♪階段を昇りーつめたら、今夜、飛び込んでみようかあー♬ のえの唄声のオンエアと共に
♪階段を昇りーつめたら、今夜、飛び込んでみようかあー♬
のえの唄声のオンエアと共に。
毎週、手伝いに来る剛くんが、日曜のその時間には、作業の手をぴたりと止めて、ラジオ放送に聞き入った。私は種をまきながら、英子の話をはじめて感心しながら聞き(生放送の時は、自分のタイムテーブル作りに集中していた…)、やがて自ら語ったラジオの声に集中するほかなかった。春の陽射しの中、ベロ亭の花も樹も耳傾けただろう「Sotto虹の時間」。剛くんは、庭の椅子に座って、空を仰ぐような姿勢で集中する。
英子が凸凹陶芸教室に注ぐ思いを語ったあとは、私の声が続く。リアルタイムに耳傾ける人の表情が、はじめて眼前にある。庭に急きょ持ち出した古いラジカセを少し高い所に置き周波数を合わせると、ガアガアいう雑音を少しでもなくすべく、剛くんと英子が、当然のようにアンテナを伸ばした先から線をつなぎ木の枝にひっかけ受信状態を改善する。
あたかも、少しでも自分たちが発信したものが、空中に拡散し、二度とキャッチできなくならないように。親しい眼前の視聴者が、ごく自然になにものかをキャッチするように。
2時半から3時45分の午後としては大切な時間の、放送による中断で、その日の作業が遅まり、そうやって彼が聴き取ったものを、ようやく夜遅く帰宅しようとする彼をしばし引きとめて訊いてみた。パソコンには北の友から、「ききました」とメール。どうやら、聴いたあとだろう時間に一人、「いいね」が加わった。そんなひとつひとつを、胸のつかえをほどくように、かみしめる私がいた。生放送の直後も半日ほど、そしてこの日も、作業にすぐ戻った二人からは、「おやつの時間」まで素朴な感想すら聞けず、自分の発信したもろもろが自分にずしんと返ってきて、胸がつかえどうにもならない状態に陥っていた。
2時間たたないうちの「おやつの時間」。コーヒーを飲みながら、3人で話した。
「早口で聞きとれないところがあったかもだけど、ちゃんとに話していた」と私。続けて、「でも、うっとなって泣きそうになったところとかは判らないよね」と自信ありげに私。
即座に、剛くんも英子も「それは判りましたよ」「判った判ったよ、音声聴いていたら判るよ」と返ってくる。「えっ、そうなんだ」。きっと私の中の内圧の高さと、声という表象となって顕われるものとのギャップが、私にとっては「なんだこの程度なんだ」と感じたものが、彼らの耳にはそう届いた、そんな落差なのかもしれない。内圧は誰にも届かないが、そのわずかな顕われは、音声となっていたと了解するべきなのか。
「なんだか、こんなローカルFМではなくて、深夜の全国的なラジオ放送かなにかを聴いているみたいだったなあ」と剛くん。
「これだけを聴いた人たちは、恵子ちゃんのこと、どんなふうに思うんだろうね」とまた心配するような仕方なさそうな、それでも嬉しげな英子。
「明るい、しっかりとした、そんな人に映るのかな」と続く。
「ああ、それだけ聞けて、少しすっきりした」と私。
来週のカラのライブペインティングに向ける現場の整地作業や、草刈りがまたふたりの手で続けられる。私は花の植え替え、しおれかけた花の丁寧な水やりと走り回る。
工場に就職して、フルタイムで働くだけではなく、残業もきわめて多い最近の剛くんは、かなり疲れ気味である。夕飯の頃は、3人ともへとへと。前日の土曜は、英子がチェーンソーで切った木を、マキ割りしてもらったりもした。ふと見ると、今まで見たこともない真剣そのものの顔で、マキ割りに向かう彼の顔を土曜のあるタイミングで見て、はっとする。
夕飯後、続けてもらっている、各地の過去のキャラパン先のリスト作りを剛くんは、それでも続ける。英子がフォロー。ほとんどタッチしていない私も、たまたま聞こえてきた事柄が、私の部屋のキャラバンのノートを見ればすぐ判ると察して、2階に上がったり。
1981年から30年ほど続けた、全国600カ所余りを巡った各地の開催場所や世話してくれた人たちのリスト化では、「うん、そこはね。あんなに有名になる前の『べてるの家』の支援者が北海道の浦河で支えてくれたキャラバンの次の開催なんだよ」などと伝えると、「なんか、すごい歴史をたどっているんだなあ」と彼は感慨深げにのめり込んでいく。
以下、剛くんからの、放送の印象の聞き取り、『断片的なるものの社会学』風に!?
「恵子さんの語りは、スケールがすごいなあ。NHKの全国放送の深夜のラジオでやっているような、著名な人物がしゃべっている、知っている現場のリアリティを知らせるような新鮮さがありましたね。
日本社会がこういうふうに見えるんだ、という面白さが伝わってきた。
「視点・論点」というのかな。なんというのかな。いつもやっているような…。
まさに、日本が今、必要としている、そんな感じでした。」
私の話は、「喪失体験」と「それをどう伝えるのか、伝えないのか」というテーマが中心と言えた。むろん、究極の喪失としての「自死」に集約するところははずせない。
彼の語りは途切れ途切れながら、続いていく。
「聞きながら、戦争の話のような…それも大きな喪失体験なんだな!って。そういうことも語られないままで来てしまったことが浮き彫りになるような、そんな話…。」
たしかに、私は身近な喪失体験としての個人史の語り継ぎも、日本史や世界史のありかたも同じおもみをもって語っていた。
やがて、「リメンバーのえの時間」へと、剛くんとの対話は入っていく。彼の主だった関心は、やはり、のえの唄と唄う姿勢の周辺だった。
「あの最後の『木曜日』の「こわくなって、戻ったー♬」って、どういう感覚なのかな。厳しい現実を見て、自分の力で認識できないことに直面して、戻ってみる…そう常に体感していたのかな。悔しくもあり、仕方なくもあり、なんかどうしようもない、今はそうするしかない、自分の気づきの唄としてある。そういう唄として聴いていた…。
「うらやましい」って思った。路上でも、取っ組み合いのケンカをするくらいの、濃密な人間関係を生きているんだな、って。「すべてさらけだそうかー♬」って歌詞のサラケダスってどんなこと?
路上は想像できたよ。でも、福井駅で見た時は、驚きもあったけど、うるさいなって。雑誌の範囲で、現実には僕のなかには存在しないからな。
のえさんが唄う現場を一度でも見ていたら、リアリティをイメージできたろうに…。」
私は、のえがあるインタビューに答えて、
路上で聴き手に求めることは何、に対して、「対話すること」と答えたこと、言われて一番うれしいことは?と訊かれて、「あんたの唄は嫌いだけど、気になる、と言われるとき」と答えたことを剛くんに大盤振る舞いで伝える。
(つまり、このSotto虹の読者にも相当のサービス)。
「対話ってどういうことだろう。ちゃんと結びついていないかも。不思議なコト言っているけど、それが、のえさんにとって対話なんだろうな。気になる、が気になるよ、僕は。路上でいろんな人に唄を聴かれる。こわいような、それでも素晴らしいような。
のえさん、普段から内側にある決心というか、気持ちがあって、「路上で世界と向き合った」んだろうな。僕には、内面を想像できないけど、姿がぱっと浮かんでくる。
見えている世界。同時にある危うさ。僕は経験できないことだし、誰もむろん共有できない。自分が想像できない人間だからかなあ。そう思うとステキだな。なぜかは判らないけど。ただ、信じるのが大事、そんな気もした…。」
剛くんが帰ると、メールチェックをした英子が北の友からの便りを私に伝えた。
私のしゃべりっぷりが大胆になった、とか。
あの、「なにやらマイノリティ」のところ、ちゃんとに伝わったかな、とか。
(あんな無償ボランティアの放送で簡単に伝えられないよー、って思わず心の声。かといって、本当にNHKの放送だったら、どんなふうに今現在伝えられるのか、ふっと思う。)
北海道のカゲさんの思いが結ぶのは、やはり最後の、のえの唄声だった。
「ラジオを通すとまた格別」、「こんな声、こんな唄ってないよね」、そしてこう続く。
「この特別感、誰に届いたかな」。
長年、信頼関係がある相手だから、ラジオパーソナリティーとしての変化もさりげなく。
「英子ちゃん、板についていた。」「二人のかけあいもスムーズだった。」
前半の英子の、みずから主宰する凸凹陶芸教室の真価を伝える語りには、おうっ、こんなふうに伝えたんだ、と私はいたく感心していた。ゆったりとさりげない。うまい。
大好きだった英子の陶芸教室の、月にたった4時間の時間も取れないほど余裕をなくした、現代の中学生の、学校の勉強優先の実情を、ニュートラルな視点で嘆く語りも絶妙だ。説得力がある。
英子の誠実な持久力で5年あまり月一回、続けてきた地元のFМ放送のパーソナリティー。
途中で、英子が念を押したように、1か月おきくらいに「Sotto虹の時間」を設けようかな、という気持ちが消えた訳ではむろんない。
ただし、終わったあとの言い知れぬ疲労感、あるいは徒労感。それは単なる疲労ではなく、もう一度何かを喪失してしまうような、ねぎらいも反応も報酬もないとしても、これほどまでのことを語る、という、私にとってやるせなくも繰り返されてきた課題だ。
剛くんと英子と語り合って、入り込みそうな穴ぼこに入る手前で、私は救われたけれど、ねえねえ、私の肉声で聞くSotto虹はどうだったんだろう。
遠くの人にも、知らない人にも、もしも聴いていたなら、訊ねてみたいものだと思った。と同時に、それはもういい、とも思った。
矛盾する思いがせめぎあう。それでも、翌日には浄化された心持ちをすっかり取り戻す。
今日の夜、放送を聴いた、あるかたから、メールがいただけることになっている。この文面を17日火曜の明るいうちに読まれたかたは、また夜遅くか、明日18日にでも、再び確認してほしい。この末尾への加筆となるだろうから。
ああ、放送。ああ、Sotto虹!!
2016年5月17日夕方4時半 Sotto虹主宰・米谷恵子
追記⇒本日、夜9時半に届いていた、かおるさんからの放送の印象を伝えてくださったメールについては、次のの投稿とし、すぐにアップします。
リーチ80人
のえの唄声のオンエアと共に。
毎週、手伝いに来る剛くんが、日曜のその時間には、作業の手をぴたりと止めて、ラジオ放送に聞き入った。私は種をまきながら、英子の話をはじめて感心しながら聞き(生放送の時は、自分のタイムテーブル作りに集中していた…)、やがて自ら語ったラジオの声に集中するほかなかった。春の陽射しの中、ベロ亭の花も樹も耳傾けただろう「Sotto虹の時間」。剛くんは、庭の椅子に座って、空を仰ぐような姿勢で集中する。
英子が凸凹陶芸教室に注ぐ思いを語ったあとは、私の声が続く。リアルタイムに耳傾ける人の表情が、はじめて眼前にある。庭に急きょ持ち出した古いラジカセを少し高い所に置き周波数を合わせると、ガアガアいう雑音を少しでもなくすべく、剛くんと英子が、当然のようにアンテナを伸ばした先から線をつなぎ木の枝にひっかけ受信状態を改善する。
あたかも、少しでも自分たちが発信したものが、空中に拡散し、二度とキャッチできなくならないように。親しい眼前の視聴者が、ごく自然になにものかをキャッチするように。
2時半から3時45分の午後としては大切な時間の、放送による中断で、その日の作業が遅まり、そうやって彼が聴き取ったものを、ようやく夜遅く帰宅しようとする彼をしばし引きとめて訊いてみた。パソコンには北の友から、「ききました」とメール。どうやら、聴いたあとだろう時間に一人、「いいね」が加わった。そんなひとつひとつを、胸のつかえをほどくように、かみしめる私がいた。生放送の直後も半日ほど、そしてこの日も、作業にすぐ戻った二人からは、「おやつの時間」まで素朴な感想すら聞けず、自分の発信したもろもろが自分にずしんと返ってきて、胸がつかえどうにもならない状態に陥っていた。
2時間たたないうちの「おやつの時間」。コーヒーを飲みながら、3人で話した。
「早口で聞きとれないところがあったかもだけど、ちゃんとに話していた」と私。続けて、「でも、うっとなって泣きそうになったところとかは判らないよね」と自信ありげに私。
即座に、剛くんも英子も「それは判りましたよ」「判った判ったよ、音声聴いていたら判るよ」と返ってくる。「えっ、そうなんだ」。きっと私の中の内圧の高さと、声という表象となって顕われるものとのギャップが、私にとっては「なんだこの程度なんだ」と感じたものが、彼らの耳にはそう届いた、そんな落差なのかもしれない。内圧は誰にも届かないが、そのわずかな顕われは、音声となっていたと了解するべきなのか。
「なんだか、こんなローカルFМではなくて、深夜の全国的なラジオ放送かなにかを聴いているみたいだったなあ」と剛くん。
「これだけを聴いた人たちは、恵子ちゃんのこと、どんなふうに思うんだろうね」とまた心配するような仕方なさそうな、それでも嬉しげな英子。
「明るい、しっかりとした、そんな人に映るのかな」と続く。
「ああ、それだけ聞けて、少しすっきりした」と私。
来週のカラのライブペインティングに向ける現場の整地作業や、草刈りがまたふたりの手で続けられる。私は花の植え替え、しおれかけた花の丁寧な水やりと走り回る。
工場に就職して、フルタイムで働くだけではなく、残業もきわめて多い最近の剛くんは、かなり疲れ気味である。夕飯の頃は、3人ともへとへと。前日の土曜は、英子がチェーンソーで切った木を、マキ割りしてもらったりもした。ふと見ると、今まで見たこともない真剣そのものの顔で、マキ割りに向かう彼の顔を土曜のあるタイミングで見て、はっとする。
夕飯後、続けてもらっている、各地の過去のキャラパン先のリスト作りを剛くんは、それでも続ける。英子がフォロー。ほとんどタッチしていない私も、たまたま聞こえてきた事柄が、私の部屋のキャラバンのノートを見ればすぐ判ると察して、2階に上がったり。
1981年から30年ほど続けた、全国600カ所余りを巡った各地の開催場所や世話してくれた人たちのリスト化では、「うん、そこはね。あんなに有名になる前の『べてるの家』の支援者が北海道の浦河で支えてくれたキャラバンの次の開催なんだよ」などと伝えると、「なんか、すごい歴史をたどっているんだなあ」と彼は感慨深げにのめり込んでいく。
以下、剛くんからの、放送の印象の聞き取り、『断片的なるものの社会学』風に!?
「恵子さんの語りは、スケールがすごいなあ。NHKの全国放送の深夜のラジオでやっているような、著名な人物がしゃべっている、知っている現場のリアリティを知らせるような新鮮さがありましたね。
日本社会がこういうふうに見えるんだ、という面白さが伝わってきた。
「視点・論点」というのかな。なんというのかな。いつもやっているような…。
まさに、日本が今、必要としている、そんな感じでした。」
私の話は、「喪失体験」と「それをどう伝えるのか、伝えないのか」というテーマが中心と言えた。むろん、究極の喪失としての「自死」に集約するところははずせない。
彼の語りは途切れ途切れながら、続いていく。
「聞きながら、戦争の話のような…それも大きな喪失体験なんだな!って。そういうことも語られないままで来てしまったことが浮き彫りになるような、そんな話…。」
たしかに、私は身近な喪失体験としての個人史の語り継ぎも、日本史や世界史のありかたも同じおもみをもって語っていた。
やがて、「リメンバーのえの時間」へと、剛くんとの対話は入っていく。彼の主だった関心は、やはり、のえの唄と唄う姿勢の周辺だった。
「あの最後の『木曜日』の「こわくなって、戻ったー♬」って、どういう感覚なのかな。厳しい現実を見て、自分の力で認識できないことに直面して、戻ってみる…そう常に体感していたのかな。悔しくもあり、仕方なくもあり、なんかどうしようもない、今はそうするしかない、自分の気づきの唄としてある。そういう唄として聴いていた…。
「うらやましい」って思った。路上でも、取っ組み合いのケンカをするくらいの、濃密な人間関係を生きているんだな、って。「すべてさらけだそうかー♬」って歌詞のサラケダスってどんなこと?
路上は想像できたよ。でも、福井駅で見た時は、驚きもあったけど、うるさいなって。雑誌の範囲で、現実には僕のなかには存在しないからな。
のえさんが唄う現場を一度でも見ていたら、リアリティをイメージできたろうに…。」
私は、のえがあるインタビューに答えて、
路上で聴き手に求めることは何、に対して、「対話すること」と答えたこと、言われて一番うれしいことは?と訊かれて、「あんたの唄は嫌いだけど、気になる、と言われるとき」と答えたことを剛くんに大盤振る舞いで伝える。
(つまり、このSotto虹の読者にも相当のサービス)。
「対話ってどういうことだろう。ちゃんと結びついていないかも。不思議なコト言っているけど、それが、のえさんにとって対話なんだろうな。気になる、が気になるよ、僕は。路上でいろんな人に唄を聴かれる。こわいような、それでも素晴らしいような。
のえさん、普段から内側にある決心というか、気持ちがあって、「路上で世界と向き合った」んだろうな。僕には、内面を想像できないけど、姿がぱっと浮かんでくる。
見えている世界。同時にある危うさ。僕は経験できないことだし、誰もむろん共有できない。自分が想像できない人間だからかなあ。そう思うとステキだな。なぜかは判らないけど。ただ、信じるのが大事、そんな気もした…。」
剛くんが帰ると、メールチェックをした英子が北の友からの便りを私に伝えた。
私のしゃべりっぷりが大胆になった、とか。
あの、「なにやらマイノリティ」のところ、ちゃんとに伝わったかな、とか。
(あんな無償ボランティアの放送で簡単に伝えられないよー、って思わず心の声。かといって、本当にNHKの放送だったら、どんなふうに今現在伝えられるのか、ふっと思う。)
北海道のカゲさんの思いが結ぶのは、やはり最後の、のえの唄声だった。
「ラジオを通すとまた格別」、「こんな声、こんな唄ってないよね」、そしてこう続く。
「この特別感、誰に届いたかな」。
長年、信頼関係がある相手だから、ラジオパーソナリティーとしての変化もさりげなく。
「英子ちゃん、板についていた。」「二人のかけあいもスムーズだった。」
前半の英子の、みずから主宰する凸凹陶芸教室の真価を伝える語りには、おうっ、こんなふうに伝えたんだ、と私はいたく感心していた。ゆったりとさりげない。うまい。
大好きだった英子の陶芸教室の、月にたった4時間の時間も取れないほど余裕をなくした、現代の中学生の、学校の勉強優先の実情を、ニュートラルな視点で嘆く語りも絶妙だ。説得力がある。
英子の誠実な持久力で5年あまり月一回、続けてきた地元のFМ放送のパーソナリティー。
途中で、英子が念を押したように、1か月おきくらいに「Sotto虹の時間」を設けようかな、という気持ちが消えた訳ではむろんない。
ただし、終わったあとの言い知れぬ疲労感、あるいは徒労感。それは単なる疲労ではなく、もう一度何かを喪失してしまうような、ねぎらいも反応も報酬もないとしても、これほどまでのことを語る、という、私にとってやるせなくも繰り返されてきた課題だ。
剛くんと英子と語り合って、入り込みそうな穴ぼこに入る手前で、私は救われたけれど、ねえねえ、私の肉声で聞くSotto虹はどうだったんだろう。
遠くの人にも、知らない人にも、もしも聴いていたなら、訊ねてみたいものだと思った。と同時に、それはもういい、とも思った。
矛盾する思いがせめぎあう。それでも、翌日には浄化された心持ちをすっかり取り戻す。
今日の夜、放送を聴いた、あるかたから、メールがいただけることになっている。この文面を17日火曜の明るいうちに読まれたかたは、また夜遅くか、明日18日にでも、再び確認してほしい。この末尾への加筆となるだろうから。
ああ、放送。ああ、Sotto虹!!
2016年5月17日夕方4時半 Sotto虹主宰・米谷恵子
追記⇒本日、夜9時半に届いていた、かおるさんからの放送の印象を伝えてくださったメールについては、次のの投稿とし、すぐにアップします。
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