かなにかを聴いているみたいだったなあ」と剛くん。
「これだけを聴いた人たちは、恵子ちゃんのこと、どんなふうに思うんだろうね」とまた心配するような仕方なさそうな、それでも嬉しげな英子。
「明るい、しっかりとした、そんな人に映るのかな」と続く。
「ああ、それだけ聞けて、少しすっきりした」と私。
来週のカラのライブペインティングに向ける現場の整地作業や、草刈りがまたふたりの手で続けられる。私は花の植え替え、しおれかけた花の丁寧な水やりと走り回る。

工場に就職して、フルタイムで働くだけではなく、残業もきわめて多い最近の剛くんは、かなり疲れ気味である。夕飯の頃は、3人ともへとへと。前日の土曜は、英子がチェーンソーで切った木を、マキ割りしてもらったりもした。ふと見ると、今まで見たこともない真剣そのものの顔で、マキ割りに向かう彼の顔を土曜のあるタイミングで見て、はっとする。

夕飯後、続けてもらっている、各地の過去のキャラパン先のリスト作りを剛くんは、それでも続ける。英子がフォロー。ほとんどタッチしていない私も、たまたま聞こえてきた事柄が、私の部屋のキャラバンのノートを見ればすぐ判ると察して、2階に上がったり。
1981年から30年ほど続けた、全国600カ所余りを巡った各地の開催場所や世話してくれた人たちのリスト化では、「うん、そこはね。あんなに有名になる前の『べてるの家』の支援者が北海道の浦河で支えてくれたキャラバンの次の開催なんだよ」などと伝えると、「なんか、すごい歴史をたどっているんだなあ」と彼は感慨深げにのめり込んでいく。

以下、剛くんからの、放送の印象の聞き取り、『断片的なるものの社会学』風に!?
「恵子さんの語りは、スケールがすごいなあ。NHKの全国放送の深夜のラジオでやっているような、著名な人物がしゃべっている、知っている現場のリアリティを知らせるような新鮮さがありましたね。
日本社会がこういうふうに見えるんだ、という面白さが伝わってきた。
「視点・論点」というのかな。なんというのかな。いつもやっているような…。
まさに、日本が今、必要としている、そんな感じでした。」
私の話は、「喪失体験」と「それをどう伝えるのか、伝えないのか」というテーマが中心と言えた。むろん、究極の喪失としての「自死」に集約するところははずせない。
彼の語りは途切れ途切れながら、続いていく。
「聞きながら、戦争の話のような…それも大きな喪失体験なんだな!って。そういうことも語られないままで来てしまったことが浮き彫りになるような、そんな話…。」
たしかに、私は身近な喪失体験としての個人史の語り継ぎも、日本史や世界史のありかたも同じおもみをもって語っていた。

やがて、「リメンバーのえの時間」へと、剛くんとの対話は入っていく。彼の主だった関心は、やはり、のえの唄と唄う姿勢の周辺だった。
「あの最後の『木曜日』の「こわくなって、戻ったー♬」って、どういう感覚なのかな。厳しい現実を見て、自分の力で認識できないことに直面して、戻ってみる…そう常に体感していたのかな。悔しくもあり、仕方なくもあり、なんかどうしようもない、今はそうするしかない、自分の気づきの唄としてある。そういう唄として聴いていた…。
「うらやましい」って思った。路上でも、取っ組み合いのケンカをするくらいの、濃密な人間関係を生きているんだな、って。「すべてさらけだそうかー♬」って歌詞のサラケダスってどんなこと?
路上は想像できたよ。でも、福井駅で見た時は、驚きもあったけど、うるさいなって。雑誌の範囲で、現実には僕のなかには存在しないからな。
のえさんが唄う現場を一度でも見ていたら、リアリティをイメージできたろうに…。」
私は、のえがあるインタビューに答えて、
路上で聴き手に求めることは何、に対して、「対話すること」と答えたこと、言われて一番うれしいことは?と訊かれて、「あんたの唄は嫌いだけど、気になる、と言われるとき」と答えたことを剛くんに大盤振る舞いで伝える。
(つまり、このSotto虹の読者にも相当のサービス)。

「対話ってどういうことだろう。ちゃんと結びついていないかも。不思議なコト言っているけど、それが、のえさんにとって対話なんだろうな。気になる、が気になるよ、僕は。路上でいろんな人に唄を聴かれる。こわいような、それでも素晴らしいような。
のえさん、普段から内側にある決心というか、気持ちがあって、「路上で世界と向き合った」んだろうな。僕には、内面を想像できないけど、姿がぱっと浮かんでくる。
見えている世界。同時にある危うさ。僕は経験できないことだし、誰もむろん共有できない。自分が想像できない人間だからかなあ。そう思うとステキだな。なぜかは判らないけど。ただ、信じるのが大事、そんな気もした…。」

剛くんが帰ると、メールチェックをした英子が北の友からの便りを私に伝えた。
私のしゃべりっぷりが大胆になった、とか。
あの、「なにやらマイノリティ」のところ、ちゃんとに伝わったかな、とか。
(あんな無償ボランティアの放送で簡単に伝えられないよー、って思わず心の声。かといって、本当にNHKの放送だったら、どんなふうに今現在伝えられるのか、ふっと思う。)
北海道のカゲさんの思いが結ぶのは、やはり最後の、のえの唄声だった。
「ラジオを通すとまた格別」、「こんな声、こんな唄ってないよね」、そしてこう続く。
「この特別感、誰に届いたかな」。

長年、信頼関係がある相手だから、ラジオパーソナリティーとしての変化もさりげなく。
「英子ちゃん、板についていた。」「二人のかけあいもスムーズだった。」
前半の英子の、みずから主宰する凸凹陶芸教室の真価を伝える語りには、おうっ、こんなふうに伝えたんだ、と私はいたく感心していた。ゆったりとさりげない。うまい。
大好きだった英子の陶芸教室の、月にたった4時間の時間も取れないほど余裕をなくした、現代の中学生の、学校の勉強優先の実情を、ニュートラルな視点で嘆く語りも絶妙だ。説得力がある。

英子の誠実な持久力で5年あまり月一回、続けてきた地元のFМ放送のパーソナリティー。
途中で、英子が念を押したように、1か月おきくらいに「Sotto虹の時間」を設けようかな、という気持ちが消えた訳ではむろんない。
ただし、終わったあとの言い知れぬ疲労感、あるいは徒労感。それは単なる疲労ではなく、もう一度何かを喪失してしまうような、ねぎらいも反応も報酬もないとしても、これほどまでのことを語る、という、私にとってやるせなくも繰り返されてきた課題だ。
剛くんと英子と語り合って、入り込みそうな穴ぼこに入る手前で、私は救われたけれど、ねえねえ、私の肉声で聞くSotto虹はどうだったんだろう。
遠くの人にも、知らない人にも、もしも聴いていたなら、訊ねてみたいものだと思った。と同時に、それはもういい、とも思った。
矛盾する思いがせめぎあう。それでも、翌日には浄化された心持ちをすっかり取り戻す。

今日の夜、放送を聴いた、あるかたから、メールがいただけることになっている。この文面を17日火曜の明るいうちに読まれたかたは、また夜遅くか、明日18日にでも、再び確認してほしい。この末尾への加筆となるだろうから。

ああ、放送。ああ、Sotto虹!!

2016年5月17日夕方4時半    Sotto虹主宰・米谷恵子

追記⇒本日、夜9時半に届いていた、かおるさんからの放送の印象を伝えてくださったメールについては、次のの投稿とし、すぐにアップします。

リーチ80人
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| のえと共に | 08:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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のえの蔵書より見出した今日の詩……もしもきみが朝ならば かならず鳴り始める目覚まし時計があるはず

のえの蔵書より見出した今日の詩……もしもきみが朝ならば

急行列車の止まらない駅があるように
急行列車の止まらない悲しみがある
そんなひっそりとしたかなしみに
胸が虫食われちゃったら
ぼくの言葉を思い出すんだ
こころだって何回も脱皮するのさ


せみのぬけがらが
夏の日射しに透明になっていたら
そこからひとつのたましいが
かつて巣立っていったということさ
学校の先生が
りんごは何の役に立つのかときみに聞いたら
なぜすべてのものは
役に立たなければいけないのか? と
そっとつぶやいてごらん

もしもきみが朝ならば
かならず鳴り始める目覚まし時計があるはず
そしてその音にとび起きて
一日を始める少年もいるだろう
そんな少年がいつの日にか成長して
きみに握手を求めてきたとき
きみは誇らしげに握手できるはずさ

だから今日も勇気を出して
挨拶するのさ
そう
かなしみよ こんにちは
かなしみよ さようなら

詩とマンガと小説!『少年文芸』創刊号 巻頭詩  作者無記名

今日から私の書斎は春である。いや、朝である。
そこで山のように埋もれ、かさなり、ごちゃごちゃの極限状態になった部屋を片づけることから始めた。
娘ののえの蔵書から何十冊もこの部屋に持ってきていた何冊かを、特に野宿関係のものを、「リメンバーのえルーム」に戻す。入れられる棚を探す。そのついでに、もうすぐ誕生日を迎える高一の孫にふさわしい何冊かの本を発見する。
挙げた詩は、その一冊の巻頭にあって、ぶるっときた詩である。

のえはこの『少年文芸』創刊号をどんな気持ちで購入したのだろうか。刊行は2005年5月とある。
巻頭詩をパソコンで打つためにページをおりこんで、
のえが折り目のひとつもつけていないのに気づいた。
ごめん、恵子ちゃん、折り目つけちゃったわ、とふと囁く。

本の入れ替えの季節は脳細胞と心とたましいの入れ替えの季節でもある。

おととい行った隣の市の図書館には、新潮社クレストブックスの、ダニエル・アラルコンの第二作目の翻訳が新刊として並んでいて、「うわっ、あったあ」と声を挙げてしまった。
1作目の『ロストシティラジオ』に惹きこまれた、
ペルー系アメリカ人の新進。

アイヌ民族詩人の友達、戸塚美波子さんの
宝物のような『金の風に乗って』
まだ1年と満たない出逢いの
トーベ・ヤンソンの大人のための短編集
夏ごとの女二人の絆を深めた島暮らし

机の上は地層みたいにあらゆるメモ、あらゆるフライヤー、
あらゆる資料の山で、これをきれいに崩さないように置くべきところに置かなければ、
とんでもないことになっているこの書斎がますますとんでもないことになる。

自閉症スペクトラム
自殺と自死に関する本
グリーフケア、グリーフワーク、グリーフサポートに関するもの
音楽の根源にかかわる新書や文庫
のえの子どもの頃のお気に入りの「みんなのうた」
強制収容所関連の幾冊もの著作
私の毎年の手帳10冊近く
のえのそれは20冊ほど
手紙、 テープ、メモ、メモ、メモ、ファイル、ファイル…

それから、私のこの5年余りを支えてきた、
執筆とは直接かかわりないとはいえ、
心底のエールとなった、詩集、児童文学、
長田弘に柳田邦男にドストエフスキー

実はそれらは枕のすぐ後ろにあって、いつでも取り出せる。
眠れなくなったら、読むこともあった。
「わたしの20世紀図書館」「読むことは旅をすること」。
あっ、佐野洋子も忘れちゃならない。景気づけ。笑いを忘れないために。気概を保つために、私のなかに眠らされているユーモアをかきたてるにも。

ありとあらゆる辞書の類い。
類語辞典さん、お世話さま。
基礎日本語辞典は日本語学習者向けなのに役立った。

今、聴こえているのは、
のえの膨大なコレクションの中では10枚ほどという
少なさのクラシックから、
バッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ。

始まる。始まる。
本やら手帳やらにこめられた人々の過去の記憶に支えられた日々から、のえの記憶が前に出る日々がきっと始まる。

この大掃除の副産物として、やっぱり生かそうじゃないか、
のえの甥っこに、高一だもの何冊か生かしてもらえそうなものは、贈ろうじゃないか。あと数日で15歳の誕生日。
のえが逝ったその年には7歳の少年だった。
ものわかりが良すぎることも、もう少し考えてやらなきゃね。

のえの集めた本の数冊が、甥っこのこれからの人生の、
もしかしたらヒントになるのだとしたら、
ここに置いておくよりはよほどいいはずだから。

ところで、私はこんなことを書いている場合じゃないんだ。
書斎を整理整頓して…不可能だとしても少しは…
頭も整理整頓して、やらなきゃならないことがある。

春の声。
昨日の思いがけない
日系ブラジル人の私を探していた人との再会。
2月11日の敦賀の海辺での語らい。
ゆっくり書きたいことはどんどんと積もっていく。
ああ、追いつかない。

が、ここいらで今日はおしまい。
パルティータのヴァイオリンがひゅうひゅうと胸をつく。

春が来たよ。
朝が来たよ。
のえ。
間違いなく、目覚ましが鳴ったよ。

恵子   2016年3月10日午後4時半

| のえと共に | 16:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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毛利甚平さん逝く。生きていてほしかった!「うたうたい のえ」の二十代を見守った、『家裁の人」の原作者で、新宿で歌う、のえとの出逢いを血の通ったシャープな筆致で描写した…

毛利甚平さん逝く。生きていてほしかった!「うたうたい のえ」の二十代前半を見守った、
あの『家裁の人」の原作者で、サウンドレコパル1993年秋号の特集「夜に泳ぐさかな」第一回に、
新宿で歌う、のえとの二年間の出逢いを血の通ったシャープな筆致で、貴重な写真とともに六頁にわたって描写した…


まだ、知ったばかりで呆然としている。それでも、悲報にはなぜか冷静でいる私もいる。
これで、「うたうたい のえ」の本に関わる、登場人物、私を側面から真に支えてくれた人、
そして、転載許可の出ていた、稀有なノンフィクションライターの毛利さん、
と、四人もの人が亡くなられた。
あんまりだ。どうして、と絶句する。

毛利さんの、のえを描いた6頁は抜きんでた描写で、私は物書きとしても、また、のえの母親としても、
大変貴重な記録を残してくださったと感謝していた。そして、本への転載許可も得ていた。写真の提供も申し出てくださっていた。

亡くなられたという21日。私は毛利さんの話をしていた。どうされているのだろう、ふっと思っていた。
カセットブックとして出すという側面のあるこの本。その4曲もお送りして、それから、明らかに毛利さんのインタビューと思われる、そんなテープも見つかって、事実確認のために送付していた。

ストリートミュージシャンとして、新宿の東口のガード下で二番手の女性うたうたいとして、のえは知られるようになっていた。1990年代の前半のことだ。その時代の、のえをいち早く見出し、雑誌にきめこまかくもシャープな筆致で、描写してくれたのが毛利さんだった。新宿の街の描写も、その喧噪やら息吹とともになまなましく伝わってくる。

最近は、といっても5年はたつけれど、そもそも、のえの悲報も当初、連絡先が判らなくて、知らせそこねていたので、本への転載許可も含めて、お電話で2回か3回、お話ししていた。
ただ、のえの晩年のあの4曲の感想を聞き損ねたのがいかにも悔やまれる。それでも、お送りして聴いてもらえた、そのことをもってよしとするしかない。
いや、ご家族、そうおつれあいにもしかしたら、どんなふうに言っていたか、お聞きできるかもしれない。

でも、しかしだ。
それよりも何よりも、この5年間を賭けた、私が書きに書いた、のえの生まれてから亡くなるまでの日々を、毛利さんにこそ、読んでいただきたかった思いは、あまりにも大きくてどうにもならないほどだ。

生きていてほしかった。毛利さんは毛利さんで命を燃やしつくしたのだろうに。

彼が、ガード下のうたうたいに何ものかを見出す人だということが、とことん腑に落ちた感のあったのは、「宮本常一を歩く」という、一民族学者の歩いた道をもう一度、この現代に歩きなおすという、そんな紀行文の冒頭にあげた、「はじめに」を読んだときだった。彼は、ある若者に語りかけるというスタイルで、なぜ今、宮本常一なのかを書き記していた。
私は、彼が、のえを路上で見出した必然性をそこに見て、芯から頷いたのだった。
ああ、そんなことも伝えそびれてしまった。

本の完成へと、ますます気が急く。もう誰も亡くならないで、と心の奥底から溢れる思い。

のえの音楽コレクションのCD1000枚ほどのリスト化を、「のえルーム」でなんと携帯電話を駆使してしてくれたプリンちゃん。

この、のえの小学中学時代を育った地でのコンサートを実現させたKさん。

私への究極の3時間の傾聴で、あまりに精神的に厳しすぎる執筆で、もはや自分を支えられなくなっていた、
私を芯からとことん肯定し、エールを送ってくださったNさん。

そして、のえの異彩をその歌い始めの頃にすでに見出していた毛利さん。

4人もの人が、この2年の間に逝きすぎた。なんという月日だ。

毛利さん、のえへのあなたの一字一句を大切に私はこれからも完成めざして生きていきます。
あのストリートから、吉祥寺の老舗ライブハウス曼荼羅に見いだされるまでの、「うたうたい のえ」のことを、あなたがあそこまで見事に記されていたことに、私のこの5年間がどんなにか支えられていたか。

九州に戻られても、地元の少年刑務所に通ってウクレレを教えていらした毛利さん。人のために、それも這うように生きている若者、子どもたちのために、あなたはどれだけの力と心を使ったのだろう、と食道がんという病名を知りながら思います。

ありがとう。毛利さん。私は、なんとしても本を仕上げて、あなたの元にお届けします。
さあ、明日には、ご家族にお悔やみと共にご連絡もしなければ。

毛利さん、天国で、どうか、45歳になろうとしている「うたうたい のえ」の、
ずいぶんと大人になったはずの歌を、聴いてやってください。
いや、全然、相変わらず大人なんかになっていないよ、なんて言われそうですね。

さようなら毛利さん。いいえ、もう一度、よろしく毛利さん。

命を削って書かれた最後の本、さっき申し込みました。

2015年11月25日午前2時半
米谷恵子

| のえと共に | 02:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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メモリアルフラワーの紅い蕾がひとつ、ふくらみ始めたよ…釜ヶ崎の「夏祭り」に思いをはせながら…

メモリアルフラワーの紅い蕾がひとつ、ふくらみ始めたよ
   …釜ヶ崎の「夏祭り」に思いをはせながら…

 「うたうたい のえ」のシンボルカラーは、誰も忘れてはいないだろうな。そう赤。紅。のこされたエスニックな服も、布をつぎはぎしたようなデザインのコートも、野宿者にハンテンババアって愛をこめて呼ばれていたくらいで、なにもかもが赤が基調。
古着屋や、時には意を決して、高いものにも手を出してもいたみたいでした。
 

 だから、むろん、亡くなって二週間ほどたって植えた記念樹も、赤い花のにしました。「のえルーム」の一年を終えて、どあっあって何もかから放たれた私は、しばらく、とある事情もあり、車椅子になるほど衰弱し、寝込んだものでしたが、あの年、この西洋芙蓉は、ものすごく律儀に咲いていたものでした。きっかりとお盆の時期に大輪の花をいくつもつけ、きっかりとみずからの命日の頃には、大輪の花々を驚くべきことに四十余り咲かせました。

  「私は私でやるからね。頼むよ。英子ちゃん、恵子ちゃん大変だろうけど。」
そんな声が聴こえてくるような、そんな開花。まっ青な空に、赤い花が目にしみました。一日花だから、あっさりと次々と散るのも、妙に、のえに似つかわしかった。

  一昨年、あえて、野原の中央となづけた、のえ…野央らしく、車庫の隣の野原に植えたこの記念樹は、イノシシの被害を受け、周辺のミョウガタケや大株のフキとともに、根こそぎ掘り返されてしまいました。
 もうだめかな、と思いつつ、間もなく巨大な鉢を購入し、根っこだけになった記念樹を植えつけました。出てきましたよ、芽が。春を過ぎ、やがて夏にならんとする頃には、するすると大きくなりました。でも、すこし養生ねって感じで、木陰の目の届くところに置いていました。花は一つ二つ三つと、数えるほどでしたが、それでも咲きました。


  はてさて、今年。集落の田んぼが見渡せる高台に置き直した大鉢の、のえの記念樹は、手入れを念入りにしたのもあってか、養生の月日が効を奏したのか、元気を取り戻し、今では、数えると40ほどの小さな小さな蕾をつけています。
 いくつかの蕾はすでにふくらんできていて、今日ブランチ時に見ると、紅い蕾が今にも咲きそうに大きくなっているのが見えます。おお、やったあ。


  折しも、今年は釜ヶ崎の三角公園での夏祭りの情報を伝えてくれる人との出会いがありました。そして、送られてきた小さな荒い作りの、いかにもという感じのパンフレットを見ていたら、のえが釜ヶ崎で出逢っていたはずの、あの人この人を、出逢っていたはずの、あのことこのことを、まざまざと思っていました。


  当時は、鎮魂の唄を唄えるのは、のえさんとヘンリーさんだけ、と、まっさきに出番をおさえていたという話も聞き及んでいます。
  そして、はたと気づいたのです。そうか、のえがお盆に律儀にも、あんなにも大輪の花を咲かせていたのは、釜ヶ崎の夏祭りへの尽きない思いも、そこにはあったんだな、と。
  人から見れば、考えられないくらいマイペースで、自分の世界がつよくて、でも、繊細でたくましくて、一声発すれば、周囲を揺るがすほど魂の底からの歌声をとどろかせていた、そんな「うたうたい のえ」。
  ヘンリーさんも、神戸の震災で、身近な身内を一家まるごと亡くしたと聞いています。
  そして、のえも何人もの友人を、自死で交通事故で、次々と亡くしてもいました。
 
 私は今思います。
 どれほど歌にこめても、いかに表現に込めても、もはや生きる営みをつなぐことができなかった多くの人とともに、のえの2008年のその日の、その祭りを。
 やぐらの上から、少女みたいに無邪気に盆踊りを見ているその姿に驚いたという、のえよりも十は若かったというファンの男の子の感慨を。

 鎮魂の唄が唄える、ということが、どれほどの危うさをも内包していたかを思いつつ、
 「こんなによくなっていいんだろうか。もっと気を抜いてもいいやないか」
 と、じっと聴き入っていたという、音響担当の人の言葉をも思い出します。

 のえ。咲こうとしているね。
 私たちはお盆なんて本当は関係ない種族だって知っているはずだから、やっぱり釜ヶ崎の鎮魂の祭りにつらなってもいたんだね。
 それでも、私たちも、お盆がお盆でもあるような日々をも、すでに知っているんだよ。

 のえ。あなたの七年目のお盆がもうすぐ。
 そして秋らしい風が吹くと、命日が近づいていると不意に打たれるように気づく私たち。
 そのそばには、今年は、あの大輪の紅い花が、りんと咲く姿があるんだね。
 のえがまっすぐに、鶴のように喉をのばし、体中をとどろかせて歌う姿勢みたいにね。

 よみがえったね。イノシシなんて、なんのそのだよね。

 まあ、私が根っこから助けだしたのは、しばらくは忘れないでよね。



        2015年8月7日午後  恵子

| のえと共に | 15:30 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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リセット!

リセット!


人生リセットします。
のえの思い出と共に、生きます。

「ちいさな集い 悲しみにSotto虹」と、
「Sotto虹あゆみあい塾」のみ、私が使命感とともにとり行う、
営みとして継続します。

誰にも期待しません。
希望は持ちます。

絶望とも失意とも仲良くします。
それなくしては、希望は持てませんから。


私の焼けつくような悲しみと嘆きを、
誰にも影響のないように「保護」します。

私の、人をも激流に流しかねない、
滝つぼに、誰もはまらないように「努力」します。


のえとともに、そっと生きます。

そのかわり、誰も侵さないでください。


私が、37年と289日を生きた、その事実だけは、
しかとこの目で、誕生から、
亡きがらとなったその姿まで見届けた、
その人間としての姿、ありかた、声、
そのいかなる片鱗も、いかなるかけらも、
けっちらかしたり、踏みつぶしたりしないでください。


のえとともに、そっと生きます。

私が生きているあいだは。
ひでことともに生きているあいだは。



人生をリセットします。


さようなら、今までの時間。
こんにちは、これからの時間。


のえ、
ますますあなたの時間をともに生きます。

私には、何年たっても変わりません。
変わりようがありません。


どうして、
なぜ、
あなたは、
いま、
ここに、
生きて、
いないのか。


いまだに答えはありません。

あると見せかけて、
あると応えて、見せた著述に、
少なくとも、
自分だけは、
騙されません。


あなたの苦悩。
あなたのぽつねん。
あなたの笑み。
あなたの空。
あなたの掌。
あなたのこころの底。


届かなかったものを、
届かなかったものとして、

ずうっと人生に刻印します。


私の問いそのものとして。


私は問いそのものとなって生きます。

問いは、
問いそのものとなった人間は、
人を問いません。

いるだけで、
問うのです。

それで十分なのだと、
少し判りました。

わずかだけれど、
悟りました。

リセット!

リセット!


今までの日々、さようなら。
これからの日々、こんにちは。


私は問いそのものになります。


ケイコ

| のえと共に | 02:14 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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