なにをやってんの。誰かの真似しているおじいさん?
陶芸村のとある研修会場?
あらあら、なにをやってんの。誰かの真似しているおじいさん?
そう正直に素朴に思いました。
なんだか、妙に既視感のある光景だなあと思い、11月の英子のパフォーマンスを彷彿としたのです。
まさかね、あれを真似たなんてないよね、と思うくらいかさなる光景。
いやあ、ヒントにしていたりしたら、どんでん返しかもね。
むろん、やるのは大まじめな大先生に、見るのは小まじめな小先生たち。
なんか研修らしいですねえ。そういうのを「研修」って言うんです。
パフォーマンスなんて言わないらしいです。面白い。笑っちゃう。
ところで、あの時は、自主企画イベントで、持ち出しで食べ物飲み物もお出しし、むろん持ち寄りもあったけれど、英子の陶芸教室の生徒さん1人、アフリカで図画工作を教えていた友人1人以外は、いわば皆さん「素人さん」という中で、英子は、日本のどこでもやらないという新しい技法で土を積み上げていったのです。そんな技法を目の当たりにしていたっていう意識が周囲にあるなしに関わらず、彼女はやりたいこと、やるべきことはやりますからね。
でも、なぜそこに、「陶芸家」さんっていない訳ー。お友達もいない訳-。
英子のお知り合いのトーゲーカさんって、皆義理で動いているだけで、英子が獲得している海外の斬新な技法なんて、まさかね、仰々しくもエライ陶芸家さんじゃないから、無価値で意味なんかないとお思いなのよね。
アフリカの技法を財力にものを言わせて、広めようなんていう不届きな、
トーゲーカさんもどきがいらっしゃったと聞き及んでいますが、
むろんそこにあるのは、そんな「エスニック」を無神経に取り扱うのとは大違いの、
大切な物の作り方を、大切なものとして伝える、
それも「どこにもないのよー」なんて売り出したりしない、本当に大切にしたいことなのでありますぞ。。
そうやって積み上げていった、
四時間の最後のドラマは、そこにいた人だけが、知る人ぞ知るドラマとなりましたけどね。
片や、80過ぎた「エライ先生」のところには、「エライ先生」をめざすとは限らないにせよ、陶芸家さんの卵と言っては失礼かも
しれない若手陶芸家さんやら20人ほどがはせ参じていたそうです。これって私はヒジョーに素朴に不思議ーに思います。
あんたら、何しトルン。訳わからへんです。
誰か、英子をエチゼンの作家として、意図的恣意的にはみ出し者にしていやしませんか。
そうでなければありえないこと。
彼女は明るく楽しく、そしてどこまでも謙虚に、年輪を重ねた「エライ」方からも、わずかでも見るべきものがあるなら見ると
いう謙虚さを持っています。
だから、と直結するのは妙なんだけれど、若手さんたちにおおっぴらにバカにされるんだよね。時にこそこそ、時に堂々と。彼女の人格、人柄は、トーゲームラでは、「勘違いのため息」のままの歴史に埋もれています。驚くなかれ、去年なんか、人寄せパンダ扱いにしようとした人もいたくらい。「イワクニさんにちょっとハナさせて、金とってさー。1人500円くらいとってさあ。」
私は忘れません。一昨年、南米のやきものの話をこの関連でしたとき、
彼女がもらった「謝礼」?いや「車代」、3000円だったんですからね。
今も信じられない。誰もいまだ謝罪すらしない。感謝すら表明しない。
昨年は、私もちょうど一年前くらいから、片肌脱いで、トーゲームラにもの申しに出向きました。
命がけでしたよ。トーゲーカって、物を考えたくない、思考力のない人たちの群れ?って、
いう結論を出しそうなくらいです。いや、そう思っています。
結局、何にも届かない、ウツワなんかない、空虚なムラ、たまたまトーゲーを標榜しているムラ、
というのが私の結論です。そこで運良く、自分がうまくゆく道を探しているだけ。
何がブラッシュアップだ。結局、東京の百貨店やギャラリーに逆らわないタイプの、
お行儀の良い物を作っている、御しやすい若い人を集めて送り出しているだけじゃあないの。
愛想つきました。
幸い、今年はトーゲーマツリも出ませんし。もうずぅっと出ないよーだ。
必死で関わったり、相談にのったり、
向こうからお二人大好きって、飛び込んで来たので、おつきあいしてさしあげた、
とってもエライと思われている、某財団の職員の方もいらっしゃいました。
しかし、見事に蹴りつけ、踏みにじり、遠のいていかれますねえ。なんでなんで。
おかしいやん。あんたら、人間としての血と涙とか、恥ずかしさって持ってへんのかあ。
さてさて、講座の話に戻ると、さすがに80の齢を超えると、どんなに権威的だったり、ふんぞり返っている人も人間としてアクみたいなものが抜けてくるからいいんだって彼女は言います。偉いなあってパートナーとして思います。
仰々しい経歴でもなく、受賞歴なんかではむろんなく、学歴などいざ知らず、人として、物作りとして、大切にするべき人をす
る、そんな産地になるという姿勢は、ここにはおそらくほぼないのでしょう。
フレーフレー。虚構の産地の嘘のかたまり。という訳には参りません。
覚えていなくともいいよ。
こちらも忘れるしなあ。少なくとも私は、と言いつつ、飛び込んで来た人の、
迷惑感は忘れません。貢献もしてくれたけれど、あの遠のき方は尋常じゃない。
今度は、背景に物言わせて、妙なことすんなよなー。
この講座の英子の感想を一言。
「新しいことはありませんでした」。
それでも彼女は学ぶ姿勢を失いません。えーいっ。
ケイコ
あらあら、なにをやってんの。誰かの真似しているおじいさん?
そう正直に素朴に思いました。
なんだか、妙に既視感のある光景だなあと思い、11月の英子のパフォーマンスを彷彿としたのです。
まさかね、あれを真似たなんてないよね、と思うくらいかさなる光景。
いやあ、ヒントにしていたりしたら、どんでん返しかもね。
むろん、やるのは大まじめな大先生に、見るのは小まじめな小先生たち。
なんか研修らしいですねえ。そういうのを「研修」って言うんです。
パフォーマンスなんて言わないらしいです。面白い。笑っちゃう。
ところで、あの時は、自主企画イベントで、持ち出しで食べ物飲み物もお出しし、むろん持ち寄りもあったけれど、英子の陶芸教室の生徒さん1人、アフリカで図画工作を教えていた友人1人以外は、いわば皆さん「素人さん」という中で、英子は、日本のどこでもやらないという新しい技法で土を積み上げていったのです。そんな技法を目の当たりにしていたっていう意識が周囲にあるなしに関わらず、彼女はやりたいこと、やるべきことはやりますからね。
でも、なぜそこに、「陶芸家」さんっていない訳ー。お友達もいない訳-。
英子のお知り合いのトーゲーカさんって、皆義理で動いているだけで、英子が獲得している海外の斬新な技法なんて、まさかね、仰々しくもエライ陶芸家さんじゃないから、無価値で意味なんかないとお思いなのよね。
アフリカの技法を財力にものを言わせて、広めようなんていう不届きな、
トーゲーカさんもどきがいらっしゃったと聞き及んでいますが、
むろんそこにあるのは、そんな「エスニック」を無神経に取り扱うのとは大違いの、
大切な物の作り方を、大切なものとして伝える、
それも「どこにもないのよー」なんて売り出したりしない、本当に大切にしたいことなのでありますぞ。。
そうやって積み上げていった、
四時間の最後のドラマは、そこにいた人だけが、知る人ぞ知るドラマとなりましたけどね。
片や、80過ぎた「エライ先生」のところには、「エライ先生」をめざすとは限らないにせよ、陶芸家さんの卵と言っては失礼かも
しれない若手陶芸家さんやら20人ほどがはせ参じていたそうです。これって私はヒジョーに素朴に不思議ーに思います。
あんたら、何しトルン。訳わからへんです。
誰か、英子をエチゼンの作家として、意図的恣意的にはみ出し者にしていやしませんか。
そうでなければありえないこと。
彼女は明るく楽しく、そしてどこまでも謙虚に、年輪を重ねた「エライ」方からも、わずかでも見るべきものがあるなら見ると
いう謙虚さを持っています。
だから、と直結するのは妙なんだけれど、若手さんたちにおおっぴらにバカにされるんだよね。時にこそこそ、時に堂々と。彼女の人格、人柄は、トーゲームラでは、「勘違いのため息」のままの歴史に埋もれています。驚くなかれ、去年なんか、人寄せパンダ扱いにしようとした人もいたくらい。「イワクニさんにちょっとハナさせて、金とってさー。1人500円くらいとってさあ。」
私は忘れません。一昨年、南米のやきものの話をこの関連でしたとき、
彼女がもらった「謝礼」?いや「車代」、3000円だったんですからね。
今も信じられない。誰もいまだ謝罪すらしない。感謝すら表明しない。
昨年は、私もちょうど一年前くらいから、片肌脱いで、トーゲームラにもの申しに出向きました。
命がけでしたよ。トーゲーカって、物を考えたくない、思考力のない人たちの群れ?って、
いう結論を出しそうなくらいです。いや、そう思っています。
結局、何にも届かない、ウツワなんかない、空虚なムラ、たまたまトーゲーを標榜しているムラ、
というのが私の結論です。そこで運良く、自分がうまくゆく道を探しているだけ。
何がブラッシュアップだ。結局、東京の百貨店やギャラリーに逆らわないタイプの、
お行儀の良い物を作っている、御しやすい若い人を集めて送り出しているだけじゃあないの。
愛想つきました。
幸い、今年はトーゲーマツリも出ませんし。もうずぅっと出ないよーだ。
必死で関わったり、相談にのったり、
向こうからお二人大好きって、飛び込んで来たので、おつきあいしてさしあげた、
とってもエライと思われている、某財団の職員の方もいらっしゃいました。
しかし、見事に蹴りつけ、踏みにじり、遠のいていかれますねえ。なんでなんで。
おかしいやん。あんたら、人間としての血と涙とか、恥ずかしさって持ってへんのかあ。
さてさて、講座の話に戻ると、さすがに80の齢を超えると、どんなに権威的だったり、ふんぞり返っている人も人間としてアクみたいなものが抜けてくるからいいんだって彼女は言います。偉いなあってパートナーとして思います。
仰々しい経歴でもなく、受賞歴なんかではむろんなく、学歴などいざ知らず、人として、物作りとして、大切にするべき人をす
る、そんな産地になるという姿勢は、ここにはおそらくほぼないのでしょう。
フレーフレー。虚構の産地の嘘のかたまり。という訳には参りません。
覚えていなくともいいよ。
こちらも忘れるしなあ。少なくとも私は、と言いつつ、飛び込んで来た人の、
迷惑感は忘れません。貢献もしてくれたけれど、あの遠のき方は尋常じゃない。
今度は、背景に物言わせて、妙なことすんなよなー。
この講座の英子の感想を一言。
「新しいことはありませんでした」。
それでも彼女は学ぶ姿勢を失いません。えーいっ。
ケイコ
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